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本の迷宮

あの雷雨の日以来、私は頻繁に書庫で姫様のお姿を見るようになりました。以前からよく忍び込んでおられたのでしょうか。姫様は大抵、書庫の中央、一番大きな明りとりの窓のもと本を読んでいらっしゃいます。

 一国の姫君としては質素に過ぎる気もしますが、白い絹のドレスは繊細なレースで縁取られ、その上に、姫様の黄金の髪が流れかかっている様子は大変美しゅうございました。ですが、姫様はその膝に埃まみれの本をのせ、青く澄んだ瞳を細め、眉をひそめて本を読みふけっていらっしゃるのでした。

 しかし読書中の姫様は敏感で、いつも私が声をかけるよりも早くに本から顔をあげ、読みかけの本を閉じると私の後について書庫を回るのでした。

「このあたりは法律書。『グウェン国法律集 第二版』。ほら、これがグウェン、国。この国の綴り。これが法律、集。第、数字の二。版。確か、第六版まであるはず。法律は何度も変更されたり増えたりするから、その度新しく編集して本を出すの。第二版だから結構前のもの。過去の事例を参考に、新しく法を制定されるのかしら。」

「あら、珍しい。魔法に関する本・・・。『魔女とその実態と地域性』。魔。女。これが女という文字。その、実態と、地域、性。魔法使いは王城にもいるし、珍しくはないけど、彼らは自分たちの魔法についてあまり語りたがらないの。自分でたくさんの魔法の書を書いて、それを自分だけの秘密の書庫に隠しているんですって。特に、女の魔法使いは気まぐれでよく分からない人が多くって、それでこんな研究書が書かれたのでしょうね。」

など、私が手に取る本を片っ端からご説明されます。文字が読めない私には、姫様のお話は難しすぎました。その上姫様は、相変わらず顔を近づけてお話されるので、私はどうも緊張してなりません。しかし、お考えは分かりませんがせっかく私に知識を授けてくださっているのですから、せめて文字だけでも読めるようになろうと必死に耳を傾け、ぶつぶつと復唱しながたお勤めに励んでおりました。文字以外に、姫様とお話ししていて分かったことが一つあります。書庫内の本は、その内容ごとに整理・分類されており、同じ棚には同じ分野・・・例えば語学ならば語学、芸術なら芸術に関するものがまとめて並べられている、ということです。本に割り当てられた数字も、ただ1から順に割り当てているのではなく、史学ならば4で始まる数字、兵法ならば6で始まる数字、といったように決められているのです。それを知ってようやく、私は何故、本棚には大きさがバラバラの本が並べられているのか、司書が口を酸っぱくして本を数字通りに並べるよう仰るのか理解することができました。

 また、姫様は私いじょうにこの書庫の構造を詳しく、正確に把握しており、そのおかげで私は以前よりも素早く本を集めて回ることができるようになりました。

 こうして私は姫様から、実に多くのことを学んだのでした。

 私は万一にでも姫様とお会いしていることを周囲に知られてはいけないと思い、文字が読めるようになったことをひた隠しにしておりましたが、なぜ、どうして分かってしまったのでしょうか。ある日リグ様に書類の束を突き付けられました。

「読めるのでしょう。目を通しておいてください。」

「い、いえ、私、文字は・・・」

「そうですか。読めるのでしたら、お給料、上げようかと思っていたのですが・・・。」

「・・・かしこまりました。」

渡された書類は、主にこの図書館の運用や利用規則、業務内容に関するものでした、すでに司書から説明されている内容がほとんどでしたが、こうして文章にまとめられていると非常に理解しやすく、また気になる箇所は読み返したり、ゆっくり読んでみたりと自分の思うままに読み進めることができ、快適です。

そうして私は、リグ様から「読みなさい。」と書物を渡されることが増えましたが、それは私に仕事を与えるというよりも、むしろ私に知識を与えることを目的としているようでした。

