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人魚のはつ恋

作者: 糸木あお

 この星は温暖化によって9割が海になった。前ははんぶんだったと叔父が言っていた。イシはそれを聞いた時、信じられないと思った。物心ついた時からイシのまわりは海だった。海、海、海、そしてちょっとだけ陸。身体が弱くてあまり家から出られないイシの世界は概ねそんな感じだった。


 この世界には魚人、人魚、そして人間がいた。たくさんの魚人とそのはんぶんくらいの人魚とそのさらにはんぶんよりももっと少ない人間で構成されている。人間は海の中で呼吸ができないから陸が減れば人口も減る。緩やかに滅びゆく種族、それが人間だった。


 魚人は力があり、繁殖力も強かった。ほとんどが海になった世界は彼らのものだった。国、というくくりはなかったがルールを決めるのは魚人たちだった。人魚は海で生活できるけれど魚人ほどは強くなく、でも自分たちで生活ができていた。人間はもう魚人の愛玩物として飼育や施しをされるような立場だった。力のある魚人たちの中には人間が暮らすための建物を持っているものもいた。


 繁殖能力が強い魚人は、魚人同士でも人魚とでも人間とでも子を成すことが出来た。元々魚人と人間の間の子が人魚だった。人魚は人間とは子を成せない。魚人と人魚の間に生まれる子はだいたい人魚で人魚同士でも人魚が生まれる。稀に魚人の要素が強い人魚も生まれた。そして、人間は魚人や人魚に比べると生命力が弱くてどんどん数を減らしていた。


 人間は一度にたくさん産むことも出来ないし、そもそも妊娠期間が魚人と比べるととても長い。いつからか人間同士では子が出来なくなり魚人との子を作ることでなんとか遺伝子を繋いだ。純粋な人間の数はどんどん少なくなった。そして、ある日、最後の1人の女が死んだ。そして、弱い人間同士で子を作ることは不可能になった。


 イシはそんな弱い人間の中でもさらに弱く小さかった。季節の変わり目にはすぐに風邪を引いて寝込んだ。その度に叔父は仕事を休み、イシの看病をした。イシは献身的な叔父に支えられてなんとか成人である14歳を迎えた。


「叔父さん、今日から僕は成人になりました。何か仕事をしたいんですが僕にできることはありますか?」

「イシ、お前が働きたい気持ちもわかる。でも、体力がないお前ができる仕事はほとんどないんだよ。だから、海に行って魚人様に気に入られるのがいちばん長生きできる方法だ。このまま私と一緒に暮らしていてもきっと先は長くない。だからまずは魚人様に出会えるように港に行きなさい」


「わかりました。魚人様に気に入られるように港に行きます。僕は魚人様に会ったことがないんですが何か気をつけることはありますか?」

「言葉遣いを気をつけていれば大丈夫だ。お前は可愛い顔をしているからきっと気に入られるよ」

「わかりました。それじゃあこれから港に行ってきます」


 イシは道に敷き詰められた石の白い部分だけを踏んで港に向かった。途中に咲いていた黄色い花を摘んで左手に持って歩いた。ふわふわとした花は美味しそうだけど残念ながら食べられなかった。イシは前にそれを美味しそうだと思い口に入れたことがあったが苦くてとても食べられたものではなかった。


 港に着くまでには誰にも会わなかった。みんな働いている時間なのだ。船もほとんど出ていて波の音しかしなかった。生ぬるい風と磯の匂いがした。家のまわりの海とは少しだけ違うようだった。


 イシは黄色い花を海に投げてそれが沈むのをじっと見た。小さな泡が水面に浮かんで花なんてなかったかのように波が揺れた。


「あら、こんにちは。あなた、人間?」

「ああ、そうだよ。君は?」

「わたしは人魚よ。人魚のオルガ。あなたの名前は?」

「僕はイシだよ。オルガ、よろしくね」

「うん! わたし、人間のお友達は初めてだわ。あなたみたいに若い人間も初めて見たし」

「僕も人魚の友達は初めてだ。いや、友達自体初めてなんだ。身体が弱くてずっと家にいたから。だから、友達が欲しかったんだ。僕は叔父さんくらいしか話をしたことがなくって」


