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夕焼けに包まれていた。
となりには人影がある。正確には影ではなく、そこにいる人間を隠すように靄がかかっている様子だ。表情や挙動を見ることはできないし、何かを話しているのかもわからない。それでも、何故か感じることができる。それはとても楽しそうな雰囲気でいて、とても優しく笑っている。その印象に、言いようのない郷愁を感じた。
足を進ませようとしたその瞬間、とてつもない悪寒を覚えた。辺り一帯の温度が下がり景色がワントーン暗くなったようにすら感じる。
隣の存在が歩を進め始めるがこちらの体は動かず言葉も話せない。悪寒に従って止めることもできなかった。
それは少し進むと、こちらを気遣うようにして振り返って手を差し伸べてくるのが分かる。かろうじて腕を動かすことができるものの、その動きは緩慢だ。悪寒はさらに強まっている。
動かない。まったうもって体が動かない。まるで走馬灯のように、時間が引き延ばされていくような感覚も覚える。警鐘はなりやまない。
緩慢な体を必死に動かし、それの手を取ろうとするも叶わない。
瞬間、何かが襲い来る。
それは目の前の存在を轢き飛ばした。スローモーションの視界に内容物が飛び散り、その欠片が空を舞う。
はじけるかと思うほどに心臓が波打ち、血流がごうごうと流れる音がとまらない。
あぁ、そうだ。こうなるんだったな。
自覚するようにそう思う。
目の前が暗くなり、地面との接触感が曖昧になる。吐きそうな感覚を覚えながらこの世界が崩れていくのを感じていくのだった。
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瞼を開け、大量の冷や汗を感じながら体を起こす。視界に移るのはよく見知った景色、自分の部屋である。カーテンから漏れ出た陽光が室内を照らしており、ワンルームに小さな冷蔵庫とその上の電子レンジ以外にはこれといった家具はない。部屋の隅には教科書や参考書、その他の本が積まれており、その上にはタブレット端末が置かれていた。衣類が数着畳まれて別の隅に置かれている。
「……また救えなかった。何をどう救えばいいのかもわからんが」
中学3年生の頃から幾度と見てきたあの夢を反芻する。もう何度も見てきたせいか今ではある程度落ち着いているが、最初の日はひどかった。滝のような汗をかいて、大量の涙が頬を濡らしていた。呼吸は乱れ、強烈な吐き気を催してすぐにトイレへ駆け込んだものだ。
時間は6時あたりを指し示している。時期は8月上旬、つい先日に大学の前期末試験が終了したため、現在はすでに夏季休業中である。
はぁ、今日はどうしようか。
さっきまで見ていた夢が何度も目に蘇る。何もできない無力感を無理やり突き付けられ、そらすことができない。
相手になんの感情も持たずにいられたならよかった。しかし、何故かは分からない、記憶もないのにアレには懐かしさを禁じえないのだ。夢を見るたびに心が引き裂かれるような痛みが体を支配してしまう。
しばらく布団の上で目をつむって、二度寝にならないようにしながら火照った体を落ち着かせる。
一息吐いてからむくりと立ち上がり、汗に濡れた服を替えながら時間を確認すると7時をまわった辺りだった。
毎度この時期は予定に悩む。何か娯楽にいそしもうにも夢が頭をもたげるおかげでなんとも言えない気持ちになるからだ。かといって何もしないでいるのは、それでかなりキツいので現実逃避は欠かせないのだが。
結果たどり着いたのが、運動。特にトレーニングである。トレーニングしている間には少しは気がまぎれてくれる。しかも体も鍛えられるので一石二鳥といえる。
運動の予定は夕方から、知り合いの親が開いているジムにお邪魔することにしよう。ついでにランニングもしておこう。
今まだ気温が上がりきっていないが、昼間から陽光の下で激しい運動を行うと熱中症で死にかねないので、適当な本を手に取り読み進める。食事は冷蔵庫の中にあったもので適当に済ませた。
しばらくの間、部屋には近くを通る車の音とページをめくる音だけが響いていた。水面に漂うように、自分の心を押し流していくように、ひたすらに文字の濁流を飲み込み続ける。ふと時計を確認すると、もう5時に近づこうとしており、時間の過ぎる速さに少し驚いてしまった。
光が薄くなり、温度も多少下がったよなと確認しながら、少し汗ばんだシャツから適当に着替える。細かい物や多少の着替えは知り合い特権で向こうに置いているので、スマホとワイヤレスイヤホンを身につけて外出した。
