ラスティネイル
ラスティ・ネイル
志摩
何かが割れた音がした。
未だはっきりしない意識の中、ゆっくりと身体を起こした。時計を見ると針が四時五十分を示していた。
秋の寒さが厳しくなってきた頃、冬の間近なこの時期は夜明けの時刻だろうか。静まり返った室内、先の音は幻聴かと思う。
毛布一枚しか被っていなかった私は、布団から出るのが億劫でもう一度横になった。
眠気の覚めきっていない私はすぐに微睡んだ。
しかし、また何かの割れた音がした。ガラスのような何かが割れる大きな音。
仕方なく布団から出ると、音の方へ向かった。
音がしていたのは両親の部屋からだった。二人は仲が悪く、一緒にいる姿を見ることはほとんどない。
三人で朝食を囲む、それだけがルールだった。
母は料理を作らない、買ってきたお惣菜が並ぶテーブル。
父は母も私も一切見ない、ずっと新聞を読んでいる。
私はそんな二人を、ただ興味もなく瞳に映しているだけ。
これが私の家族だった。
中学校の頃は、もう少し家庭が賑やかだったように思える。両親は私の前では仲良くしていたし、私も友人を家に招いたりしていた。
それが崩れていったのは、高校へ入った時だった。
母がパートに出るようになり、忙しくなった。
父が昇進し、家に帰るのが遅くなった。
私は部活と勉強に忙しくて、家に帰るのが面倒になっていた。この頃付き合っていた彼氏の影響もある。一人暮らしだった彼の家に行ったきりだったし、友達の家に泊まったり、遊び歩いたり。
そんな私が何気なく家に帰った時には、両親はもう不仲を隠していなかった。
元々仲の良い方ではなかったのかもしれない。父も母も、浮気をしているような話があったことは、幼い私にも流れてきた。
だから私は家にいるのが嫌だったし、高校へ出たのを機会に家を離れた。
しかし、どうしてか両親は私を迎えに来た。
教えてもいなかった彼氏の家に、突然。
引き摺るように両側から腕を捕まえられ、連行されるように。
帰ってきてみれば、家は荒れに荒れ、埃だらけで塵だらけ。
ご飯だけは毎食出るものの、ほぼ部屋に監禁状態。
この家に監禁されるようになってもう一カ月になるだろうか。
もうこの家にはいられない、どうにかして家を出なければ。そう覚悟をするのに時間はかからなかった。
*
目覚めると、あたりはまだ真っ暗だった。
両親がいないうちに家を出よう、そう決めて明け方にアラームをかけた。
あらかじめまとめておいた小さな荷物を抱え、そっと部屋を出る。厚着をしたつもりだったが少し肌寒く、息が白く見えた。
忍んで部屋を出たものの、家の中にはやはり誰もいなかった。
その事は分かりきっていたはずなのに、それでも心が震えた。寒さのせいで身体が震えたのを、そんなふうに錯覚しただけかもしれない。
私は声もなく笑ってしまった。こんな家庭に今さら何を期待しているというのか。
私はいつの間にか、笑い声を漏らしていた。
もうこんな家は必要ない、だって彼がついているから。
笑い声を飲み込み、家の扉を開けた。
そこには彼の姿があった、迎えに来てくれたのだった。
彼の手を取り、真っ暗な街へ姿を消そう。闇に包まれた世界へ進む、もうここへ帰ることはない。
二人で目指したのは、子供の頃によく遊んだ思い出の神社。廃墟になっていて、参拝に来る客はいない。子どもたちのかっこうの遊び場だったのである。
今ではもう、子どもが遊ぶ姿さえ見なくなったこの神社は一段と古く、そして妖しげな匂いを漂わせていた。
共働きの両親を持ち、家に帰っても一人きりの私は友人たちが帰った後も一人でよくここにいたものだ。
昔を思い出しながら鳥居をくぐり、神社の境内に入った。
林の奥にある古びたこの社には、神主なんていないから、よく勝手に入っていた。どんな神を祀っているのかも、私は知らない。
それでも何度もここへ来るのは、私がこの場所と同じだから。
「――名前を忘れられたもの」
ここにいる時が一番落ち着くのだ、家にいる時よりも。苦しさなんてないのだ、二人で一緒にいる時のように。
薄ら寒いこの時期に、妙に温かい社が私を迎えてくれる。
この場所が私を拒んだことは一度もなかった。
誰も訪れないこの場所が、たった一つ私の居場所なのだ。
横になると、私はすぐに眠気に襲われた。
気が付くと、闇の中にいた。
闇、そうとしか言いようがないのだ。ただひたすらに黒、視界の隅から隅まで。首を振ってみても見える景色は変わらず、落胆するばかり。
天に翳したつもりの自分の手のひらが見えない。そもそも手を伸ばした先が天なのかさえ。
顔の近くにもってきても、やはり手のひらは見えなかった。顔に触れるまで近づけてみて、それでも頬に触れるまで手のひらが傍にあるのが分からなかった。
この空間に不思議と恐怖を感じない、それはなぜか。何も無さすぎて、恐怖さえも消えてしまったのか。それともここが妙に生温い温度だからだろうか。
どちらにしても、私を包み込むような何かがあるように感じられるのだ。
歩けばどこかへたどり着くのだろうか、そう思い歩を進めると、私を誘うような温かく芳しい風がどこかから吹いてきた。
その香りの濃い方へと、私は自然に歩いていた。
ふわふわと、地に足のつかない感覚だった。
遠くに私を誘う手が見える。不思議だった、暗闇の中で輝いている。私を導いているのだろうか。
その手を掴もうと手を伸ばした。
その時だった。突然、煙草の臭いがした。
その不快感に顔を顰め、辺りを見回す。しかしそれがどこから来ているのか分からない。
ふと顔を戻すと、いつの間にかさっきの手は消えてしまった。
暗いせいで方向感覚が狂っているのだろうか、そう思って探してみても見つからない。
仕方なく、私はどんどん濃くなる煙草の臭いを追った。
それが正解のような気がしたから。
?
