本と私
私が魔法をかけられた夜、私を眠らせてよいものかどうか、魔法使いや医師を集めて議論させたらしい。一度眠ったらもう二度と目を覚まさないのではないか。このまま不眠が続くのも可哀想ではないか。詠唱が途中で遮られた影響はあるのか。
様々な意見が飛び交う中、私は眠ってしまうことのないよう乳母に見張られていたけど、むずかり、ぐずる私を見かねた母が抱いてあやした途端、すうすうと眠りに落ちてしまった。母は半狂乱に陥り、父は諦めて放心状態となったが、そんな騒ぎをものともせず、私は皆の見守る中、半日も眠りこけ、そして何事も無かったかのように目を覚ましたのだった。その後、あの時詠唱の邪魔をした魔法使いを筆頭に、私の眠りは見守られるようになったけれども、何事もなく寝起きする日々が続くと、やがて「規則正しい睡眠」のみを心がければ良いのでは、という結論に達したそうだ。
そして、私は王家の子女としてはごく普通の養育を受けることとなった。礼儀作法、しきたり、立ち居振る舞い・・・大方そつなくこなすことができたけど、刺激も面白みも感じなかった。ただ、先生方が各々持ってこられる書物にはとても心が引かれた。私は、読み書きこそ教わっていたものの、教養ある女は嫌みに思われる風潮があったのであまり本と接する機会が無かった。また、本は読んでいると眠くなったり、逆に目が冴えてしまったりするので危険、という思惑のもと、遠ざけられていたとか。
先生方も、父王から言い含められていたのか、ほんの数冊しか持ち込まず、また時折参考程度に開く以外には手をつけようとしなかった。しかし禁じられ遠ざけられる程気に掛かるというもので、私は先生方がちょっと席を外した隙などに本を開き―どんな内容であれ、文字が並んでいる、それだけでわくわくして―読みふけったのだった。
もっと色んな本を読みたい。そう思った私の足は、自ずとある場所へと向かった。そう、王宮図書館。盗み読みで鍛えられたのか、私は「人の目を盗む」ことが得意だった。人の気配、視線、行動の前動作などを察し、死角に回って静かに抜ける―音無く無駄なき動きは礼儀作法の一環として教え込まれていた―最初のうちこそ何度か失敗したけれど、すぐに誰にも気付かれず図書館までたどり着くことができるようになった。
最後の難関は、書庫の入口に居座る司書と、運搬係の少年だった。少年の方はさして問題ではなかった。司書の命であちこち動き回り、自分の仕事に集中していたから。しかし、司書の方はと言うと、来館者のいない時は大抵ぼんやりとしている。誰か来た時には、丁寧に話を聞きながら、凄まじい集中力と記憶力でその人の求める本を脳内で探し当て、少年に言いつける。だというのに、どんな時も隙が無く、自分の周囲で起こる変化を敏感に察知しているようにしか見えないのだ。
しかし、だからといって、ここまで来て引き下がる訳にもいかない。私は図書館内に誰もいないこと、少年がせかせかと働いていること、そして司書がぼんやりと窓の外に目を向けていることを確認すると、素早く物陰を伝い、司書の机の影まで近づき、そして一息に書庫の扉へ近づくと音も無く扉を開き、その僅かな隙間に身を滑らせる。閉じた扉にもたれかかって一息吐くと、後はもう、目の前に広がる本の迷宮に夢中だった。書庫の中は薄暗かったので、数少ない明かり取りの窓の下まで本を持って行き、その微かな明かりのもと、本を開いた。手当たり次第読み漁って―語学、地理、歴史、医学、薬学、生物―面白いものもあったし、どうにも理解しがたいものもあった。けれども一つ知識を得る度に、ずっと頭の中にかかっていた靄が晴れていく気がして、私はちょっとでも時間ができたら人目を忍んで図書館に潜り込むようになった。
時折、書庫に運搬係の少年が降りてきて、書庫の中を歩きまわった。私は彼に見つからないよう本棚の影を伝って逃げ隠れては暗がりに潜んで本を開き、はっきりと読めない文字を追った。少年はとても真面目で、求められている本までまっすぐ進み、寄り道することもだらけることもなく本を抱えて戻った。
城内を忍び歩くようになってから分かったことだけど、私が姫として皆の前に立つ時は、官僚から下働きまで礼を尽くし、綻びもないように見える。けれども、私が気配を殺して身を隠していると、誰も見ていないからとだらけている姿が目につくのだ。しかし少年は、どんな時でも背筋を伸ばし、真剣な目で本の背に記された番号を追い、大切そうに本を抱えるのだった。
一方、司書の方は相変わらず読めない人だった。私がそっと様子を窺うと、くつろいだ様子で資料を眺めたり、ぼんやりしていることが多いが、どうもこちらに気付いている気がしてならないのだ。書庫に入る前はあらぬ方を向いているのに、書庫に入って扉を閉めると、扉越しに視線を感じてならない。あまりに気になって、ある時わざと物音を立ててみたのだが、それに反応は無かった。結局、止められないならばそれで良いか、と考える事にして、私は少し警戒を緩めて書庫に潜り込むようになった。そうして気を緩め過ぎたのだろうか。
ある日、いつものように書庫で本を読んでいると、急に空が荒れはじめ雷まで鳴り出した。それなのにもう少し、きりのいい所まで、と本から目を離さずぐずぐずしているうちに、あっという間に書庫は闇に呑まれ、何とか元の場所まで戻した時には自分の指先さえ見えない程の真っ暗闇となっていた。書庫内の構造は大体把握していたけど、ここまで何も見えないとお手上げするしかない。手探りで本棚を辿りながら、少し進んでみたけれど、動けば動くほど出入り口から遠ざかってしまうような気がしてならない。
