In a dream,we can do...
「名無しの魔女・・・。」
私が呟くと、
「あら、もしかして私のこと覚えていらっしゃるの?光栄です。」
と魔女はにっこり笑ってみせた。
「3歳の御誕生日以来ですね。随分と大きくご成長されて・・・・今になってこんなところでお会いするなんて、思ってもなかったのですけど。」
「こんなところ・・・ここは、私の夢ですよね?どうしてあなたがいるのですか?」
「それはもう、私が世界一の魔女だから、と言いたいところですけど・・・簡単に言うと、迷ってしまったのです。でも、どうしてここに繋がったのかしら・・・やっぱあいつのせいでしょうか。ほら、覚えてらっしゃいます?私と姫様の眠りの魔法を邪魔してきた。あの老いぼれ魔法使い。きっとそれで、道がつながったのではないかしら。」
「道?」
私はあたりを見回した。さっきまで、草が伸び放題の野にいた気がするのに、今はよく磨かれた椅子に腰かけ、魔女とお茶を飲んでいます。
「道なんてどこに・・・?」
「・・・黄泉路ですよ、姫様。死後の世界へと続く道。私、本当ならもう、あちら側についてないといけないのですけど。」
私は思わず身を引いて、魔女の体を上から下まで眺めまわしてしまった。
「今の私は、魂だけの存在なのかしら。この肉体は幻なのかしら?どう思います?姫様。」
「どうして・・・なぜ、あなたが・・・」
魔女はほんの少し気まずげに、目を伏せた。
「ちょっとね、巻き込まれてしまって。あの程度で死んじゃうなんて、私もまだまだね。」
「・・・私のせいですか?私が眠ったせいで、同盟が決裂したはずなんです。きっと、私の国は負けてしまった・・・あなた、戦に巻き込まれたのでしょう?そうでもないと、あなたのような強大な魔女が死ぬはずが・・・」
無理やり抑え付けていた蓋が外れたかのように、悪い想像―考えないようにしていた、私の引き起こした戦災―が、脳裏で吹き上がった。色々なことを、私は忘れようとしていた。考えないようにしていた。父様の憔悴しきった顔、母様のやつれた顔。国を守るため、父の言葉に従い結婚するしかないことは分かっていた。それが最善だと、私にも分かっていた。それなのに。
「・・・私、忘れてしまいました。忘れたいことを忘れようとしているうちに、忘れたくないことまで、全部・・・。私、どうして結婚から逃げちゃったんでしょう。色んなものを失うって、分かっていたのに。どうして、眠ってしまったんでしょう。何が嫌で・・・ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。あなただけじゃない。私のせいで、多くの人が・・・。」
うつむいた私の頬に、そっと手が添えられた。
「姫様。死に、理由も因果もありません。命を失うに値する理由なんて、どこにもないんです。死は理不尽なもの・・・理不尽でなくてはならないんです。だからこそ、命は尊いのですから。姫様には、咎も、負うべき責もありません。私は、確かにあの戦で命を落としました。多くの命が失われました。もし、その命を悼んで下さるのでしたら・・・どうか、ご自身を責めないでください。それでは気が済まないというのでしたら、存分に、泣いて、起こってください。それが、死の理不尽に対して我々ができる、唯一のことですから。」
私は、みっともないぐらいわあわあと泣き喚いた。私のせいで、という思いはなかなか振り切れなかったが、次第に、失われた命がただただ悲しく、戦災そのものが腹立たしく、私は声にならない叫びをあげて、魔女の胸にすがりついた。
「姫様。落ち着いたら、色々お話ししましょう?私、実はとても嬉しいんです。大きくなった姫様にお会いできて。初めてお会いした時、本当に退屈そうなお顔をしていらしたもの。でも、今は・・・この世界、姫様のお心から生まれたこの世界。こんなにも豊かな世界が生み出せる程のお心に育ったのですね。」
ふと辺りを見渡すと、私たちは天も地も無い空間に漂っていました。周囲には翠色の光がふわふわと浮き、沈み、流されていきます。魔女がそっと手を伸ばしてその一つを手に取ると、それはヒカリカズラの花弁だった。
「これは、姫様にとって大切な記憶なんですね。だから、こんなにも美しい・・・姫様がお眠りになって、姫様の記憶もまた眠っている・・・まあ、もうしばらく眠っていてもよいと思いますけどね。」
魔女から手渡された光を受け取ると、ぱっとその花弁が強く瞬き、思わず目をつむってしまった。
目蓋を刺す光が弱まりそっと目を開くと、私たちは再び、椅子に腰かけてお茶を飲んでいるところだった。
「本当に面白いところね。ここは。」
魔女はすっかり慣れた様子で、カップに口を寄せた。
「姫様もせっかくのお茶、いただきましょうよ。水分、出ていっちゃったでしょう?