一
「あなた、お客さんです。何でも知り合いが行方不明らしくて」
「行方不明者が出たー? 一体どこのどいつがいなくなったんだよ! また近所の子供が神隠しにあったとか言うのか?」
この町では時々人がいなくなる。昔から何年かに一度、人が消えては神隠しだと騒がれる。
今までも何人もの人間がいなくなっては騒ぎを繰り返した。しかし犯人は未だ見つかっていない。
何年かに一度、繰り返し起きていた失踪事件が、なぜか最近頻発していた。
年寄りどもが口々に言った。神様が連れて行ったと。生贄にされているのだと。
この町には大きな神社があった。今では誰も訪れない寂れた神社が。そこの神様が怒っている、そう言うのだ。
そんな非科学的なことを信じていたら、俺の仕事は勤まらないってのに。
その神様のせいだと言うなら、お祓いでもなんでもすればいいのに。しかし年寄りどもが何かをするということはない。恐れすぎて近づくことさえしない。
昔は栄えていたらしい大きな社だが、朽ちかけて今にも崩れそうなその様は確かに恐怖の対象である。
今日はせっかくの休暇だったはずなのに、どうして家にいてもこう仕事の話ばかりなんだろう。
「なんだか警察関係者の方らしいんだけど? どうすんのよ」
俺の苛立ちが伝染したのか、妻の機嫌まで悪くなってしまう。面倒くさいことになった。
「なんでうちに、とりあえず通せ」
一瞬頭に過る嫌な記憶。
そういえば、あの女が来ると言っていたような。
妻は客を呼びに行くと、部屋に居ますからとすぐに下ってしまった。
茶ぐらい出せばいのに。後でまた喧嘩になるだろう、そう思うと気が重かった。
頭を抱えていると、神経を逆撫でするような声が聞こえてきた。
「雲母です、連絡は来ているはずですわ。関係者の書類、下さる? 畠さん」
気持ちの悪い笑顔で来たのは、長身で白髪の女。
標準男児の身長に惜しくも届かない俺にとって、頭ひとつ分も大きいこの女は目に見えすぎたコンプレックスだった。
「ちゃんと資料は来てるよ、ただなんでうちなんだ? 署でもいいだろう、いつもそうなんだし」
俺が配属されるよりも前から署に出入りしていたらしいこの女。こいつの存在は極秘扱いになっているため、どうしても限られた人間が取引しなければいけなくなる。
今はそれが俺だった。
「今回はこっちの方が近所だったのよ。それに少し話しでも聞こうかと思っていましてね」
高慢的で自分本位。こいつはいつもこうだ。不適な笑みを浮かべ、相手の全てを見透かしたような瞳をするこいつが嫌いだった。
「この辺の行方不明者続出について、うちで動くことになったので。知っていることを教えてください」
「いなくなったやつに関しては資料の通りだよ」
つっけんどんに返すと、雲母は不機嫌そうに出された資料を手に取った。
「噂だが、この辺の年寄りが言っている話がある。神の崇りだって話だけどな。お前が出て来るってことはそういうことだろう」
その言葉を聞くと、雲母は資料を見ながら嬉しそうに笑った。
しかし突然眉間に皺を寄せ、何かを見つけてしまった、そんな顔をした。
「この人、今は?」
雲母が問うてきたのは、この事件で唯一の生き残りだった。
「この女だけ、帰ってきてるらしいぞ」
「なるほど。ありがとう」
こいつが出てくる事件は公にされないケースが多い。俺たちも手を出せず、こいつらにいいように使われる。いつもよく分からないことを言って捜査を掻き乱していくのだ。
俺たちが役立たずなのは事実で、こいつらの出てくる事件は俺たちには真相解明の端緒をつかむことさえできない、手に負えないものしかない。
雲母は資料をまとめると、さっさと立ち上がり出ていく。