そう離れていない場所に、雷が落ちる音が聞こえた―今頃、乳母が必死になって私を探しているだろう。途中で捲いてきた従者が怒られているかもしれない。父王は大分楽観的になったけれども、母様はいまだ私にかけられた呪いを恐れ、何がきっかけで私が永遠の眠りについてしまうか、不安を抱えている。司書は今、私がここにいることを分かっているのだろうか。ここにいるところを見つかってしまうと、私は二度と図書館に立ち入ることができなくなってしまうのだろうか・・・私は、自分でも気付かないうちに膝を抱えて座り込んでいた。石造りの書庫の床は、冷たく、お腹と足が辛い。雷雨はまだ、収まる気配がない。
ふと、足音が聞こえた気がした。はっとして耳を澄ましてみると、やはり、足音が聞こえる。あの少年?いつもより慎重な足取りで、こちらに近づいてくる・・・けれども私は今日、よりによって書庫の奥深く、下の階まで来ている・・・ここまで来るのかしら・・・足音が近づき、階段を下りる音に変わった。そしてまた、本を探しているのか離れていく。私は立ち上がると、先程の足音から階段があると推測される方へと手探りに進んだ。階段で少年を待ち構えて、その後をこっそりついていこうと思って。やがて、足音がこちらへと引き返して来た。もう少し近づくべきか、それともこの辺りで隠れていようか。少しだけ覗いてみようと思い、そっと棚の影から首を伸ばしてみた。
ゆらり、と柔らかな翠色の光が目に入りました。ろうそくの火とは違う、思わず手に取りたくなるような、優しい、淡い光。輝きともいえないほど、頼りないその光は、よく見ると花の形をしていた。
「あっ。」
ぱっと、頭に稲妻が走ったような気がした。以前呼んだ植物図鑑―とても挿絵がきれいな本で、見たこともない不思議な植物が沢山並んでいて―あの花は、その図鑑にあった一つ、ヒカリカズラ?翡翠色の花を咲かせるツル性の植物で、夜になると光り、虫を招く・・・私は今まで、見聞きしたことを本から得た知識で理解し、解釈していた。けれども、本から得た知識がまさにそこにある、というのはこれが初めてだった。
漏れた声が聞こえたのか、翠色の光がこちらに近づいてきた。腕に翠色の灯を提げ、大きな本を何冊も抱えた少年は、私を見つけて戸惑い、固まってしまった。
「―どなた?」
我ながら、妙な質問。彼が王宮図書館の運搬係の少年だということは既に分かっていて、今、彼についてそれ以上知る必要もないというのに。
「・・・ライと申します。この図書館に勤めさせて頂いております、王の下僕の端くれです。」
私が姫だということに気付いているのかいないのか。少年は花の揺れる灯をちらっと見やると、
「とにかく、ここを出ましょう。どうぞ、こちらへ。」
と言って歩き始めました。私は自分で思っていたより不安が強かったようだけど、少年に会ったことで落ち着き、今度は少年の抱えている本が気になってきた。
『兵の運用 防衛篇』『グウェン国西方地図』『ラムス図解詳細』『ヘグナ地理図』・・・ふと、数日前盗み聞きした、父王と将軍の会話を思い出した―本を読み始めてから、それまでただのまじないか寝言にしか聞こえなかった父王と臣下の会話が、いくらか理解できるようになっていた―
「キルリア国が軍拡を進めているとの噂があります、何かの機会に責めてくる恐れがあるやも・・・。」
「具体的に、どのような軍拡か分かるか?徴兵か?兵器開発か?備えはするが、あまりに露骨な動きをすると却って刺激しかねん・・・」
ひょっとしたら、キルリア国と接する西方に、何かが・・・?将軍の言っていた、何かの機会、例えば、この激しい雷雨に乗じて・・・?
知らず知らずの内に、考えが声に出ていたようで、少年がこっちを振り向いた。翠色の光のもと、ようやく私の顔をまともに見たのか、みるみる表情が変わっていき―
「な・・・どうして、あなたのような方が、こんな所に・・・」
―なんだっていいじゃない。心の中でそう呟きながら、私は花の入った瓶を少年の腕から取り上げた。
「急ぎましょうか。また暗闇に取り残されたくはありませんし。」
灯りを自分自身の手に取って、その美しさに再度、圧倒され・・・摘んでしまった花でもまだ光ることができるのは、どうしてだろう・・・?水が入っているようだけど、この水が無いと光らないの・・・?何か魔法がかけてあるのかしら・・・?
色々と考えを巡らせている内に、書庫の出入口まで出てこれた。
「先に出て下さる?」
どうやら扉の向こうでは、本を探しに来た人物が激昂しているようで、怒声がここまで漏れ聞こえてくる。今出て行くと、面倒なことになる・・・
少年は戸惑っていたけれど、
「ほら、早く。私のことならお構いなく・・・でも、できればご内密に。」
と言って背を押すとあっさり出て行った。しばらく扉の外では、がなり立てる声が聞こえてきたけど、それが消えると一気に空気が緩むのが分かった。その隙にこっそり抜け出ると、どこで何をしていたのか追及された時の言い訳をどうしようか、考えながら急いで部屋へと向かった。少年は、私のことを誰かに告げ口するかしら・・・しない気がする。そういえば、そう、あの真面目少年はライという名前だった―ふと、思い出した。