第四話 シバ族のココ
「今日はお肉が食べられるわね」
左手に持った雉と兎といった獲物に目をやり、ココはくりくりとした黒目を細めた。上機嫌の時にする彼女の癖だ。
ココは天性の洞察力や身体能力の高さ、獲物に対する嗅覚の鋭さから村では猟師の一角を務めている。
今日も朝早くから愛用の弓を片手に山に入り、前日に仕掛けた罠を確認しがてらこうして獲物を仕留めるのに成功している。
木々の隙間をすり抜けて、枝葉を揺らしながら吹いてくる風がココの茶色い毛に触れ、風の運んだ色んな花の匂いの混ざりあった香りが、ココの鼻を心地よくくすぐる。
腰に括りつけた小さな袋には取り立ての茸や木の実がいくつも入っているし、今日の成果は上々だ。家で待っている両親や兄妹達も喜ぶに違いない。笑顔を浮かべる家族の姿を思い浮かべて、ココは機嫌よく村への帰り道を急いだ。
盛り上がり、絡み合った木の根のコブや苔むして滑りやすい岩々も、ココにとっては目を瞑っていても問題なくらいに通い慣れた道だ。
いつも通りにいつも通りの道を進むココだったが、彼女の鋭敏な耳と鼻はいつも通りではない臭いを嗅ぎ取り、いつも通りではない音を聴き取る。
ピクピクと彼女の耳が小刻みに動き、スンスンと鼻が小さく鳴る。
「ん?」
考えられる中でも特に不吉なのは森の妖怪が村を襲ったか、あるいは森の外の別の種族達が? どちらも可能性は低い、とココは考える。
ココ達シバ族の村があるのは、広大な山林の更に奥深い場所だ。それに森は彼女達シバ族にとって我が家の庭も同然。襲撃の前兆があればそれを見逃すとも思えない。
ではそれ以外の一体何が起きているというのだろう? 木々の隙間から煙が立ち上っている様子は見られないし、血の臭いもない。
けれどもなにが起きているのか分からない。この一点がココの胸の中に不安の種を植え付けていた。
急げ急げ、と心に急かされるままに森の中を駆けたココは、ほどなくして獣除けの策が巡らされた村に辿り着く。
そして彼女は、森での狩猟と採取を糧に暮らしている村の端に、とんでもない異物が鎮座しているのを目撃する。
「ええ!?」
ココは思わず身の丈ほどもその場で飛び上がり、手放しそうになった獲物を持ったままその異物へと向けて駆け出す。
異物の正体はひどく傷ついた姿のシュテルンだった。
左の腕と翼が付け根から失われ、左目も潰れているのか瞼を閉じたまま開く様子がない。右の脇腹も大きく抉れており、満身創痍だ。
その傷ついた体で腹ばいになり、上半身だけ起こした姿勢でココの村に訪れたらしい。
彼の体に刻まれた傷口は既にうっすらと粘液のようなもので覆われており、出血している様子はなく、彼が座っている地面も血で濡れていないところを見るに、村に来る前に血は止まっていたようだ。
シュテルンの周囲には村の同胞達が既に集まっており、輪になって突然の来訪者を見上げている。
傷ついた竜の来訪など、ココの記憶にある限り初めての出来事だ。幸い、シュテルンに暴れる様子はなく、なにか脅しているようでもない。
「みみみ、皆んな、どどど、どうしたの、この、この状況!?」
シュテルンを取り囲む輪の端に到達したココが舌を絡ませながら、それでいてシュテルンを刺激しないように小声で問いかけると、顔馴染み達が困ったような顔で振り返り口を開いた。
ココと同じく継ぎを当てた小袖や股引姿で、武器は手に持っておらずシュテルンと事を構える状況でないのが見て取れて、ココはほんの少しだけ安堵した。
「ああ、ココ、お帰りなさい。無事でよかった」
ココよりも一回り体格の良い青年と一回り年上の女性の二人である。生まれた時から見知った顔だから、お互いに気心が知れている。
「早かったわね。まあ、たくさん獲れて。流石、村で一番の猟師だわ」
状況を考えれば呑気な答えに、ココはもどかしい思いで仕方がなかったが、こんな答えが返ってくるのならば危険はないんじゃないか? と同時に思い至る。
シバ族は温厚だが警戒心は強く、悪意のある相手に対しては敏感だ。だからこそ猛獣や妖怪のひしめくこの山で、今日まで生きて来られたのだ。