俺もその後を追い、一緒に家の前まで出た。
ふと、今日はやけに甘党ないかつい男がいないことに気が付いた。
「今日は連れの兄ちゃんはいないのか?」
「今は寝てるわ」
昼間のこんな時間に寝ているなんて、何様だ。いつ働いているかも分からないようなやつらなのに、世の中は理不尽だ。
そもそもこいつは人間じゃない、それだけは確かだ。俺が配属になった頃にはすでにいた。出会った頃と何一つ変わらない姿。
署に入って、結婚して、子供ができて、かなりの年月が経ち、俺も老いた。娘が成人した今、もう二十年ほどの年月が経つのかと思うと恐ろしくなる。
この異常性に、あの女の笑顔に。
そしてそれを受け入れてしまう自分に。
全国の至るところでこいつらのような仕事をしているやつがいることも、つい最近知った。それが誰の手引きかは分からないし、俺のような下っぱには知ることさえ許されないことかもしれない。
それにしても、どうして署はあいつらに事件の解決を任せるのだろう。その事件は公にされず、内々で処理される。
いや、考えるのは止めよう。これ以上事件に巻き込まれるのはうんざりだ。
去って行く雲母が、いつになくにこにこと手を振ってていた。
そういえば、気になることが一つあった。
「最近、増えてねぇか?」
ふと目を離した隙に、あの女は消えていた。いつもどこからともなく現れては消えていく。訳の分からんやつだ。
「あんまり会いたくないねぇな」
とぼとぼと家に入り、妻になんと言おうかどればかりを考えていた。
二
黒い手が私を呼んだ、世界は真っ白なのに、それがいるところから先は暗くなっていた。
黒、深い闇。そこから先は世界が消えてしまっているような、そうなふうに見えた。
あたしはこの白い世界から出たら、あの闇に落ちるのだろうか。ここに怖さはない、ただその手には近づいていけないと、そう直感的に分かっていた。
――あぁ、またこの夢だ。
家を出てからというもの、頻繁に見るようになった。なぜだろう、両親を捨ててきたあたしの罪を、この夢が責めているのだろうか。
そう思ってしまうと、自分がこの白い世界にいてはいけないと言われている気がしてならなかった。お前はこっちにいる人間だろうと、そんな明るいところにいるべきではないよと。
あたしは困惑しながらも、この白い世界の外へと、手を伸ばした。
何かの弾ける音が響き、反射で耳を塞いだ。
さっきまでの白い世界に黒が滲みだし、途端に悪臭と怖気がする生温かい風が吹き出した。
『おぃで』
誰かが後ろから囁いてくる。遠かった声は次第に近くなり、あたしは必死で耳を塞ぐ。どれだけ強く塞いでも、その声が聞こえなくなることはない。
そうしているうちに、黒い手がいくつもいくつも伸びてきた。それが私の身体を掴み、きりきりと締め付ける。
最初こそ振り解こうとしたが、次第にそれすら難しくなった。
動けない、そうなってもまだ手はどこからともなく出てきて私の身体を求めた。身体中に黒い手が被さり、視界さえも覆われていく。
――恐い、誰か助けて!
動かない唇、声を出すことも叶わないあたしは、何度も心の中で叫んだ。
何度も、何度も何度も。
身体にかかる重圧が一瞬緩んだ、そんな気がした時、世界の色が真っ白に変わり、あたしを掴んでいた沢山の手たちが一斉に消えた。
解放された身体はふわふわと空に漂っていて、先までの恐怖が消えてなくなった。
見回しても、世界はただ白い。
あの暗い世界は、黒い手はなくなっていた。
ふと、視界に紫色が映り込み、そちらへ向くと一人の女がいた。
薄い紫色の髪、真っ白な着物。
『あなたを助けましょう』
――え?