ジムまでそう距離があるわけではないので、大きく遠回りして向かう事にする。走り始めはローペースで、体をほぐしていくことを意識しながら走る。身体の動作を整えながら、徐々にペースを上げていく。
この時期のランニングは毎度キツいものがある。なんせひたすら意識を追い出すためのものだ。スローペースだと意味はないため、8~9割ほどの出力で脚を回し続け、少し前傾になって腕を振りながら、体の至るところを酷使してひたすらに走り続ける。
前へ、前へ。ちぎれそうになる脚や、外れそうになる肩に構いもせずに走り続ける。肺は喘ぐように空気を求め、心臓は体の端々に酸素を送り続けるためにドクドクと脈打つ。地面を弾くように蹴り、押し出すように膝を伸ばし、弓を引き絞るように腕を引き、泳ぐように宙を掻く。何度となく繰り返した動作では、これぐらいやらなければ意識を追い出しずらいのだ。
距離の目安は10㎞ほど、人通りや車通りが少ない場所を選んで、できる限り止まらないように走り続けた。目的地に到着する頃には大量の汗が道を濡らし、湯気が出るかと思うほどに燃えるように体が熱い。いくら息を吸っても酸素が足りず、かすれるような息を吐きながら何とか息を整える。周りを気にしている余裕はなかったが、道行く人がこの奇怪な様子を見ればかなり驚いただろう。
息も絶え絶えだが体の熱気が多少おさまったので、そのまま身内用に用意されている入口からジムに入室する。すると男性がこちらに話しかけてきた。
「やぁこんばんは、ソラ君。かなり走ってきたねぇ」
「……はい。飲み物もらっていいですか」
「うん、ついでに着替えてくるといい。あと、用が終わったら指導員をお願いできるかな。人手が欲しいんだ」
「わかりました。終わったら入ります」
「ありがとね。ちゃんとお礼はするよ」
相手はここのオーナーである佐藤尊さん。肌は浅黒く、服の上からも分かる程の筋肉を身にまとう肉体からは、40代も後半に来ている割に衰えを感じさせない。高校の頃から世話になっており、今年で5年目になる。
このジムにはマシンなどの一通りの器具がそろっているゾーンとは別に、試合場のような大きめのスペースが併設されており、そこで格闘技や護身術などの教室を行っている。頼まれた指導というのはこの教室の補助員である。
ロッカーに向かい、あらかじめ用意してあった服に手早く着替え、水分も補給しておく。
タオルを持ってフリーフェイトのゾーンに向かって、トレーニングを始めていく。その他マシンには人がいたのだ。ここは結構人気なのかもしれない。
合間に休憩をはさみながら、1時間弱で脚、背中、胸、腕と黙々とトレーニングを終わらせる。既にランニングのおかげで回らない脳だが、動作全てに神経を尖らせることで、ギリギリまで意識のリソースを割いていく。
最後にストレッチを行いながら、そろそろ行こうかと思っていると、そこへ話しかけてくる男が来た。
「よぉソラ、調子はどうだ?」
「柊か。いつもどおりだな。もしかしたらいいのかもしれん」
ふふんと鼻をならすように言葉尻を上げて返事をする。少し口角を上げて微笑をつくることも忘れない。必要ないと思われているだろうが、少しでも今の雰囲気を誤魔化すために、柔和な表情を作っているのだ。
「……そうか、そりゃいい。終わったんならそろそろ行くのか。親父たちも嘆きぎみだったぜ」
「おう、そろそろ行こうと思ってる。7時からは何だっけ」
「護身術だ。夏休み前で一度区切ってるから今回が初回の人、結構いるぞ。まぁ、お前もやりやすいだろ、相手的にも」
「ん? まぁ、そうだろうな。じゃあそろそろ行くわ」
「おう、まぁ俺も行くけど」
相手は佐藤柊。尊さんの息子で、中学生の頃からの縁である。髪は短く切り揃えられており、いかにもスポーツマンといった風貌の高身長イケメンである。なんとも羨ましい。中々に観察眼に優れているようで、時折こちらを見透かすような眼をすることがある。
気づかれたかなぁ、あんまり隠せてないんかな。ていうか相手的にってなんだ。
柊とともに向かうと、講座は始まる直前だった。メインに教えるのは尊さんで、これから教えることを概説しているようだ。技術面だけでなくちょっとしたトレーニングも行うらしい。
参加している人数は20人弱、男女半々。多分見学しに来た感じの人も多いんだろうと思いつつ眺めていると、その中に見知った顔がいることに気づいた。向こうもこちらに気づいたのらしく微笑んで軽く手を振ってきた。
「なぁ、なんであの子がいんの?」
「あぁ、沙希ちゃんのこと? まぁ不思議じゃないでしょ。ここ知り合いいるし」
