第一話 竜に作られた英雄バルドラッヘ
大ぶりの枝が幾重にも重なって緑の天蓋を形作る森の静寂を、人間と妖怪の争う音がかき乱していた。
人間の側は陣笠に胴丸を身に着けて長槍や弓矢の狙いを定めている足軽達の他に、錫杖を手に袈裟を纏った僧侶や狩衣に烏帽子姿の陰陽師達の姿もある。
この森に出現した妖怪退治の為に派遣された討伐隊だが、足軽達の顔には目の前の妖怪に対する怯えが色濃く浮かび上がっている。
彼らの前には真っ赤な血の色に染まった巨大な人骨が立っていた。人間の十倍はある巨大な骸骨は、人間の怨念や憎悪が凝り固まって形となり、戦で流れた血を纏ったものだ。
『赤骸』と呼ばれる極めて危険な妖怪で、これを放置すれば村の一つや二つ、簡単に滅ぼされてしまう。
更に赤骸の足元には殺された人間や動物達の骨が群れを成して、討伐隊と相対している。赤骸に殺された者は支配下に置かれ、死者の軍勢を形作るのだ。
赤骸と同じく真っ赤に染まった鹿の骨、猪の骨、狼の骨、熊の骨、更には蛇や鳥、そして人間の骨が、見えない糸で操られているように立ち上がり、討伐隊に襲い掛かっている。
討伐隊にとって誤算だったのは、彼らが赤骸の一つ前の状態、巨大な骸骨の妖怪である『大骸』を想定して編成されていた点にある。
大骸にしても殺した生き物を骨に変えて支配する力を持つが、妖怪としての格は赤骸より低く、数名の僧侶と陰陽師を加えた五十名程度の討伐隊ならば死者を出さずに討伐できるはずだった。
ところが赤骸となると、その真っ赤に染まった骨は妖気に守られて尋常ならざる硬さと膂力を得て、更には周囲に放つ妖気と血の臭いが意識を混濁させるという厄介な能力を持つ。
僧侶達が錫杖を鳴らし、経を読んで赤骸の四肢を縛る法力の鎖を作り出す。陰陽師達も呪いを口にし、印を組んで赤骸の動きを封じる呪術や呼び出した式神をけしかけて、なんとか動きを拘束しようと試みる。
だが……
「怨オオオオオオオ!!!」
赤骸ががらんどうの喉の奥から呪詛を含む咆哮を上げると、赤い骨の四肢を縛る法力の鎖は砕け散り、巨体に絡みついていた人型の紙や狼といった式神達が一斉に吹き飛ばされてしまう。
頼みの綱である僧侶達の力が及ばぬ様子に、討伐隊の者達は大きな怯えを見せてじりじりと後退し始めている。背中を見せて逃げ出していないだけでも称賛するべきかもしれないが、彼らの恐怖はどうあっても隠せるものではなかった。
「怯むな! たかが赤い骨の化け物程度に下がってどうする! 隊伍を乱すな。もう一度縛を掛けよ。まずは周りの小兵共を片付けるのだ!」
士気が著しく低下した配下を鼓舞しようと、隊長格の小柄で針金のような口ひげを生やした壮年の武士が馬上で大声を上げるが、それは然したる成果を上げなかった。
怯える馬を手綱と鐙で悪戦苦闘しながら抑え込み、隊長自身は片手に握った槍を振り回して、馬の足元に群がってくる蛇や猫といった小さな骨達を次々に打ち砕き、弾き飛ばしているが、それよりも集まってくる数の方が多い。
(ええい、大骸が相手ならばともかくやはり赤骸が相手では数が足りぬ。せめて坊主共や陰陽師を十人は連れて来なければ、赤骸の動きを抑えられぬ! かくなる上は誰ぞ城に走らせて事の次第を伝え、援軍が来るまで時間稼ぎに徹するが上策か)
討伐隊の隊長を任された彼はそれでも奮起して一つ、また一つと近づいてくる赤骸に支配された哀れな骨を砕くが、その奮闘ぶりが赤骸の注意を引いた。
赤骸が巨体からは信じられない俊敏さで駆け出し、支配下に置いた骸達を蹴散らしながら迫って、馬ごと叩き潰そうと巨大な右腕を振り上げる。
「な、ぬあああ!?」
自分に迫る赤い骨の掌に討伐隊の隊長が驚愕の叫びをあげる中、風よりも速く飛んできたナニカの一撃が赤骸の右腕を強烈に叩いて、赤骸の肘から先が無数の破片に砕け散る。
右腕を砕かれた衝撃でたたらを踏む赤骸と隊長の間に、隊長の救い主が軽やかに降り立った。音一つない静かな動作からは信じられない巨躯の主であった。