それだけ言って笑うと、泡のようになって消えていく。
あたしは訳も分からず、先まで人がいた方へと手を伸ばした。
目の前に現れたのは、よく見る天井。しかしどうにもおかしい、背中の筋が伸びて痛い。身体がひっくり返っているのだ。
ベッドから上体だけが落ちていて、足がかろうじてベッドに乗っていた。
上体を起こそうとすると、腰がベッドから落ちて、頭を打つ羽目になった。
「どうしたの?」
隣で眠っていた彼氏の護人が声をかけてきた。
「変な夢見た……」
「最近よく見るって言ってた夢の話?」
「そう、そうなんだけど……」
初めてだった、あのよく分からない生き物以外のものが、人間が出てきた。
女の人、いや、綺麗な男の人かもしれないが。
薄紫の、透き通るような色素の薄い髪が脳裏に焼き付いていて、どうにも消えてくれそうになかった。
あの人が助けてくれる、そう言っていた。
一体、どういう意味なのだろう。
夢の中で助けてくれるとは、あの手から護ってくれるということなのだろうか。
頭が重い、夢のせいで寝つきが悪いからだろうか。頭の奥が鼓動をしているように、重く鈍い痛みを放っていた。
今日も仕事へ行かなければいけないのに、そう思いながらなんとか身を起こし、支度を始めた。
*
頭が重いまま、一日が終わった。
最近はあの夢ばかり見るせいで、寝ても疲れが取れていない。どんどん疲労が溜まっていた。
仕事に悪影響が出るほどではないが、事務職でパソコンに向かいっぱなしのため、頭が痛いというのが何よりも辛いのだった。
今日はゆっくり湯船に浸かろう。そう考えながら家路につくのだった。
電車でうとうとしていたせいか、いつの間にか最寄り駅になっていて、危うく過ぎてしまうところだった。
慌てて飛び出すと、駅員さんに視線を向けられ、そろそろと歩いた。
――どうにも疲れる。
ぼうっとしているだけでなく、身体が重い。家にいた時はこれほどではなかった気がするのに。
今日の疲労が加算されたせいだろうか。
とぼとぼ駅を出ると、こんな田舎の町にそぐわないモデルのような美人が立っていた。背の高い白髪で、外国人だろう。
誰かを待っているのだろうか、あまり見ていても不審なので、気に留めないようにしなければ。
意識してそちらを見ないようにして、急ぎ脇を通った。
「圷瑠美さんね?」
突然女が話しかけてきた。目立っていたあの見知らぬ女だった。一体何の用だろうか。外国人のように見えるのに、それにしては流暢な日本語を話す。違和感の塊のような女だった。
「そうですけど、何か?」
「貴女から連絡をいただいたものです、覚えてないのかしら?」
そう言って私の手を引く。
「とりあえず場所を移しましょう。ここは良くない」
彼女は露骨に嫌そうな顔で回りを見回し、歩み出す。
あたしは不思議とこの手を振り払う気にならなかった。驚く事に安心すら覚えた、何か優しいものに包まれるような。
先ほどまでの身体の重みが次第になくなっていく、そんな感覚があった。
手を引かれるままに、あたしは彼女についていった。
初めて会った人についていくなど、考えればおかしな話なのに。
状況が分からないので、説明がほしいところなのだが、彼女の纏う空気はそれを拒んでいた。話しかけてくれるな、そう身体が感じ取った。
女性は何も話さず、ただ手を引いて歩いていく。
なんだか今日は不思議なことばかり起こる。
朝見た夢の事といい、この事といい。
言い知れぬ不安が広がっていった。
あたしが連れて行かれたのは、なんと自分の家だった。正確には同棲している彼氏の家なのだが。
女性が家の戸を叩くと、出てきたのは見知らぬ男だった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
他人の家で、何をやっているんだこの人たちは。
そう思ったが声に出すとややこしくなりそうなので、黙っていた。
部屋に入ると、護人はちょこんとベッドに腰掛け、肩身が狭そうにしていた。
あたしはその隣に座ると、テーブルを挟んで反対側に、見知らぬ男女が腰を下ろした。
「私は雲母と言います、こちらは黒鉄。貴女の連絡を受けて派遣されました、村崎相談事務所の者です」
「はぁ」
護人に視線を向けて問うてみるが、彼にもなんの事だか分からないらしかった。
「一体何のことですか? 全く記憶にないんですけど」
「所長によると、夕べ、助けてほしいという連絡があったとのことですが」
そう言われても記憶にない、どこかへ電話をしただろうか。
ふと頭に浮かんだのは、夢に出てきた紫の髪の人。しかしそれは夢の話である。
「まあいいわ。私たちの仕事は貴女を助けること」
「あたしは別に何も困ったことはないんですけど」
護人に目を向けるが、笑顔で首を傾げている。やはり思いつくものはない。
突然来た男女、困ってないのに助けると言う。
とんだインチキくさいカップルだな。