紅茶は、秋の果実のようにみずみずしく、豊かな香りがした・・・そう思った。これも私の記憶の中の香り、ということなの?私はいつ、この香りをかいだの・・・?思い出せない・・・
「寂しい、です。紅茶の香りまで、忘れてしまうなんて。私、眠りはじめてからどれくらい経ったのでしょう?ここには時間がないように思っていたけど、そんなことなかった・・・私、ここで一人で過ごしているうちに、紅茶の香りから、もっともっと大切なはずの記憶まで、全部失ったしまったんですね。」
「覚えているじゃないですか。」
魔女は、少しあきれたような声を出した。
「覚えているから、今、夢の中なのに紅茶を楽しめているのですよ。さっきも言ったでしょう?ここには、姫様の記憶が眠っているって。忘れていません。覚えています。ただ、眠っているだけなの。」
「でも・・・何を忘れてしまったのかも分からないの。何かを失くした感覚だけが残っていて・・・。」
「分かりました、姫様。そういうことでしたら、ここで、私と一緒にいればいいのですよ。ほら、この紅茶だって私と一緒に飲むために思い出したのでしょう?同じことです。きっと、私と一緒にいて、沢山お話しすれば、姫様も色々思い出します。」
魔女は、にっこり笑って両手を広げた。
「・・・分かりました。そうしましょう。でも、お話する前に一つ伺ってもいいかしら?」
「あら、何でしょう。」
「なぜ、名を持たないのですか?私はあなたのことを何とお呼びすれば良いのでしょう?」
「ああ、そのことですか。だって姫様。名があると呼ばれるでしょう?呼ばれたら答えなくてはならないでしょう?で、答えたら命令されるでしょう?それが嫌なんです。」
魔女はそこまで一息で言い切ると、ふいっと首を傾けました。
「でも、今は私と姫様の二人っきりなのですから、呼び名なんて必要ありませんよね。あなた、でいいですよ、何でしたら、お前、でも、貴様、でも。」
この人は自分のことは喋りたくないのだろうな、という感じがした。けれども、私から他の話題を切り出そうにも、朧な記憶しかない。沈黙が流れても、魔女は全く意に介さない様子で空を舞う薄桃色の小魚を眺めていた。
「ああ、そういえば。」
魚をつかみ損ねた魔女がふいに呟いた。
「国王陛下にお会いしましたよ。こちらに来る前に。」
「・・・お父様に?」
父について思い出そうとしてみても、印象があやふやではっきりしない。私の父で、一国の王で、多くの臣下を従えていて・・・それが、私の父である人物の、一体何を表しているというの?
「随分と怒られちゃったんですよね、私。そもそもお前が―とか何とか。」
一瞬、激昂した父の姿が脳裏をかすめ、また消えていった。
「ええとですね。私、ちょっとお城の中うろうろしていたんですよ。何でって、特に理由もなかったんですけど。それでふらっと立ち寄った牢に・・・そう、陛下はあの後、幽閉されていらっしゃったんです。幽閉、と言いましても一国の王ですから、待遇はさほど悪くなさそうでしたよ。意外とお元気そうでしたし。で、それを見て私、ああ、私はこの人に呼ばれてここに来たんだなって、気づいたんです。名無しの魔女を呼び出すなんて、さすがは国王陛下と言うべきでしょうか。私はその時、姿が見えない、気づかれない魔法を使っていたのですけれど、陛下は真っ直ぐに私のことを見据えておられました。『お前か。探していたぞ。』と低い声で唸られて。なかなか恐ろしかったですよ。」
父の、一見穏やかでありながら底光りするような鋭さを持った眼差しを、思い出した。太く、所々白いものの混じる眉も、重たげな目蓋も、存在感のある鷲鼻も、思い通りにならないとぼやいていた口髭も、薄く、よく動く唇も。
「何人か看守とかいたんですけどね。お構いなしでした。私を散々怒鳴りつけた後に、気が済んだのか、口調が大人しくなったんです・・・ふふふっ、下手に出る陛下なんて、滅多にお目にかかれないものを見ることができましたよ。さて、それでですけど。『娘はずっと、あのままなのか。』って仰って。私が首をすくめると、怖い顔になったんですけど、そのあと少し考えるような顔をされて。今度は『あの子が望んだ結果がこれなのか。』と仰って。意外と物分りの良い方ですね。頑固そうな顔しておいて。で、『私の願いも叶えてくれるか。』ってその頑固そうな顔を伏せて『姫を守ってくれ。我が娘が、心ゆくまで眠りにつけるよう、誰にも妨げられることのないよう、どうか。』」
魔女の声の中に、私は父の声の響きを聞き取った。古木のうろの響きのような乾いた声。疲れのにじむ、重い咳払い。そして、表情、仕草まで・・・私の知る、父の姿がそこにあった。
「そういう訳ですので、今姫様のお体が眠っている周辺には、誰も近づけません。さらに、私が死んだところで、この魔法の効果は消えません・・・というか私、自分がかけた魔法を解くこと、できないんですけどね。」
「・・・今、随分無責任なこと言いましたね。」
魔女は片眉を上げ、すねるような顔をしました。
「だって姫様。私の魔法は‘人の願い’を力のもとにしたものですから。その人の望みが消えるか満たされるかしない限り、魔法は永遠に続きます。私は、ちょっと力を添えているだけなんです。」
「・・・よく分かりませんが、いいです。そういうことにしておきます。」
父のことが聞けた。ちゃんと思い出せた・・・それだけでも。
「さて姫様。もっとお話ししましょう。」
「ええ、ぜひ。」
私は何を願って何を願って眠りについたのか。それが思い出せるまで、それが叶うまでの時間を、この不思議な魔女と過ごせると思うと、私は何か嬉しいような、もどかしいような・・・そう、懐かしさを覚えるのだった。