 イシはオルガに手を差し出した。それを見てオルガは不思議そうな顔をした。


「なあに? それ」

「握手だよ。仲良くなるためのおまじないなんだ。この前読んだ本に書いてあったんだ。ほら、僕の手を握ってみて」

「うん。あら、あったかい。人間ってあたたかいのね」

「君の手はとてもつめたいね」

「人魚の中ではきっとあたたかいほうよ」


 オルガはそう言うと尾びれを揺らしてちゃぷちゃぷと音をさせた。それからイシのことをじっと見つめた。


「ねえ、あなたの足を見せてくれない?」

「良いけど。それなら君の尾びれを見せてよ。交換条件だよ」

「見ても面白くないと思うけど、でも良いよ。見せてあげる」


 港の船着場にオルガがやって来て舫い杭の上に座った。オルガの尾鰭は二股に分かれていて人間の足にも似ていた。イシはオルガの青くてキラキラ光る鱗を触ってみたいと思った。


「ねえオルガ、その鱗を触っても良い?」

「良いわよ。でも剥がさないでね、痛いから」

「うん」


 オルガの鱗はつるつるとしていてとても綺麗だった。びっしりと生えた鱗を間近で見るのは初めてだったのでイシはじっとそれを観察した。


「そんなに面白いかしら? 次はわたしの番ね。イシの足を見せて」


 イシはズボンを脱いで下着一枚になりその足をオルガに近付けた。オルガは興味深そうにイシの脛を触り、太ももを押し、土踏まずを撫でた。オルガの手がくすぐったくてイシは身体をよじらせた。


「オルガ、くすぐったいよ」

「あら、ごめんなさい。ねえイシ、人間ってみんなこんな風になってるの?」

「そうだよ。と言っても叔父さん以外の人間のことはあんまり知らないけど……。叔父さんは大人だから僕とちょっと違うけど時間が経てば叔父さんみたいになるはずだよ」


「ふうん。こんなふうになってたら上手く泳げないんじゃないかしら?」

「人間はあんまり泳がないからね。まわりは海だけど僕は身体が弱いから泳いだことがないんだ。漁師の人たちの中には泳いだりもする人もいるみたいだけど」

「海の中、とっても綺麗なのに、勿体ないわね」

「そうなんだ。僕もいつか魚人様に見染められたら海の底に行けるのかな?」

「そうね。きっとそうなるわ。イシは綺麗な顔をしてるもの」


 叔父さんもオルガもイシの顔を褒めてくれるのできっと魚人様に見染められるだろうとイシは自信を持ちました。


「ねえ、オルガは魚人様に知り合いはいるの?」

「勿論よ。だってわたしのお父様は魚人だもの。だからわたしの尾びれは二股なのよ」

「そうなんだ。そしたら僕に素敵な魚人様を紹介してくれないかい?」

「まあ、良いけど。お父様に訊いてみるわね。そのかわり今度陸のものをお土産に持ってきてくれる?わたしも海のものを持ってくるから」


「良いよ。何か探してくるね。次はいつ会える?」

「明日の同じくらいの時間にまた来るわ」

「じゃあ指切りをしよう」

「なあに? それ」

「約束をするってこと。ほら、小指をだして」

 

 オルガが小指を差し出すとイシは自身の小指を絡めてゆびきりげんまん、と歌い始めた。


「へんな歌ね」

「そうかな? あ、君は人魚だからやっぱり歌うの?」

「ええ、将来は歌手になるのよ」

「今度歌ってみせてよ」

「……考えておくわね」


 オルガはちゃぷんと音を立てて海の中に潜っていった。イシは人魚の家はどんな風になっているのか気になったので今度会ったときにオルガに訊いてみようと思った。


 帰宅すると叔父が大きな鍋でスープを作っていた。玉ねぎの甘い匂いがしてぐぅとイシのお腹から音が鳴った。


「おかえり、イシ。まずは食事にしようか。今日は良い出会いはあったかい?」

「うん。人魚の友達ができたよ。オルガって言うんだ。綺麗な青い鱗を見せてくれたんだ。知り合いの魚人様を探してくれるって言っていたよ」

「……そうか。良かったね。イシがこれから生きていくためにはそれが1番だよ。さぁ、食べようか」

「はぁい。いただきます」


 イシは両手を合わせてからスープを飲み、かたいパンを浸してふやかして食べた。いつも通りの味だった。海辺で冷えた身体がスープでじんわりと温まった。


「明日もオルガに会う約束をしたんだ」

「そうか。気をつけてね。そういえば、イシ、身体におかしいところはないかい?例えば、血が出たりとか」

「特にはないけど。怪我もしてないから血なんて出ないよ」

「そうか。最近病気が流行っているから身体から血が出たらすぐに私に言うんだよ。あと、人間同士でうつる病気だから人間を見かけたら逃げるんだ。もし、変なことがあれば夜中でも良いからちゃんと言うんだよ」