それが顔に出ていたのか、雲母と名乗った女性が私を見て微笑んだ。
「あなた、夢見が悪いわね?」
それはそうだが、今のところ少し寝つきが悪いくらいでそれほど問題視していない。
「あなたの夢には悪いものが関わっているの、それもかなりやばい」
「は?」
声に出してしまうくらいに、すっ飛んだ話だった。
「君の命が危ないんだよ。それでうちの所長自ら君の夢に会いに行ったそうだ」
夢に会いに行く。非科学的な話だった。
それでも未だ脳裏に焼き付いているあの人の姿が、助けると言ったその姿が、嘘だとは思えなかった。
複雑な思いを見透かしたように、目の前の二人が笑った。
「あの夢に出てきた、紫の髪の人が?」
「ええ、あのいけ好かない男がうちの所長ですよ」
「人使いが荒くて、容赦のない、それでもとても優秀な人です。貴女の声を、聞いたのだから」
二人がそう言って、誉めているのだか貶しているのだか分からない台詞を吐いた。
この人たちを信用していいのか、あたしはどうするべきなのか、全く判断ができなかった。
護人に顔を向けるが、またまた首を傾げられる。
そうなってしまうのも仕方がない、あたしもそうしたい衝動に駆られる。
「今のところ、何も問題は起きてないんですね?」
雲母さんが淡々と話を進めてくる、なんだか急いているように見えた。
「特にはないと思いますけど。問題って何が起こるんですか?」
「そうですね、誰もいないのに名前を呼ばれたり、触られたりですかね……」
営業スマイルだろう、綺麗な笑顔でそう言ってくる。戸惑いと苛立ちが、あたしの眉間に皺を寄せさせた。
「は?」
変な声が出てしまい、隣の護人に脇をつつかれた。駄目でしょ、と諭すような顔で見つめてくるので、あたしはもろもろを飲み込んだ。
「ごめんなさい、ちょっと驚いてしまって」
そう言って謝ったが、別段気にしていない様子である。
護人に視線で、この人たちはやばい、そう告げてみた。
彼は頷いて、そのやばい二人に視線を向けた。
「それってあれですよね、ストーカーですよね?」
あたしはガクッと崩れ落ちた。どうしてこいつはこんなに鈍いのだろう。
「違うでしょ! お化けとか幽霊とか、その話でしょ!」
あたしの突っ込みでようやく話を理解したようだった。
「ああー」
一呼吸おいて、首を縦に振るといきなり黙り込んだ。困った顔で何やら考えている護人は、今度こそ状況を理解してくれただろうか。
はっと、何かに気付いた顔をして、あたしを見つめてきた。そうです、この二人はきっと詐欺師なんです。
護人はがばっと怪しい二人の方を向いて口を開いた。
「それってやばいじゃん、お祓い頼まなきゃ!」
「いやいやいや」
慌てて護人の口を塞ぎ、溜息を吐く。対するあたしは開いた口が塞がらなくなった。
あたしの顔をなんで? という顔で見ているこの男の素直さに不安しか出てこない。いつか絶対詐欺に遭う、あたしが注意しておかなければ。
ひとまず未来の話は置いておいて、今のことを考えなければ。ゆっくりと話をしないといけない、この男に状況を飲み込ませる為には。
とりあえず今日のところはこの二人を帰そう。この相手は騙されてくれない、駄目そうだと思えばもう来ないかもしれないし、様子を見よう。
今はそれしかできない。この人たちが言うことがもし嘘でないにしても、あたしたちは彼らの事をなんともなしに信用することはできないし、現状困ったこともないのだから。
「すみませんが、今のところ困ったこともないので。とりあえずお帰りいただいても?」
「それで構わないですよ」
黒鉄さんが笑顔で言い、すっと立ち上がった。
雲母さんも続き立ち上がり、あたしに何かを渡した。お守りですと、差し出したのは白い指輪だった。木できているような軽い触り心地だった。
「肌身離さずつけておいてください。うちの所長からです」
エンゲージリングのようなそれは、あたしの指には大きすぎるように思えたが、中指にはめてみると意外にもぴったりだった。いや、なんというか縮んだような気がするが。
「それでは。またお会いしないといいですね」
意味深な言葉を残し二人は帰っていった。
雲母、黒鉄、よく分からない二人である。
「かっこいい二人だったね。友達?」
空気を読めず、そんな台詞を吐いた護人をとりあえず殴った。
「どう考えても詐欺でしょう」
「あの人たちは嘘を吐いていないよ」
「そんなこと言ったって……」
「俺はそういうの信じる方だし、勘が外れたこともない」
護人はあたしの話を聞くようで聞いていない。
どうしても、あの人たちを擁護するようだ。
「そこまで言うなら仕方ないわ」
どうしようもなく寂しくなった。
長い時間を共に過ごしたあたしより、あの二人の言葉を信じるということが。
「お前が心配なんだよ、分かってくれ」
そんな安っぽい言葉では満足できなかった。
「分かったわよ」
そう言って、話を終えた。
それから何日か、ぎくしゃくした日々を過ごした。