「知り合いって俺らぐらいしかおらんだろ、しかも俺がここに通ってること教えたことないし。ちょっと離れた所に有名なジムがあるんだから、そっちのが知り合い多いだろ」
「けど、向こうにこんな講座ないだろ。あの子可愛いから知っておいた方がいい。それに、コーチが知り合いの親だし、こっちのが来やすいだろ」
「……はぁ、まぁそうだな。あんまり知り合いに会いたくないんだけど」
ひらりと躱されてしまった。
天野沙希。一つ年下であり、少し色の抜けたミドルヘア、柔らかな笑顔が特徴の少女である。高校で少し関わったが、卒業以来は特に音沙汰なかったはずだ。高校内でも深く関わったわけでもない。
それなのに、今日突然現れた。よりにもよって今日。
如何せんと思案していると、話が終わったのか尊さんがこちらを手招いている。
「今日の補助員として来てもらった、息子の柊と皇君です。二人とも十分に技術を持っているので、コツや質問等いくらでもしてください。では始めていきましょう」
基本的な構成は尊さんがやっているが、細かい部分はその他補助員が対応するように講座を進めていく。身の躱し方や手をつかまれたときの返し方、実演も交えながら講座は進んでいった。
俺たちも参加者の周りをちょろちょろしながら、質問が来た際には丁寧に対応し、それ以外の時間にストレッチ等を行って過ごしておく。彼女の性格的に何かしらちょっかいをかけられるのかと思ったが、そんなことはなく平和に時間は過ぎていった。
1時間ほどの講座が終了し、最後のストレッチも終わった。現在は参加者や尊さんとで談笑していたり、熱心な人は復習をしているようだ。柊もそこでアドバイスなどを行っている。
「やっ、先輩。久しぶり。あとお疲れ様。それでどうだった? 私の動き」
意味のないフットワークを演じながらそんなことを問うてくる。その声色は最後に会った時と相違ない。
「あぁ久しぶり。まぁ、相応のもんじゃないか? 上手くはない」
「えーなんか傷つくなーそれ。他に言い方ないんですか~」
気の抜けたような声で返答を返す。この距離感も大して変わっていない。口数の多い彼女にそれを適当にあしらう自分。
この性格のせいかちょっとしたいざこざはあったが、変わらぬ彼女の雰囲気を感じて少し安心する。
「……伸びしろが大きいってことだよ。所詮一回目だしな。誰でも最初は下手だし、何回かやれば大丈夫だろ」
「そんなもんですか。……今日はありがとうございました。それでは失礼します」
「おう。気を付けて帰れよ」
「はい、ありがとうございます」
あっけなく終わったことにちょっとした心配が再燃するも、何かあれば柊が気づくだろうと思いなおす。
そうして体の調子を確かめながら、この後にある格闘練習に備えておく。9時辺りから1時間程度、対人でスパーリングを行うのだ。今日の予定はそれで終了になる。
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教室が終了して、参加者も全員がはけた頃に新しく人たちが入ってきた。人数は5人で、その人たちは見るからに屈強そうな体躯をしている。
「佐藤さん」
「「ん?」」
「えっと、どちらでもいいんですが、この後もなにかあるんですか?」
佐藤家の人たちは目を見合わせていたが、結果的に尊さんが説明するようだ。
「じゃあ僕が。ここからはただの格闘練習だよ。誰かが教えるというよりはやりたい人が集まって試合形式で打ち合うんだ。ルールは試合う同士で決める。総合、ボクシングとか、あとたまに柔道とか。今日のメンバー的には総合よりかな」
集まってきた人たちを眺めながらそんなことを言った。集まってきた人の中には明らかに外国人のような風体の人がいたり、全体的にサイズがでかい。そんな中に、身長が170㎝程度であるソラ先輩が入っているため、余計サイズ差が強調される。
気心が知れているのか、談笑している姿からは対等な訓練相手というような印象は抱けないだろう。
「そんな時間があったんですね。案内にはなかったと思うんですが」
「まぁこれはただの自主練習だから。それに結構危険だったりするからね、あまり人には薦められないよ」
「確かにそうですね。というかあの中に先輩がいることが違和感あるんですけど、大丈夫なんですか?」
あまりにサイズの違うので、戦力的には明らかに先輩が不利のように感じる。確かに先輩はトレーニングの末に確かな肉体を持っているとは思う。運動神経が十二分にいいのも知っているが、それは相手も似たような感じだろう。
「あぁそうか、君は知らないんだね。彼、結構すごいんだよ。多分職業として多少稼げるくらいには」
