5 私の願い
昔から幼馴染だけが性根の腐った私を善へと引き戻す存在なのだ。
私だけじゃ、世界を濁った目でしか見れない。
どんな存在も悪意や敵意があるように認識してしまう。
なんでもかんでも優劣をつけて見下す。
世界が真っ暗に見える。
守護の魔法の発動条件も元はと言えば、幼馴染のことを思ってだ。幼馴染が優しい性分で、彼が自分が他人を傷つけたと知ったら、心に深い傷をまた負うだろうと思ったからだ。
それさえ無ければ、私は知らない街や人がどうなろうと構わない。幼馴染を悪く思う奴や敵意を向ける奴に至っては、死ねと、殺してやると思ってる。
でも幼馴染は優しいからさ、知らない誰かでも死んだら悲しむ、自分に敵意を向けてくるような奴にも同情するし、罪悪感を抱く。昔からそうなんだ。
だって彼は、自分を虐待して来た父親にでさえそうだったのだから。
彼が実の父親から躾という建前で、怒りの捌け口として暴力を振られているのはずっと前から知っていた。
知っていたけれど、あくまで情報の一つに過ぎなかった。
彼の真っ直ぐさを思い知るまでは雑多な情報に過ぎなくて、思い知った後も別に毎日私とこうして顔を合わせて笑っていられるのだから大した問題では無いと受け止めていた。
私が両親から受けてる扱いの亜種程度の認識だった。
でも、彼が忘れたランプを届けに行った時、それがどれほど苛烈で理不尽なものか知った。
世の中の歪みという歪みを叩きつけたかのような光景に、呼吸すらも一瞬忘れた。
鼻が曲がるかと思う程の酒の匂いに、大きな音と怒鳴り声、折れた椅子に割れた皿、そんな中で幼馴染は丸くなって身を護りながら涙声で「ごめんなさいごめんなさい」と小さな声で繰り返していた。
めくれた服の下の腹には殴られた跡があった。
少し前には私に「また明日! 気をつけて帰って!」と笑顔を向けていたのに、それが信じられなくなるほどの落差だった。
いつもさ、笑ってるから大したことないと、大丈夫だと思っていた。
でも違った。それはあくまで彼が強かっただけで、我慢してただけで、彼の現実は、現状は糞みたいだった。
どうして優しくて真っ直ぐな彼がこんな目に遭うのだろう。
どうして糞みたいな奴が彼みたいな善人に理不尽な目に遭わせているのだろう。
糞みたいな奴が糞な目に遭うのは自業自得だ。
でも、彼は何もしてないだろう。何もしてないのに暴力に晒されて、誰も助けてくれない。悪人も成敗されない。
そんな理不尽が、歪みが、あるのがこの世界だけど、私はそれが許せなかった。
優しい彼が糞みたいな状況に生きているのなら、私がどうにかしなければと思った。
そんな感情で口を挟んだが、小娘の考えなしの行動なんて上手く行く筈もなく、今度は私が殴られた。
私の親は金だけ与えて放置するタイプだったから、暴力なんて初めてだった。
歳の近い子らといる時も私は立ち回りが昔から上手かったから、暴力を振られたことが無かった。
初めて感じるその痛みと恐怖を感じながら、ああ幼馴染はこんなことを毎日耐えていたのだと、それでも笑って人を信じてきたのだと思うと、冷血管の私でも涙が出た。
顔を殴られて、こんなに頭部近くを殴られたら死ぬかもしれないと思った。でもあまり抵抗する気にもならなかった。
だって、私がもしこれで死ねば、他所のしかも村の金持ちの家の娘を殺したとなれば、目の前の男もタダじゃ済まないだろうと思ったから。
そうすれば幼馴染はこいつの魔の手から逃れられると思ったから。
性根が糞みたいな私の命で、この全てが糞みたいな男から、あの真っ直ぐで綺麗な幼馴染を救えるのならそれも良いと思った。
……だけど、そうはならなかった。幼馴染が男の後頭部を酒瓶でぶん殴ったから。
普段、暴力性なんて皆無な気弱な性質なのに、私を助ける為に彼は今まで虐げてきた父親にでさえ暴力を振るったのだ。
殴った自分自身にも驚いたように目を見張る幼馴染の姿を見た。