指輪のおかげか、悪い夢は見なくなっていた。それなのにあたしはよく眠れなかった。
あたしの心には、母の姿が浮かんでは消えてを繰り返していた。
父に置いて行かれ、あたしに異常すぎるほどの愛情を注ぎ込み、壊れてしまった母の姿が。
家には父の姿を写した写真が一枚もない。
それどころか、祖父も祖母も父の姿を見たことがないらしい。
それでも母は、父を愛していたのだと、だからあなたが大事だと。狂った愛情をあたしに向けた。
あたしはあんな風にはならない。
何度そう思っただろう。
隣には護人が眠っていた。
昔よく味わっていた感覚。一緒にいるのに、何も伝わらない。思いが、心が、全てが分からない。寂しい。
同じベッドなのに、あたしは独りだった。
そんな時だった。
久々に二人で夕飯を食べていた。
喧嘩のような状態が続いていたので、護人が仲直りのつもりでご飯を作ってくれた。それでも拗ねているあたしは、護人が話しかけてきても適当に返していた。
あたしもそろそろ仲直りしたい。一緒にいるのに一緒にいない、そんな感覚がとても辛かった。
久しく味わっていなかったその苦しみが膨らみ、溢れ始めていた。
「護人、あの……」
勇気を出して口に出した瞬間、あたしの声を遮るように玄関のドアが開いた。
鍵をかけていたはずなのに、どうして。二人で顔を見合わせ、玄関の方へと行ってみた。
そこにいたのは母だった、あたしはこの家を教えてないはずなのに、一体どうしてこんなことになっているのか。
見るからにやつれ頬がこけ、ぼろぼろだった。
「迎えに来たわよ。さあ、帰りましょう」
護人も困惑していた。今までになかった事態に、あたしよりも驚いていた。
「嫌よ、あんな家帰りたくないわ」
「いいえ、帰るの。あなたの家はここじゃないわ」
母の言葉はどうしてかあたしを惑わせた。従わなければいけないのだ、そう、まるで呪いのように。
「留美?」
隣であたしを呼ぶ声がする。
護人が呼ぶのに、あたしの頭の中で母の声に変わり反芻する。
母は不気味に笑っていた、虚ろな瞳で、あたしが必ず言うことを聞くと確信しているように。手招きをして再度あたしを呼ぶのだ。
あたしは声も出せずにただ従うしかなかった。
三
突然訪れた二人の訪問者に、俺は洗いざらいを話した。
お土産にと、大量に持って来たケーキを、空気を読まずにばくばくと食べている黒鉄さんの咀嚼音。それだけがこの部屋で響いていた。
俺は、ぼそっと言った。
「俺は、あいつを止められなかった。護れなかった、あんなに母親が苦手だって言ってたのに。空気に飲まれて声を発することもできなかった」
俺はどうしてか、言い訳のように話していた。
「帰りたくない。そう言ってたのに、あいつは……」
俺とあいつが出会ったのは中学の時だった。
誰かといても、いつも影のある笑顔を浮かべていた。そしてどこか寂しそうな顔をする。
そんな彼女を支えてあげたいと、護ってあげたいと、いつの間にか思うようになっていた。
両親は物心つく頃にはいなかった。親戚中をたらい回しにされ、高校の時にようやく一人暮らしが許された。
そんな俺とあいつの距離は急速に縮まった。
俺は大学に、あいつは就職してから一緒に住むようになって。
俺はこのまま、この楽しい時が続くものだとばかり思っていた、なのに。
がたん、何かが鳴った音がして顔を上げた。
すると二人も顔を見合わせ、俺の方を見た。俺は首を傾げ、あたりをきょろきょろと見る。しかし何も倒れてはいなかった。
「良くないわね」
雲母さんはもう冷めてしまった紅茶を飲むと、カップをテーブルに置いた。
二人は立ち上がり、玄関の方へ歩いていった。
訳が分からず座ったままおどおどしている俺を、黒鉄さんが一瞥した。
「ゆっくりしてる暇はない、お前も来るんだ」
黒鉄さんがそう言って、俺の腕を掴んだ。玄関まで引っ張られ、俺は靴を履く暇もなく、外へ連れ出された。
その瞬間、視界が歪んだ。そう思った時には身体が浮いていた。
「な!?」
「慣れないやつがしゃべると舌噛むわよ」
雲母さんがそう言ったのが聞こえた。
俺たちはいつの間にか、俺のアパートから町の上空にいた。真っ暗な中に光っている街の灯り。それが綺麗だと認識する頃には、急降下していた。
「――っ!」
腕を掴まれ、引っ張られているだけの状態の俺の身体は、ほぼ逆さまになっていた。
「見つけたわ、あそこ」
雲母さんが叫び、それに合わせるように今度は大きく右に旋回していて、俺の目が回りそうになった。
――どんな映画だよ、これは。
息ができないほどのスピードで、俺は引っ張られていた。ふと息ができる、身体にかかる圧が消えたと思った瞬間、地に降り立った黒鉄さんに手を離され無惨に地に落ちた。
くらくらする頭でなんとか立ち上がると、目の前に留美がいた。
母の後ろで、うつろな瞳で、暗い表情で。
『邪魔ァ をするな この子はぁたしのものだあ』
留美の母親から、低くくぐもった声がした。