六尺半(約二メートル)に届く巨躯に白い全身鎧をまとい、関節などの隙間には黒い革の素材が覗いている。その鎧の上から雪原を思わせる眩い純白のフード付きマントを被っていた。
鎧は海の彼方にある西方の様式を思わせる意匠で、細かく分けられて腹部は動きやすさを重視して蛇腹状になっている。兜は竜を思わる造作をしており、瞳の部分は金色の玉が埋め込まれていた。
竜頭の兜に走る細いスリットにはガラス状の透明な板が嵌め込まれており、その奥にある瞳の色さえ分からない。
腰に回したベルトには刃渡りが三尺以上ある大振りの鉈が吊るされ、右手には赤骸の右腕を砕いた槍が握られている。
持ち主の身の丈にも匹敵する槍も、異国の趣を感じさせる造りで、穂先は重厚な両刃となっていて、石突から穂先まで全て金属で出来ており、片腕で振り回せる剛力の持ち主がどれだけいるものか。
「お、おお、その白い鎧兜に槍は、おぬしが噂のばるどらっへか!」
ばるどらっへ──バルドラッヘが隊長の救い主の名であり、近頃その名を知られてきた主君を持たない流浪の武芸者だった。
白い鎧兜も名前も海の向こうの異国人風で、なんとも怪しいことこの上ない人物だが、隊長が耳にしてきた風聞が確かならば、その実力はこの窮地を救うに足る。
「よもや赤骸の腕を一撃で砕くとは!?」
目の前で起きた現象が信じられず、九死に一生を得た事実をようやく認識し始めた隊長に、バルドラッヘは視線を赤骸に固定したまま話しかけた。風のない夜の海を思わせる静かな声だった。
「そこもとはお下がりを。怨恨と憎悪に塗れ、血に染まった哀れな骨は私が鎮める」
竜頭の兜の奥から聞こえてくるバルドラッヘの声はくぐもっていて、男とも女とも分からないが、隊長に異論を許さない不思議な力に満ちていた。
隊長が思わずうなずき返し器用に手綱を引き、馬の腹を蹴って後退を命じる。
バルドラッヘは正面を向いたまま、隊長が距離を置いたのを認識すると四方から赤骸に殺され、操られる骨達が襲い掛かってくるのを無視して、わずかに体を前傾させる。
「参る」
静かにバルドラッヘが呟いた。既に体勢を整え直した赤骸は、目の前の白い騎士を最大の脅威とみなし、左足を大きく振り上げていた。
尋常な生物では赤骸の重量と力に耐えられるわけもなく、また纏う妖気と毒性が殺傷力を高める。
迫る赤骸の足を無視してバルドラッヘの足が地面を踏み、くるぶしまでが埋まる。そこからバルドラッヘの脚力が解放された。
踏み込んだ地面が爆発したように吹き飛び、バルドラッヘの体が砲弾のように赤骸へと襲い掛かり、右手の槍が光の一閃となって赤骸の左足を薙ぎ払う。
右腕と同じく赤骸の左足はなんの抵抗も示さずに、バルドラッヘの一撃で足裏から付け根まで破壊の衝撃が伝播し、文字通り粉砕された。
もし赤骸に人間的な感情があったなら、馬鹿な!? と叫んで恐怖と驚愕を露にしたに違いない。
だがそんな事はバルドラッヘには関係ない。赤骸の左足を砕いた勢いのまま、俯せに倒れ込む赤骸の顔面を目掛けて愛用の槍を振り上げて、躊躇なくそれを振り下ろす。
人間の十倍はある巨大な赤骸の頭蓋骨が、バルドラッヘの一撃でこれまでのように粉となって砕け散るのを、討伐隊の面々は隊長を務める武士から足軽、僧侶、陰陽師に至るまで誰もが信じられない思いで目撃した。
更にバルドラッヘは空中で姿勢を変えると、頭を失った赤骸の体にも槍の一撃を次々と叩き込んでゆき、地面に降り立つまでの間に原形を留めぬ赤い粉の山に変えてしまった。
赤骸が討伐された事で他の骸達は支配から逃れて、赤色が抜けて元の白い骨となってその場で崩れ落ちて行く。
がしゃがしゃと骨が地面の上に落ちる音が連続する中で、バルドラッヘは悠然とした足取りで隊長の方へと歩み寄る。まるで散歩の続きをするような、戦いを終えたばかりとは信じがたい穏やかさだ。
「それでは私はこれで」
「あ、ああ。か、かたじけない。我ら一同、貴殿に助けられた。ああ、そうだ、礼は……」