「怖いね。叔父さんは大丈夫なの?」

「私は大丈夫だよ。イシはウーテが残した唯一の家族だから、私は最後まで君を守るよ」

「変な叔父さん。今日はもう寝るね。あ、そういえばオルガが地上のものを何か欲しいって言ってたんだけど何が良いかな?」


「それじゃあこのしおり)を持っていきなさい。本は濡らさずに読めるなら持って行っても良いよ」

「わかった。叔父さん、ありがとう」


◇◇◇◇


「ねぇ、お父様。わたし、人間のお友達が出来たの。知り合いに誰か欲しい魚人はいないかしら?」

「そういえば知り合いのお嬢さんが人間を欲しがっていたな。聞いてみようか?」


「ええ、お父様ありがとう。その人間の子はイシっていってとっても綺麗な顔をしているのよ。あと、人間の足って変ね。今日、触らせて貰ったんだけど鱗がなくてつるつるなのよ。それに鰭がないから泳ぐのも大変そう」


「人間は泳ぐ必要はないからな。とりあえずそのお嬢さんに明日連絡してみよう」


 オルガはイシのことを面倒みてくれそうな魚人が見つかりそうで安心した。人間は弱いから魚人に保護されるのが1番良い。あの綺麗な目を見たらお嬢さんだってきっと気に入るだろう。


 オルガはイシのことを考えるとなんだか変な気持ちになった。身体の奥がむずむずしてなかなか眠れなかった。


 翌朝、オルガが港に行くとイシが舫い杭の上に腰掛けていた。その姿を見てなんだか嬉しくなった。初めての人間の友達をこれからずっと大切にしようとオルガは思った。


「おはよう、イシ」

「おはよう、オルガ。これ、お土産だよ」

「わぁ、綺麗。これは何?」

「栞だよ。こうやって本に挟んでどこからが続きなのか教えてくれるんだ」


「それってその場所を覚えるんじゃ駄目なの?」

「まぁ、それでも良いとは思うけど。でも、栞っているのはそうやって使うんだよ」


「ふうん。それよりも本って初めて見たわ。海の中にはないのよ。見せて?」

「良いよ。でも、濡らさないでね」

「ありがとう。あ、そういえばお父様が知り合いの魚人のお嬢さんを紹介してくれるって」


「本当? ありがとう。オルガに頼んで良かった」

「でしょう? 感謝してね。そのお嬢さんがイシを気に入ったら海の中でも会えるわね」


 オルガはそう言うとにっこりと笑った。笑窪が可愛い、とイシは思った。本のページをパラパラと捲るとオルガはそれをじっと見つめた。


「これはなんて書いてあるの?」

「これは小さい鳥が恩返しをする話だよ。歌が出てくるから君も気に入ると思って持ってきたんだ」

「あら、素敵。読んで聞かせて?」

「勿論。そのために持ってきたんだから」


《昔々あるところに自信をなくした赤い鳥がいました。彼は仲間の鳥のように上手に飛んだり歌ったりすることができず、毎日めそめそと泣いて暮らしていました。ある日、そこに薄汚れた茶色いマントを着た男の人がやってきたのです。彼は探し物をしていて、それを手伝って欲しいと赤い鳥に頼みました。でも、自信をすっかりなくした赤い鳥は自分にできることなんて何もないと断りました。》


