イバラの塔
姫様が15歳の最後の日に眠りについてからというものの、私は急流に落とされた一片の枯葉のように、目まぐるしい、時流の変化に呑まれてしまい、一体どこからお話ししてよいものか分かりません。
国王陛下は姫様に眠りの呪いがかけられていることを、アウラ国側に伝えておりませんでした。そして結婚式当日も、初めのうちはちょっとした朝寝坊だろうと楽観視しており、何なら姫様ご不在のまま婚礼の儀を進めようとなさっていたそうです。しかし、当然といえば当然ですがアウラ国側はいつまで経っても姿を見せない姫君に不審を抱きました。
何とかやり過ごそうとする国王陛下や王臣達に業を煮やし、アウラ国の王子ご自身が姫様のお部屋に向かわれました。姫様のお部屋に入ろうとした王女の前に、一人の勇気ある侍女が立ちふさがり、全てを打ち明け、どうか部屋に入らないよう涙ながらに嘆願したそうです。王子のお怒りの矛先は、侍女でも姫様でもなく、国王陛下、ひいてはグウェン国へと向かいました。同盟は破棄され、アウラ国はキルリア国への歩み寄りの姿勢を見せ始めました。
私たちの国は、混乱の渦に突き落とされました。
兵の徴収・再編が行われ、私は王城の守護兵の一人として駆り立てられました。前線へと送られる可能性もあったのですが、リグ様のお口利きがあったようです。リグ様は、というと徴兵されず司書としての務めを果たすよう命じられたそうです。
「そういえば、姫様の居室を移すそうですよ。万一の時に、外へお連れしやすいように城の東隅にある塔へ寝台を移されると聞きました。」
リグ様の元でお勤めできる最後の日、リグ様は突然そんなことを仰いました。
「行くでしょう?」
行くでしょう、と言われても、そのような大任を自分などが志願したところで任されるはずがありません。けれどもなぜか私は駆り出され、姫様をお移しする際の護衛兼荷物持ちの一人としてその場に立ち会うこととなったのでした。
それは半ば夜逃げのような、ひっそりとしたものでした。姫様の寝台はナラの大木から作られた立派なもので、兵四人がかりで運ばれました。姫様をお抱えになったのは、近衛兵の兵隊長でした。私は寝台の運び出されたがらんとした部屋から、侍女の命じるまま椅子や鏡台、その他細々とした調度品を抱えて東の塔へと向かいました。
東の塔はもともと見張り台として使われていた背の高い塔でした。ですが増築が進み、今では塔の最上階から周囲を見渡しても数多の建築に遮られ何も見えなくなっています。私は何度も元の姫様の居室と東の塔の間を往復して荷を運びましたが、姫様のお姿は既に寝台の帳のうちに隠され、ついに目にすることは叶いませんでした。
使われるあてのない調度品に満たされた寂しい部屋を、私は不思議なぐらいはっきりと覚えています。バラや蝶の彫り刻まれた戸棚、柔らかくなめされた革の腰掛―壮麗にして物静かなそれらの家具は、唯一姫様をお守りする役目を担った寝台を羨ましげに眺めながら、私よりも忠実に、姫様を囲み、お仕えしているのでした。
戦は、その火蓋が切って落とされる前から、圧倒的に不利でした。水面に投げ込まれた石の波紋のように、シズマ・キルリアの連合軍はその勢力を広げていき、あっという間に都のすぐ側の街まで陥落しました。開戦から降伏まで、およそ一年三か月。けれども私はその間の月日を、ほとんど思い出せないのです。覚えていることだけお話ししますと、ついに私も前線に送られることとなったその前の日、私はしばらくご無沙汰しておりました図書館・・・リグ様の元へご挨拶に向かいました。リグ様は私に代わり、細い腕で本を抱えてあちこち行き来しておりましたが、案外楽しい、と笑っておられました。
「リグ様は避難なさらないのですか?」
貴族や官僚の大部分は既に、戦線から遠ざかるように退避しておりました。リグ様も、そうなさることができたはずです。
「私は・・・少し昔の話をしますね。父が本の虫で、そこそこ蔵書があって、でも、おかげで貧乏で・・・でも、私は、父に勝るぐらい、本が好きでした。父の蔵書だけでは、全然物足りなった。それで、色々勉強して、司書になって・・・初めてここに来た時の感動は忘れられない。忘れられるようなものじゃありませんでした・・・。ここには、私の全てがあります。私は、ここを守りたい。」
リグ様は、お手元の本をそっと撫でました。
「・・・でも、私にはそんな力、ないでしょう。それでも、ここで本に埋もれ。本とともに灰になるなら、それも本望。」
リグ様は、あざけるような、悔いるような不思議な顔をされておりました。その後、一か月もしないうちに国王陛下は降伏し、王城は占領されました。
図書館の蔵書は全てシズマ国の所有となり、その大部分は市場にて売却されたそうです。リグ様がその後、どうされたのかは、いい加減な噂が時折耳に入る限りです。
誰もかれもが、大樹から引きちぎられた枯葉のように、風にもまれ、濁流に飲み込まれて散り散りになってしまいました。そうです。頼るべき大樹が失われたのです・・・国王陛下は、処刑されました。幸い、お妃様は親類を頼って国を出ていたため、ご無事でした。
国王陛下の処刑の前日のことです。陛下は地下牢に入れられておりました。噂によりますと、その時陛下は国庫の管理や政情について色々と尋問を受けていたそうです。
そして、姫様について尋ねられた時のことです。陛下は最初、何も語ろうとはしなかったそうです。それが、尋問が終わり、誰もいなくなった牢の中で突然、誰かに向かってしゃべり始めたそうです。何を仰っていたのかは、誰にも分かりませんでした。しかし、陛下がお話しになった直後―私はその時、前線から呼び戻され、王城近くにおりました―激しく大地が揺れ、轟き、私含め全ての人が地に膝をつきました。揺れは、長く続きました。城壁から石が剥がれ、がらがらと崩れ落ち、並木がざわざわと揺れ騒ぎました。
終わらないかと思った揺れはやがて治まり、ちらほら立ち上がる人もいました。私は、何となく嫌な予感がして姫様の眠る東の塔に向かって走り出しました。慌てふためく人々の間を抜け、瓦礫を飛び越え・・・ふと、瓦礫に混じって何か木の根のようなものが張り出していることに気が付きました。塔に近づけば近づくほど、そこら中で地面がその根で押し上げられています。
そして石垣に沿って曲がり、目に入ったのは、あの石造りの東の塔ではありませんでした。あちこちに見え隠れしていた根の中心では、太く張りのあるイバラが伸び盛り、うねりながら塔に巻き付いて緑の葉を茂らせ、鋭いトゲを光らせていました。その枝の先々には、白、真紅、黄、薄桃、紫・・・色とりどりのバラが花を咲かせています。
「姫様・・・姫様!」
泣きながら姫様をお呼びしているのは、私だけではありませんでした。侍女、乳母、近衛兵・・・誰もが泣き、叫び、そして嘆くことしかできない程、そのイバラは圧倒的に強く、堅牢にそびえたち、その生命の中に、優しく姫様を包み込んでいるのでした。