「こりゃ大物だね、どこに隠してたんだか……」
雲母さんが、ひゅうっと口を鳴らした。
どうしてこんな状況で、あんなにも余裕を持っているのだろう。俺なんて怖さで震えてくる足を、必死に踏ん張っているというのに。
雲母さんと黒鉄さんから強烈な気配を感じ、俺は後ずさった。
よく見ると湯気のようなものが立ち上がって見えた。
その向こうでは留美の母親からも同じような黒い影が見えた。
「なんだ、あれ……」
「さすがに見えるか。やばいもんね」
黒鉄さんが笑って、俺を庇うように前に出た。
「元は土地神だろう、落ちたものだ」
「悪いものを吸い込みすぎたのね、こんなに醜い姿になって。可哀想に」
俺は向こう側にいる留美が心配になって、隙間から覗き込んだ。しかし留美の影がない。二人が見つめる先にいたのは真っ黒い毛むくじゃらの何か。
さっきまで留美の母親がいた場所に、そいつはいた。
「まじかよ」
「おおまじよ。だから危ないって言ったのに!」
俺の言葉を拾った雲母さんが、叫ぶように言った。
よく見ると毛だと思ったものが人の腕だった事に気付いた、途端二人が笑った。
「やるか?」
「もちろん」
二人が前に進もうとすると、黒い影は跳んでいなくなった。
そいつが消えたのは少し先にあった林の奥。
今気が付いたが、自分たちがいたのは駅前だった。
そう言えばこの辺は留美の実家があったはず。
家に帰っていたのか、でもどうしてこんな時間に外へ出たんだろう。
ぼうっとさっきの塊が飛んで行った方を見ていると、前にいた二人がこっちへ走ってきた。
「巣に帰りやがった」
「まずいわね」
座り込んだままの俺の手を、黒鉄さんがまた掴んだ。
「行くぞ」
「――え?」
俺の返事を聞く間もなく、俺はまた空に飛ばされていた。
降り立ったのは、薄暗い神社の前。
俺はまた息ができなくなっていたので、空気を吸い込むだけでいっぱいいっぱいだった。
暗い中、目を凝らして見えたのは古びた鳥居、社。ぼろぼろで崩れかかっているように見えた。
俺たちを突き放すように、強い風が吹いた。その酷い臭いに吐き気がした。
「怒ってるみたいだけど、あの子を助けないといけないからね」
「こうなる前にどうにかしたかったけど、なにしろ数が多くて何ともならなかったね」
「行方不明者二十人以上の大きなヤマだからね」
「これ以上犠牲者増やしたくないな。畠さん、うるさいだろうし」
二人は緊張感もなく、そんな会話をしている。
俺は何とも言えない恐怖から、全身が粟立ち震えていた。
悲鳴が、いや声すら出すことができなかった。
「これを渡しておくわね」
雲母さんがそう投げ渡したのは、丸い腕輪のようなもの。きれいな装飾の施された白い腕輪は、大きな紫色の石が不思議と輝いて見えた。
何とか受け取り、とりあえず腕にはめてみた。それだけで息をするのがとても楽になった。
それを認めると、雲母さんは笑顔を向け歩んでいった。
雲母さんが鳥居をくぐり、先に進むと何かの弾ける音がした。
吹き荒れていた風は急速に治まり、境内の奥にいたものの姿が露わになった。
先の黒い塊、黒い触手のような腕を何十本も生やしたあいつが。何体も、群れるように蠢いていた。
「一体じゃないのかよ……」
雲母さんが近づいていくと、怯えるように塊たちが集まっていった。そして大きな塊を作るように重なっていき、一つに合わさった。
「これで一体だろう」
黒鉄さんがくつくつと品の無い笑い声をあげた。
しかしそんな彼の顔に余裕など微塵も見えなかった。
四
黒い手が私を呼んだ。
黒、深い闇。あたしはあの闇に落ちるのだろうか。
ここに怖さはない、ただその手には近づいていけないと、そう直感的に分かっていた。
――あぁ、またこの夢だ。
親を捨ててきたあたしの罪を、この夢が責めているのだろうか。お前はこっちにいる人間だろうと、そんな明るいところにいるべきではないよと。
あたしは困惑しながらも手を伸ばした。
途端に悪臭と怖気がする生温かい風が吹き出した。
『おぃで』
黒い手がいくつもいくつも伸びてきた。それが私の身体を掴み、きりきりと締め付ける。
動けない、そうなってもまだ手はどこからともなく出てきて私の身体を求めた。身体中に黒い手が被さり、視界さえも覆われていく。
動かない唇、声を出すことも叶わない。
それなのに、なぜか恐怖を感じなかった。どうしてだろう、今まではあんなにも怖いと、助けてほしいと感じていたのに。
ふと目の前に母の姿が浮かんだ。
『私たちはここでずっと一緒なのよ』
柔和な笑みを浮かべ、あたしを抱きしめた。
あんなにも重く、苦しかった母の腕が、とても優しく温かいものに思えた。
どうしてだろう、ずっとここにいたい。
このとても暖かい場所で、母と一緒に。
『大丈夫』
母が突然、あたしの頬に手を添えた。
『お父さんも、三人で一緒なの』
どこからともなく、蜃気楼のように出てくる姿があった。
――お父さん?