 姫様とリグ様のお二人から受け止めきれない程の知識を授けられ、私の頭は熱っぽく破裂しそうになっていました。その一方で、今までふわふわと雲のようにあいまいであった頭の中身が、みっちりと詰め込み練り固められ、まるであの書庫のように知識と情報が積み上げられている実感もありました。

 姫様は、私の学習が予想以上に早かったらしく、少し驚いておられました。姫様が教えてくださる前に私が本の題名を読み上げたりすると、

「あら、もうそんな難しい字も読めるの。」

と呟いた後、つまらなさそうに口をとがらせ、しばらく黙りこんでしまいます。私がリグ様の元でも文字を読む練習をしていることを申し上げますと、

「そう。」

とだけ仰って更にご機嫌を損ねてしまいました。私が困り果てていると、姫様はそっぽを向いたまま、

「・・・その本は、この国のみならず多くの国や地域の動物について説明しているものなの。よく見る動物だけではなく、伝承に語られているだけの神獣や奥地にすむ珍獣・・・北方の国、コルディアはご存じ?コルディアよりも更に来たに進むと、そこは誰も済まない、ただ雪と氷ばかりが広がる世界になるのだけれども・・・その上空に、巨大な魚が生息しているらしいの。信じられる?魚が空を飛んでいるなんて。虹色の大きなひれを羽代わりにして飛んで、夜になると降りてくるんですって。白銀の鱗に紺碧の瞳を持っていて、とにかく大きくって・・・」

といつもより長々と説明しはじめました。それを聞くと、私は今、自分が抱えている本は読みたくてたまらなくなってきました。雪と氷に鎖された世界を見下ろしながら、友禅と空を泳ぐ魚。ほかには、どんな動物について語られているのでしょう?空を飛ぶ魚がいるのなら、水を泳ぐ鳥もいるのでしょうか。私は思わず、はぁっと感嘆の声を漏らし、腕の中の本を抱きしめました。それを聞きつけたのか、姫様は振り返ると私の顔をじっと見つめ、そして満足そうに微笑まれました。

姫様はいつも、この世の方とは思えない程、お美しゅうございましたが、その時の笑顔は、御年15の娘らしくあどけなさと勝ち気さにあふれており、それでいて、今までお見かけしたどんな時よりも、深く私の胸に突き刺さったのでした。

姫様と出会って半年経つ頃には、私もかなり文字を覚えておりました。しかし姫様はこのところ何かお悩みのようでして、本を開いたまま虚空を睨んでいたり、また、悲しいことにあまり私にお話しをしてくださらなくなっておりました。何かお力になれれば、と考えることすら下賤のものの思い上がり。そう思って何もできなかった、いえ、しようともしなかったことを、私は今でも強く後悔しております。

ある日、王城の門前に人だかりができておりました。その日は私は非番で、たまたま門前を通りかかったのですが、人々のささやきの中に、

「姫様が・・・」

という声が聞こえ、私は人ごみをかき分け前へと進みました。そこには、大きな立札がありました。人々は寄り集まって見物をしているものの、字が読めない者が多数の為すぐに打ち寄せては引き返していきます。

 私は、立札の前で、動けませんでした。いくら周囲に小突かれ、足を踏まれ、肩を押されても、何度も何度も、自分の読み間違えではないかと立札を読み直していました。立札には、こうありました。

『グウェン国第八国王カルタナが第一王女、モネ=カルタナ=イシュリア姫と、アウラ国第一王子にして次期国王、アウラルカ=デルンのご婚約が成立。同時に、同盟を締結。婚儀はイシュリア姫16歳の御誕生の祝賀とともに執り行われるご予定。』

――――姫様。

 私は泡を食って王城へ駆け込みました。途中、何度か不審人物として足止めされ、何とか図書館にたどり着いたときにはすっかり息が上がってしまいました。

 リグ様は、私を認めると少し目を丸くしましたが、私が何か言う前に書庫へと通してくださいました。書庫に入るとすぐ、いつもの場所で本を読む姫様のお姿を見つけました。姫様は本から顔を上げると、