「はい、ただいま! それでどうしてこうなっているの? あの竜は? 危なくないの?」
慌てるココの姿に、そうなるよね、と二人とも同情の表情を浮かべて事情を話し始める。
「そうよねえ、私達もそれを心配したのだけれど、暴れたりはしないで昔の約束のお話をしに来たみたいよ」
「今は村長が対応しているが、なにかを頼まれているみたいだぞ。危ない事にはならない様子だ。このまま穏便に話が終わればいいけどな」
どうやらシュテルンは脅迫や恫喝の為に来たのではないらしいと分かって、ココはほっと安堵した。シュテルンは満身創痍とはいえ、それでも竜となればこの村に住んでいるシバ族を皆殺しにするくらいはやってのけるだろう。
「頼みごとってなんだろう? あたし、ちょっと気になる! ごめんね、通してくれる?」
ココは輪になっている仲間達の間を縫って進み、シュテルンとその足元で言葉を交わしている村長のすぐ傍に飛び出た。
シュテルンは苦痛を堪えている様子はなく、淡々と落ち着いた声で村長に話しかけている。がっしりとした体格の村長はいつでも頼りになる村の指導者だが、流石に対峙している相手が竜となると、なんとも小さく見える。
「ではシュテルン殿、わしらへの頼みというのは……」
「そうだ。百年前に……二百年前だったか?」
「三百年前です」
はるかに巨大なシュテルンを相手に、すぐに訂正の言葉が出てくるあたり、村長はなかなか肝が据わっている。
「三百年か。まあ、小さな誤差だ。その三百年前、お前達の先祖と俺は一つの約束を交わしている。その約束については伝わっているか?」
「ええ、三百年前ごろにわしらの先祖がここら住もうと周囲の妖怪を追い払い、山を開き始めたと聞いております。
その時に獄世からの侵略が起きてこの森も戦火に呑まれ、危うく村が滅びそうになった折にシュテルン殿に助けられたと」
「そうか、伝わっていてなによりだ。内容もおおむね誤りはない。その時に助けられた礼として、お前達の先祖は子孫に至るまで一度だけ、俺からの頼みを聞くと約束を交わしている。
まあ、期限を付けないのは流石にどうかと思ったので、約束を交わした経緯が伝わっている限りとしたが、伝わっていたようでなによりだ。そして頼みとはコレだ」
シュテルンは今に至るまで、右手の中で大切に握っていた小さな命を村長の前に差し出した。シュテルンの右手が開かれて、村長やココ達の目にソレが映る。
光沢の美しい白い布にくるまれた人間の赤ん坊だ。正しくはシュテルンが作り出した人工生命だが、そうとは知らないココ達にとっては人間の赤ん坊にしか見えない。
「シュテルン殿、この赤ん坊は……?」
「元々は俺が育てるつもりだったが、色々とあってな。俺だけでは難儀しそうなので、昔の約束を思い出してお前達を頼りに来た。コレがある程度成長するまで、お前達の村で育ててもらいたい」
村長は慎重な手つきでシュテルンの手の中の小さな命に手を伸ばす。傷ついているとはいえ、竜であるシュテルンを相手に怯えている様子はなく、赤ん坊を怖がらせないように、驚かせないようにと慎重に。
そうして村長は赤ん坊を抱きあげた。村長の毛むくじゃらの手の中で、赤ん坊は健やかな寝息を立てている。村長は赤ん坊の愛らしさに目尻を下げてから、シュテルンに答える。
「それはお約束の通りですから、わしらに出来る限りのことはいたしましょう」
「そうか。それは助かる」
「ところでこの子の名前は決まっておりますので?」
「ああ、ソレの名前はバルドラッヘだ。よろしく頼む」
すると赤ん坊──バルドラッヘは自分の名前を理解しているのか、シュテルンの言葉に反応してうっすらと瞼を開いた。
バルドラッヘの右目はシュテルンから受け継いだ黄金の色に輝き、左目はかつてシュテルンに挑み、もっとも強く記憶に残っている戦士と同じ紫色に輝いている。
そして色の違う妖しくも美しい瞳には、二本足で立つ犬のようなシバ族の村長の姿が映っていた。