「私が勝手にしたことなので、必要ありません。その代わり、この場の浄化をお早めにお願いいたします」
「おお、そうであったな。重ねて礼を申す。貴殿は我らの命の恩人だ。いつか機会が訪れたならこの恩を返す。では」
正気を取り戻した隊長が僧侶と陰陽師達に残留する妖気の浄化を命令し、部下達に被害を確認し始めた頃には、もうバルドラッヘの姿は影も形もなかった。
バルドラッヘが討伐隊の窮地に駆け付けたのは、たまたまだった。
別件の妖怪退治で近隣に足を運んだ帰り道に、強力な妖気の発生を感じ取り急行した結果、彼らの命を救うことに繋がったのである。
昼の光の中を歩くバルドラッヘには、戦いの後の高揚や疲労、血生臭さというものが欠片も纏わりついてはいなかった。
赤骸という血まみれの巨大な骨を片付けた事など、もう忘れているかもしれない。
やがて森を抜けて、遠くに見える街道を目指して向きを変えたバルドラッヘに、正面から勢いよく駆け寄ってくる小さな影があった。
バルドラッヘがその名前と武勇を知られる前から行動を共にしている相棒であり、従者であり、家族でもある相手だ。
見た目は人間のように二足歩行する犬としか言いようがない。顎下からお腹、手足の内側は白く、頭や背中などは茶色い毛皮に覆われていて、二等辺三角形の耳に黒いつぶらな瞳、顔立ちはシュッと引き締まり、凛々しさがある。
背筋を伸ばしても精々バルドラッヘの半分ほどしかない。バルドラッヘのものよりも簡素な造りだが、こちらも鎧兜を纏っているが、兜には二か所、犬の耳の形に尖っている箇所があった。
背中には風呂敷に包んだ小さな行李を一つ背負い、武器は右手に持った身の丈ほどの短槍のようだ。
突然走り出したバルドラッヘを必死に追いかけて、ようやくこの二本足で立つ犬のような従者は追いついたのだった。足を止めたバルドラッヘに向けて、犬のような従者はむん! と胸を張って問い質し始める。
「もう、いきなり何も言わずに走り出すからどうしたのかと心配したわ。バル、怪我はしていない?」
従者は女性だった。バルドラッヘをバルと愛称で呼び、両者の親しい間柄が伺える。
対するバルドラッヘは兜に手をやり、留め具の外れる音と共に外し、小脇に抱えて素顔を晒す。
さらりと絹のように滑らかな髪が零れ落ちた。
透けるように白く、本当に血が通っているのかさえ怪しい肌、うっすらと桜色に色づいた唇、天上世界の職人が精魂を込めて彫り上げた彫像のように眼も鼻も口も、顎の輪郭もすべてが整った美しさだ。
ほどけば背中な半ばまで届く長さの髪は編み込み、それから後頭部で纏められている。鎧と同じ白一色に染まり、陽の光を浴びて無数の星の光を纏っているかのように輝きを放っている。
この国の人間とはまるで違う目鼻の顔立ちだ。この時代の美醜観に照らし合わせれば、決して美しいとは言えないにも関わらず、バルドラッヘは人種の違いや美醜観の違いを越えた生物としての美しさと力強さを兼ね備えていた。
しかし膝を曲げて犬のような従者と視線を合わせてバルドラッヘの口から出てきたのは、彼女の容姿からは想像もつかない幼い言葉だった。
「心配をかけてごめんなさい、お姉ちゃん。怪我はしていないよ」
「それならよかった。貴方が怪我をしていないのが一番だから。あたしの足がもっと速かったら、バルに置いて行かれることもないのにね」
バルドラッヘがお姉ちゃんと呼んだ従者の名前はココ。バルドラッヘを赤子の頃から知り、今はこうして彼女の従者を務めている。
「お姉ちゃんはそのままでいいよ。今度、急がないといけない時には、私がお姉ちゃんをおんぶしたげる」
「ほんの少し前まではあたしが貴方をおんぶしてあげていたのにねえ。貴方って育つのがとっても早いのだもの」
この国の生まれとは思えぬ容姿と名前を持ち、人ならぬ従者と共に世を乱し、人に災いを振りかける悪鬼羅刹を討つバルドラッヘ。彼女がある竜の思惑によって作り出された命であることを、多くの者は知らない。