「どうして断っちゃうの?」

「この鳥は、自信をなくして親切ができなくなっちゃったんだ。誰かに優しくするのは、余裕がある時にしかできないんだよ」


「そういうものなの?わたし、鳥って見たことないわ。随分昔にいなくなっちゃったんでしょう?最後の1匹が博物館にいるって聞いたことがあるわ」

「ああ、魚人の博物館には最後の生き物が全部飾られてるって聞いたことがあるな。君は見たことがある?」


「いいえ、でも今度お父様が連れて行ってくれるの。陸には色んな生き物がいたんだってね。見るのが楽しみだわ」

「死んでいるのに?」

「でも、綺麗に硝子がらすに閉じ込められているから平気よ。きっと楽しいわ」


 その日、イシは叔父に持たされたパンにチーズを挟んだものを2人でわけあって食べた。オルガの持ってきたよくわからない海藻も食べたけど塩辛かった。


「人間の食べるものって不思議ね。でも美味しいわ。もう少し味が濃い方が好みだけど」

「君の持ってきた海藻はちょっとしょっぱいね。でも変わってて面白かった」


 日が暮れるまでオルガとたくさん話をしてイシはとても楽しかった。叔父さん以外との交流をもっと早くからすれば良かったなとイシは思った。


 オルガはその次の次の日に赤い鱗がびっしりと生えた大きな魚人を連れてきた。どうやらそれがオルガの父親が紹介してくれたお嬢さんらしい。


「はじめまして。わたしはラミーよ。よろしくね」

「僕はオルガと言います。ラミー様、よろしくお願いします」

「あなた、とても綺麗な目をしているのね。海の中にはない色だわ。肌も柔らかそう。触っても良いかしら?」

「勿論です」


 ラミーはとても長い爪をしていたけれど器用に指の腹でイシの身体をそっと撫でた。それから少し考えるような仕草をしてこう言った。


「あら、あなたとは子どもは出来なさそう。でも、可哀想だからお世話してあげるわ」

「ありがとうございます。ラミー様に精一杯尽くさせていただきます」

「良かったわね、イシ」

「うん。ラミー様を紹介してくれてありがとう」


 イシは15日後にラミーのところに行くことになった。叔父にそれを伝えると一瞬だけ寂しそうな顔をしてからおめでとう、良かったねと言った。


 明日はオルガが父親と博物館に行くと言うのでイシは叔父の仕事を見学することにした。叔父は水を良くする仕事をしているらしい。彼は水を汲み上げて測ったり戻したりしていた。これなら自分も手伝えそうなのにな、とイシは思った。


◇◇◇◇


 博物館はオルガの予想よりも狭くて暗かった。でも、光が当てられた硝子の中に閉じ込められた動物たちはきれいだった。ヤギという白くてツノの生えた動物や犬という茶色くてふわふわした動物が特に可愛いとオルガは思った。そして、どんどん奥に進んでいくとガラスの中にひとりの人間が閉じ込められていた。白いワンピースを着たその人間はうっすらと微笑んでいるように見えた。その顔はイシに少しだけ似ていた。


「お父様、人間ってまだ滅んでいないわよね?」

「まだ全部は滅んでいないよ。でも人間の女はもういないんだ。だから、これが最後の人間の女だよ」


「へえ、そうなんだ。じゃあイシは男なんだね」

「そうだね。でも、彼は小さいから女に見えるときもあるね」

「よくわからないわ。でも、イシはこの人に似ているわね」

「もしかしたら血の繋がりがあるのかもしれないな。なにしろ人間は数が少ないからね」


 オルガはイシに良く似た人間の女の姿を見て、胸の奥がザワザワとした。今までそんな気持ちになったことがないのに不思議だと思った。


 冷たい雨が嵐になって、通り過ぎた。次の日は雲ひとつない晴天なのにイシの気分は晴れなかった。なんだかお腹が重たくて気持ちが悪いのだ。いつもの風邪とは違う体調不良にイシは戸惑った。あと少しでラミーのところに行かなきゃいけないのにこんな姿を見せたらやっぱりいらないと言われてしまうかもしれないと恐怖を感じた。ラミーの見た目はすこし怖かったけれど触れる手と声はとても優しかったからきっと彼女のもとに行けば幸せになれるとイシは思っていた。


 イシが用を足しに行くと何か冷たいものが身体から滑り落ちた。ズボンと下着を脱いで見てみると股から赤い血が流れていた。これは病気かもしれない、叔父に早く伝えないといけないと思いイシは駆け出した。遠くに人影が見えて叔父かと思い目を凝らすと知らない老人だった。イシは病気をうつしてはいけないからと距離を取り、叔父のもとへ向かった。


 井戸の側で叔父は何か作業をしていた。息を切らせたイシを見て、叔父は表情をなくした。


「イシ、病気になってしまったのかい?」

「……そうみたい。股から血が出るの。身体もなんだか変だし」


「イシ、これから起こることはきっと君にとって辛いことになる。でも、私はウーテの為に君を逃してあげたい。イシ、良く聞くんだ。これから君は港に逃げるんだ。ラミー様でもオルガでも良い、とにかく人間以外に助けて貰うんだ。君は特別な人間なんだ。だから、他の人間に汚されてはいけない」


 叔父は鞄から何かを取り出して井戸に投げ込んだ。そしてイシを強く抱きしめてからどこかへ行ってしまった。叔父の目に涙が浮かんでいたからイシはそれ以上何も言えなかった。