「・・・567402。」

と仰いました。番号を聞いただけで、私の体は、素早く本棚に向かって進みました。567402・・・『大世界地図 第十二版』。最新の世界地図です。

 私が地図を持ち帰ると、姫様は読んでいらした本を閉じて脇に置き、その大きな地図を開きました。

「この大陸の東・・・この山脈と川に囲まれたこの地が私たちの国、グウェン国。この山脈を挟んで西、キルリア国がその更に西の大国、シズマ国の属国となったの。シズマ国と本格的な戦になる前に属国に下ったとか・・・。そして、シズマ国はキルリアの自治権を認める条件として、グウェン国侵攻の足場となることを要求したの。」

姫様は地図を指さしながら、淡々と話し続けました。

「父王様は、南隣のアウラ国との同盟を強固にすれば、十分牽制になると思ってらっしゃる。いざとなれば、追い払えるとも・・・この国を狙う旨みなんて無いと思っていらっしゃるもの。この国には、取り立てて恵まれた産物も何もない・・・でもね、シズマ国はなんとしてでもこの国を落とそうとすると思うの。狙いは、この川。この川さえ押さえれば、貿易もできるし、派兵も容易になる。川から海へ出ることも・・・父王様は、ご自分にその気がないからお分かりでないけれど、この国は、各地に侵攻するには、最高の足場なの。」

姫様は一息にここまで仰ると、きゅっと肩を強張らせました。

「・・・でも、いずれにしてもアウラ国との同盟は必要でしょうね。今すぐにでも降伏しない限り。」

私は正直、突然のお話に頭がついていきませんでした。回らぬ頭で何とかお話しようとした結果、

「・・・ご結婚なさるのですか。」

と何とも不躾でつまらぬ言葉が口からこぼれてしまいました。姫様は地図から目をあげましたが、私の法に向き直る手前で動きを止めました。

「もう、決まったことだもの。」

姫様は地図と、先ほどまで読んでいらした本を重ねて私に手渡しますと、書庫の扉へと歩いていかれました。

「ねえ、アウラ国にも、立派な図書館があると思う?」

「よく、存じません。」

「そういう時は嘘でも、ある、と言ってほしいのだけれども。」

姫様は振り返らず、その美しい金髪を揺らして笑いました。

「・・・ライ。今、私の誕生日を祝ってくださる?」

姫様の誕生日は二か月後です。本当に、万事慎重に進める王族とは思えない、急なご結婚です。

「・・・姫様。お誕生日おめでとうございます。私、ライは・・・私の生涯全てを捧げ、姫様にお仕えすることを、この本の迷宮にかけて誓います。」

「ありがとう・・・あなた、最高の嘘つきさんね。」

姫様はそう仰ると、少し俯きがちに、最後まで振り返ることなく書庫を出て行かれました。

 姫様のいなくなった書庫は、埃っぽく、ただ寂しいだけの薄暗闇でした。私は本を元あった場所に返すと、いまからでも姫様の従者になる方法はないか―初めて姫様に、ライ、と名を呼ばれました。今までずっと、あなた、と呼ばれるだけであったのに―リグ様に相談してみようと決意しました。

 しかし、私の移動の話が全く聞き入れられない間、姫様は書庫を訪れることはなく、二か月が経ちました。姫様のご婚礼を明日に控え、城内の城下町も活気に溢れておりましたが、私は姫様の仰った戦のことを思うと―それだけではありませんでしたが―気分が晴れないままでした。

 そして、ご婚礼の日でもあり、姫様の十六歳の誕生日でもあるその日、姫様は、眠りから覚めませんでした。多くの人が忘れようとしていて、恐れ続けた呪い。

 姫様は、眠りの魔法に落ちたのです。


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