それから少し高揚したように、尊さんは話を続けていく。
「彼ね、体は小さめだけどかなり強靭で、かつしなやかなんだよね。特に関節が。あと一番は体を精確に動かすセンスだね。一時に全身を完璧に連動させるから、ほぼノーモーションで強力な一撃が飛んでくるんだよね。しかも体のひねりと間接の返しだけで打つような打撃でも急所に当ててくるし、そんな無理のありそうな動きでも体を傷めない。他の格闘技の技も色々使ってくるから絶妙に手が読めないのも難点だね。鉄山靠なんか使った時は面白かったなぁ」
流れるように話続ける尊さんに、柊先輩のあきれたような冷たい視線が突き刺さっていた。尊さんは一つ咳ばらいをして先ほどまでの熱を引っ込めながら、締めるように話を続ける。
「ま、まぁそういう事だから、あんまり心配はいらないよ。あ、いやでも、この時期か……」
最後を濁すように切るので、何かあるんですかと聞いてみる。
「いやね、この時間って長くても2時間だけしか取ってないんだ、じゃないと際限なくやる人が出てくるんだよ。ソラ君とかね、この時期は特に。何かに取り憑かれたようにずっと動いてるんだ」
そういいながら尊さんはソラ先輩に心配そうな目を向ける。同じように柊先輩も彼を見ていたが、その視線には別な何かが含まれているような気がした。
「先輩がですか? あまりそんなイメージないですけど」
そこで言葉を切って、ひそめるように確かめる。
「……それって今日先輩がピリピリしていることと関係あるんですか?」
実は講座が始まるしばらく前から来ていたので、トレーニングをしているところから先輩を見ていたのだ。その目はただ集中しているというよりも何かに追い立てられているように見えて、何処か不安になる雰囲気をまとっていた。会話しているときも表面上は普段通りなのに、とげとげしい印象は消えなかった。
「僕は知らないな。彼が来たのは彼が高1の春でね、夏休みに入っていきなり雰囲気変わったから驚いたんだよ。しばらくすると落ち着くんだけどね。柊は何か知ってる?」
「まぁ、多少はな。一昨年にソラから聞いたよ。あんまり人に話すようなことでもないだろうけど……まぁこのメンバーならあいつも許してくれるだろ」
柊先輩は沈鬱そうな表情をして話し始める。先輩は基本的に温厚な人だ。少なくとも高校で接している間にその印象が崩れることはなかった。理不尽には対立するが、それでもあのような剣呑な雰囲気を放つ人ではなかった。
「まぁ、簡単に言うと目の前で人に死なれる夢を見るんだとよ」
「夢、ですか?」
ただそれだけでは要領を得ない。
「そう、夢。そのはずなのにどこまでも実感が伴う夢だ。誰か親しい人間が目の前で轢き飛ばされる夢。結末は分かっていて、何をすればいいのかもわかる、それなのに体は動かせず、声も出せない。何もできないまま、目の前で人に死なれる夢。それも一度や二度じゃない、この時期に少しでも寝れば見る夢だ。居眠りとかしたら大変だな」
暗くなりすぎないように、何でもないように話してくれるが、これはどうしようもなくどうしようもない話だ。
「先輩はどこかでそんな体験を?」
「いや、そんな記憶はないらしい。見始めたのは中3かららしいが、その時近くでそんな事故はなかったし、どこか行ったわけでもないから出先で事故に遭遇したとかでもない。本当に突然そんな夢を見るようになったらしい」
「……そうなんですか」
「あいつが憑りつかれたように動き続けるのは、気を紛らわすためなんだとさ」
言外に様々なものを含ませたような声が届く。
なんとも言い難く、なんとも惨い夢だろうか。
言葉を失って呆然としてしまう。目の前では既に打ち合いが始まっており、先輩を含めた6人がそれぞれ距離を空けて試合っている。
先輩の相手の身長は190㎝程、体重もそれに見合うだけあると思われる巨漢だった。それでもひるまず相対し、問題なく対処している。それどころか試合を優勢に運んでいるといっていい。間合いを見切ってほとんどの打撃を回避し、組付きなども身を躱している。さらには攻撃にカウンターを合わせたり、攻撃の勢いそのままに相手を投げ飛ばしたり等、傍目から見てかなりアンバランスな戦況になっている。
少しして相手を変わり、圧倒的な体格差が小さくなると、相手の攻撃を待つより積極的に前に出て攻め立てていく。ガードを的確に剥がし、フェイントを交えながら息つく暇がないほどに打ち込んでいく。
その表情に会話していた時の取り繕った色は薄く、その下にあった激情が見え隠れしている。マグマのような感情をため込み、それが他でもない自身に向けられている。