 イシは港へと向かった。オルガに会えればきっと助けて貰える。この病気は人間同士でうつると叔父が言っていたからきっと人魚や魚人にはうつらないのだろう。イシは誰ともすれ違わないままいつもの場所へ辿り着いた。ズボンは血に濡れて真っ赤に染まり、足にこびり付いた血は乾き始めていた。


「オルガ、オルガ、どこにいるの?」


 いつもならイシが港に着く頃にはオルガがいるのに今日はその気配もなかった。さらにおかしいことに、普段は漁に出ているはずの船が全部繋がれたまま静かに波に揺られていた。イシは不審に思い、船の中を除いてみたけれど誰もいなかった。


 イシは妙だと思ったけれど、ズボンが気持ち悪いので取り敢えず海で洗うことにした。全てを脱いで海の中に入れて揉むと海水が赤く染まりズボンの汚れはかなり落ちた。イシの身体からはいまだに血が流れ続け、吐き気は増すばかりだった。


 イシが自分の身体の血を落とそうと海に入るとぽちゃんと音を立ててオルガが現れました。オルガの目は潤み、呼吸が速く苦しそうでした。


「オルガ、どうしたの?」

「イシ、わたしなんだか変なの。ふらふらして、お腹がすくんだ。こんなにお腹がすくなんて変なの」

「大丈夫? 今日は何も食べ物を持っていないや」


「そっか。イシも顔色が悪いけど大丈夫?」

「僕、病気なんだ。股から血が出るの。だから、助けて欲しくて……。ラミー様を呼んできてもらえないかな?」

「……イシ、血が出ているところを見せて?」

「どうして?」

「確認したいの」


 オルガがあまりに真剣な顔をするのでイシは言われるままに服を脱いで股を見せた。オルガはそれを確認してから悲しそうな顔をした。


「イシ、君は女なんだね」

「女?」

「そう。人間の女は股から血が出ると大人になるんだ。最後の人間の女が死んだのは14年前、博物館でそう書かれていたんだ。多分、君のお母様だと思う。そして、君は最後の人間になったんだ」

「人間の女、ではなくて?」

「今日の朝、海の中にいた人間が全部死んじゃったんだ。陸の上はどうかわからないけど変に静かだろう? きっと人間はイシ以外死んじゃったんだと思う」


「僕、これからどうなっちゃうの?」

「多分、珍しいからみんながイシを欲しがると思う。でも、ひどい目に遭うかもしれない。だから、わたしが楽にしてあげる」

「どういうこと?」


「前に、わたしの歌を聴きたいっていってたよね」

「うん」

「わたしの歌は人間を眠らせるんだ。それですてきな夢をずっと見続けるの。イシとずっと笑っていたかったけど、それはもう難しいから……」

「オルガ……?」

「イシ、わたしの初めての人間の友達になってくれてありがとう」

「えっ? どうしたの?」


「大丈夫。わたしのお部屋でずっと一緒にいるわ。きれいな服も着せてあげる。初めての人間のお友達だもの。死ぬまで大切にするわ」

「でも、僕は海の中で生きていけるのかな?」

「大丈夫。わたしに任せて。ほら、目を閉じて」


 イシはオルガの腕の中で目を閉じて、身体を委ねた。ひんやりと冷たい手が気持ち良かった。それからすぐにオルガの美しい歌が聞こえてきた。こんなにきれいな歌を聴けて幸せだな、と思っているうちになんだか眠たくなってイシは深い夢の中へ落ちて行った。


 オルガは眠りについたイシの頬に口付けをして海の底へと連れて行き、綺麗な服を着せてその髪を撫でた。オルガの家に着くまでにイシの口からたくさんの泡が出ていった。イシの身体は前に触った時のように熱くなく、その心臓は動きを止めていた。


 オルガはガラスに閉じ込められた博物館の人間を見てからイシのことをこうしたいとずっと思っていた。なので、それが叶ってとても嬉しかった。自分が完全な魚人ならイシと子どもを作れたのに、とも思ったけどこうやってそばにずっといられるならそれで良かった。


 その日、人間は滅びた。最後の少女はイシという名前だった。それから長い年月がたち、それを知るものはほとんどいなくなった。オルガの部屋のベッドの上には今も白くて丸い、形の良い骸骨が錆びた金属製の栞の横に座っていた。彼は毎日、その骸骨の額に口付けをし、おはようと挨拶をして微笑んだ。

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