でも、それも一瞬のことで、糞野郎がぶっ倒れたすぐに私の元へ来ると眉を下げて私を見下ろすのだ。
私の頭を抱き抱える手はガラスで切れて血に塗れていた。
真っ暗な家の中、彼の瞳はまるで星のようで、しかもあんまりにもそれが開かれたまんまでいるので、星が落っこちてくるんじゃないかと思った。
そんな中で、私の頭は碌に働いて無かったのだろう、彼に無事かと聞いた。
「無事だよ。君が助けに来たから俺は無事だよ……」
そんな私の問いにも嗚咽混じりで甲高くなった声で、彼はそう言ってくれた。
「良かった」
屑みたいな私でも、優しい君の救いに少しでもなれたのなら、こんな嬉しいことはない。
胸が暖かくて、誇らしくて、私は笑った。真っ暗で狭い家の中なのに、幼馴染がいれば、自分のあのがらんどうの家よりも温かみを感じた。
それでも私に罪悪感を抱いているのか、幼馴染の星から涙が落っこちそうになるものだから、手を伸ばしてそれを拭う。
「私も助けて貰ったから無事だよ」
「無事じゃないよ……俺のせいで」
彼の視線の先には、私が未熟故に喰らった暴力の痕跡があるのだろう。
こんなものより、よっぽど酷い怪我を何度も負っているだろうに、それが自分ではなく私のものとなると、強がることもせずに、眉間に皺を寄せて悲壮な顔をするのだ。
他人の私のことに酷く胸を痛めるのだ。
ああなんて綺麗で純真な存在だろうか。
こんな存在がいるのならばまだ世界は捨てたもんじゃない。
「違うよ。私が介入下手くそだっただけだよ」
だから私は笑った。
幼馴染がこれ以上悲しまないように。幼馴染が笑ってくれるように。この優しくて綺麗な幼馴染がこれ以上傷つくことのないように。
私が笑えば、幼馴染は素直な子だからつられて笑った。
真っ暗な部屋で笑う子供の姿はきっと第三者がいたら奇異に目に映っただろうが、生憎そこに生きてる人間は二人しかいなかった。
しばらくそうした後だった、幼馴染が急に何か思い出したかのように「親父が動かない……」そう呟いた。
さっきまで上げていた笑い声とは、反対に冷え切った小さな声と、冷水をぶっかけられたように震え出す幼馴染の姿に私は一気に冷静さを取り戻す。
幼馴染が視線を向けている方向に、同じく目を向ければ、屑が頭から血を流して全く動きもしない。
気を失っているか、死んでるかのどちらかだけど、死んでいて貰った方が気分がいいな。そんなことを思いながら私は立ち上がって、倒れた屑の側に行って脈を確認する。
死んでいた。
ざまあみろ、そう思った。
けどそれも一瞬のことで、真っ青な顔をする幼馴染を見て頭を切り替える。
私だったら、人殺しは悪いことだろうが、相手が親だろうが、自分に危害を与え続けてきた存在をぶっ殺してやったら、多分手を叩いて喜ぶ。
世間様に叩かれようと、道徳がなんだろうと、私は屑一人この世から消してやったんだとさえ思ってられる。叩く方が間違ってるって思ってられる。
だけど、幼馴染は多分そうじゃない。
例え自分に長年危害を与えてきた人間相手でも、その個人には思い入れがなくとも、人殺しをしてしまったと、悪いことをしてしまったと、罪悪感を抱いてしまう。
誰かから後ろ指を刺されたら真面目に受け止めて『罪』をまともに背負ってしまう。
だから今も、自分が悪い事をしてしまったんじゃないかって怯えている。
多分、幼馴染と私の性質は両極端なのだと思う。
私は世界も人間も常にどこかで疑うし、穢れたものだと思う。
幼馴染は世界も人間も常にどこかで信じるし、綺麗なものだと思う。
私は自分の在り方が屑だと思いつつ変えられないと知っている。
でもそれだと嫌な部分ばかり見過ぎて自分にも世界にも絶望してしまうから、まるっきり反対の性質の幼馴染が眩しくて愛おしくて憧れるのだ。
憧れて、だからこそ守りたいと思う。
「……生きてるよ」
嘘を吐いた。
そうすれば幼馴染は一瞬ホッとしたような顔をしたから、これが正解だと確信し、更に続けた。