何もできない、何ができるのかわからない、何をすべきなのかもわからない、そんな迷い子のような苛立ち。そんな自分への失望や無力感、そんなものをごちゃまぜにした黒色の感情をギリギリと押さえつけるように、こぼれないように抑えつけているのが分かる。
それを見てると、先輩がコツを話すに留めて実践していなかったのは、加減できずにケガをさせてしまうと感じたからなんだろうなと勝手に納得してしまった。
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格闘練習を終わった後、晩飯と入浴を済ませて、もう日も跨る夜の自室で睡眠前のストレッチを行っている。ちなみに体の柔軟性を高めることは、可動域を広げるとともにケガの防止にもつながるので結構重要なことだ。
それにしても、なんだか妙だったな。柊はともかく天野にも不審がられてたし。そんなに大根だったか。
あと彼女は何も知らないはずだけど、もしかしたら柊が教えてたのかもな。気つかわせるのも心苦しい。
なるようになるだろと結論を後回しにして、ストレッチを続けながら今日の反省をする。
30分ほどかけて全身のストレッチを終わらせて布団に入る。この時期はあの夢を見るため、寝るのが億劫になってしまう。しかしそうすると日中に眠ってしまい、余計に状況が悪くなってしまうので、今寝ないわけにもいかない。
運動するのは気を紛らわせるためというのもあるが、全身を疲れさせることで睡眠に入らせるためという面もある。
布団に入りしばらくすると、だんだん意識が薄くなってくる。全身の疲労が容赦なく意識を淵へ叩き落してきた。暗い水底に沈み、全身がふわふわと微睡んでいく中、黒い闇が追いかけてくるような、そんな気がした。
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夕焼けに包まれた見覚えのある光景が広がっている。幾度となく、どうしようもなく見届けてきた救いようのない結末、それがまだ再生されようとしている。
いつも通り、体は鈍く重い。鮮やかなオレンジが空を染め、所々に雲をはさみながらはるか遠くへと続いている。
隣にはいつも通り黒い影……ではなく、白いシャツに黒のロングスカートの女の子だった。
年の頃は15,6辺り、身長は150半ばだろうか。髪は長く、流れるような黒いストレート。口元には微笑みをたたえていて、目元は見えず声も聞こえないが、そこから感じる雰囲気は今まで感じていたものと同じで、あの靄の正体なんだろうなと考えつく。
しかしここはあの夢だ。この結末は脳裏に焼き付いている。世界は結末へと進み続けていく。
口元が見えて多少の表情が読めるようになったせいか、今まで感じていた雰囲気をそれ以上の鮮烈なイメージが塗りつぶしていった。
いつも通り、彼女は動いていく。いつも通り過ぎて憎たらしい。最低な悪寒が体を駆け巡る中、夕焼けは血をバラまいたような紅色になり、この後の惨劇を暗示しているようで余計気分が悪くなる。体はまだ動かない。
彼女は歩み続け、振り返り手を差し伸べてくる。こちらも手を伸ばそうとする、体を動かそうとする。より一層の力を込めて飛び出そうとする。しかし、それでも緩慢な体は言う事を聞かない。
その時、彼女の口が動いた。音は聞こえない、それでも分かる、理解できる。
「私を、助けてくれる?」
語りかけるように、問いかけるように彼女は口を動かしていた。
瞬間、枷が外れたように体が動き出す。もう後悔はしないと、惨劇は繰り返させないという思いを胸に、弾丸のように飛び出していった。
彼女以外の景色はひび割れ、はじけるように砕けていった。景色が消え、視界が純白のテクスチャに包まれながらも、彼女の手をとり答える。
「絶対に助ける」
そうすると、徐々に視界が霞み始めてきた。細胞が崩れていくように、体が端から分解していくのを感じる。意識がどこかへ吸い込まれていき、その存在が完全に途絶える寸前、何かが聞こえた気がした。
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翌週、二度目の護身術講座が行われる。
「今回の講座も、先週と同じで息子の柊が補助員として来てくれています。気軽にコツなど聞いてくださいね。希望者には後でトレーニングの相談にも乗ってくれますので。では始めていきましょう」
「今日の格闘練習は5人かな、先週と同じか。柊、挑戦してきたら?」
「さすがに無理。俺はそこまでできねぇよ。そういうのはもっとできる奴に……そんな奴はここにはいないか。ほとんど他のジムに行ってるだろうしな」