「でも、このままここにいるのはきっと良くないから。私んちで荷物整えたら、夜が明ける前にこの村を出て二人で旅しようか」
「旅?」
私に突然の提案に幼馴染はぽかんと口を開ける。
よく呑みこめていないとは分かってはいるものの、申し訳ないが強引にこのまま話を進めさせてもらう。嘘を吐くのなら最後までやり通さなければならない。
「そう旅。どうせ、私の親なんて私なんて家にいてもいなくてもどうでもいいし、その親父のそばに居たら殴られるだけでしょ。だったら一緒に旅しようよ。そっちの方が楽しいよ」
このまま村にいたら、まず幼馴染の耳に父親が死んだことが入ることは間違いないし、幼馴染が父親殺しで叩かれるのは間違いない。
相応の訳があると知ったとしても、いらないことを口にする輩もいるだろうし、変な正義感を持った奴はいる。
そうでなくとも、幼馴染は身寄りのない面倒な子として扱われる。今まで見えないフリして蔑ろにしてきた奴らに、幼馴染が更に傷つけられる。
そんなのは許せなかったから、夜明け前に有り金持って村を出た。
それまでしても、私は多分幼馴染に嘘を吐き通せて無かったのだと思う。
普段はいつも私の後をついて歩いて笑ってたし、たまに子供だけで旅する私達に『親は?』と無遠慮に聞く輩にも『遠いところで飲んだ暮れてっと思う』と答えていた。
だけど、生きていると主張した私に、心のどこかでは違和感を感じていたのだろう。
『俺が親父を殺した』『俺、人殺しだ』『俺のせいで巻き込んだ』『ごめんなさい』『良い子になんかなれなかった』『殴らないで』『俺、屑だ』
放浪時代の焚き火番をしている時に、そう幼馴染が寝言を言って啜り泣くのを何度も見た。
起きてる時にはいつも笑ってる幼馴染が、無意識下になるとそうやって心の傷を見せるのだ。
それを聞いて悟った。私は彼の父親から彼を守り切れなかったのだと。
優しすぎて、他人の言うことを信じ過ぎて、傷ついてしまう彼の手で、あの男を殺させてはいけなかった。
物理的にではなく、計画を練って社会的にあの男を殺すべきだった。物理的に殺すにしても、私がやらなければいけなかった。
いけなかったのに、私の安易な介入の所為で、幼馴染の手で殺させてしまった。
幼馴染が実の父親を殺す機会はそれまでも多分あったんだ。だけど、幼馴染がそれを実行することは無かった。
踏み止まっていたのは、恐怖、良心? 何からなのかは分からない。
いや、そもそも殺すという発想が彼の場合頭に無かった気もする。もっと別の方法で幼馴染はあの男から逃れられたら良かった。
確実に分かるのは、
幼馴染は私を助ける為だけに自分の中で重要な一線を超えてしまったこと。
私が助けるつもりが助けられ、救うつもりが救われれ、守るつもりが守られたことだった。
「君はなんも悪くないよ。次こそは絶対私が君を守り切るから」
そう眠る幼馴染に向かって言ったのに……私は変わらなかった。
崖から落ちた私は彼に庇われた上、それで負った彼の怪我のことで頭が一杯で、得体の知れないふざけた神とかいう理不尽な存在への警戒を怠った。
呑気に彼の隣で「大切な人を守れる力が欲しい」だなんて口にした。
この役立たず。
そいつは疫病神な上、お前から大切な幼馴染を奪い傷つける輩だっていうのに普段、自分でも嫌気がするくらい疑っているのに肝心なタイミングで警戒しなくてどうする。
口にした願いだってまともに叶えられないし、だいたいそんな得体の知れないもんに願いなんて弱味を口にするな。
信じやすい幼馴染はともかく、不信な私は自分で願いを叶えるべきだ。
なのになんであの時口にしてしまったのだろう、なんで幼馴染の口を塞がなかったのだろう。
そもそも崖から落ちるな。足元の道も疑え。やるなら徹底しろ。
私がそんなんだから、落ちた時には庇われるし、肝心な時に守れなかった。
幼馴染の人生が神とかいうふざけた存在に滅茶苦茶にされた。