初めて見る父の姿、それでも心が、身体が、そのが父なのだと確信する。
『留美』
初めて聞いた父の声、重く低く響く声。何度も呼ばれたことがあった気がした。
そうか、いつも夢の中であたしを呼んでいたのは、父だったのか。
『やっと三人で一緒に暮らせるわ』
母の声が響く。
三人だけの世界で、あたしは愛に包まれていた。
五
「寂しかったのね、こんなに沢山の人間を食って、どうしようもないくらい膨らんで」
黒い塊の、その毛むくじゃらが愛おしいというように手を伸ばす雲母さんは、とても美しい笑顔だった。
恋人を見つめているような、きらきらと美しい瞳で。
どうしてこんなに醜いものを、そんなにも輝いた瞳で見れるのだろうか。
毛むくじゃらがその触手を雲母さんに伸ばしていく。すぐに雲母さんは見えなくなって、そこにはただ蠢く塊があるだけ。
大丈夫なのだろうか。黒鉄さんは何も言わない、腕組みしてただ見つめているだけ。
その顔を見ると些か不安の色を浮かべているような。でも手を出さないのは彼女を信じているからだろうか。
「俺の顔どう見える?」
突然話しかけられた。あまりにも直接的に見ていたせいだろうか。
「何だか少し不安そうです。助けないんですか?」
その問いに、黒鉄さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「俺じゃ力不足なんだ、何もできない。ただ待っていることしか」
「え?」
彼はズボンのポケットに手を突っ込み、深呼吸すると、俺の顔を見た。
「俺は元々鬼なんだよ」
黒鉄さんはそう言って、悲しそうな表情で語りだした。
「俺の一族はある家系に仕える式だった。俺も生まれる前から、仕えることが決まっていた。だけど、産まれてきた時に、それが無理だろうと、すぐに死んでしまうと言われた。それほどに弱かった。ちょうど未熟児が取り上げられた瞬間に集中治療室にいれられるような、そんな状態かな」
黒鉄さんはそこで話を止めると煙草を取り出して火をつけた。ショートピース、その強い香りが辺りに広まった。
気持ち悪い何かの腐ったような臭いが、その香りに押され、遠ざかっていったように思えた。
「お前は鬼の姿がどういうものか知ってるか?」
頭に浮かぶのは、よく絵に描かれるような鬼の姿だった。
「角があって、牙があって……とかですか」
「そう。だが俺には角も牙も爪も、鬼としての力というものがなかったんだ」
嘲笑しながら、彼は自虐的に話した。
「身体は、鬼として生まれている、必要とするのは生き物の魂、エネルギー。しかし、それを得る術も力も俺にはなかった。大きな器に何もない空っぽで産まれてきた。俺は死ぬはずだったんだ。だけど今、生きている。雲母のおかげで」
一息を吐き、二本目の煙草に火をつけた。雲母さんはまだ出てこない。
黒鉄さんの顔には先より濃い不安の色が見える。
俺も心配になって、あの醜い塊に目をやる。それはだんだんと膨らんでいるように見えた。
「雲母は退治された生成りの腹にいた子だった」
不安を拭うように、黒鉄さんは口を開き続けた。
「なまなり?」
「人が鬼になる手前のものだ。退治された残骸の中から、血まみれの、人の赤子の姿で這い出てきたそうだ」
「そんなことって……」
「すごい話だよ。あいつの母親は、退治された生成りだが、元々は強い霊媒師だったんだよ。父親も陰陽を学ぶ家系で。だが、母は生成りに落ちた、父親は必死になって出てきた子を育てた。しかし、」
ひときわ強い風が吹き、話を止めた。煙草の火が消えてしまって、やれやれと新しい煙草を咥えた。
「あいつが五、六歳の頃、事件が起きた。身体が育つにつれて力も強くなる。その力が身体から溢れ出した」
「まさか、それって」
「あいつは鬼になったんだ」
ゆっくりと煙草をふかしつけ、大きく息を吐いた。
黒鉄さんは黒い塊を見つめている、その中にいる雲母さんを。
*
気が付くと、闇の中にいた。
鼻につく腐敗臭、肌に張り付くような忌々しい湿気、この闇の中にはそんな人を不快にするもので溢れていた。
どこからともなく、何かの音が聞こえてきた。それは次第に大きくなっていく。何かがざわついていた。沢山の声が重なっていて、一つ一つがよく聞き取れない。
耳を澄ましてその音が聞こえる方向へと進む。
『こわい』
『憎い』
『寂しい』
そんな言葉がところどころから聞こえた。
前に踏み出そうとするのに、それは何者かに阻まれる。敵に近づいているのは明らかだった。
私の足を、腕を、掴んではなさない物、それの親玉がこの先にいるのだ。暗くてよく見えない、しかしそれがなんであるか、見えなくても分かっていた。
「かまってちゃんは度が過ぎると嫌われるわよ」
私は溜め息を吐き、腕を振った。
腕にしがみついていた何かが悲鳴をあげて千切れていく。
無理矢理歩を踏み出し、足に絡み付くものまで千切りながら進む。
私は真っ直ぐ歩いた。暗闇の中に微かに見え出した光の方へ。
その光は弱々しく、時折何かに邪魔され消えてしまった。しかしそこに彼女がいることを示すには充分だった。
「助けに来たわよ」
光の方へと叫ぶと、世界が揺れた。この闇自体が私の言葉に同様しているように感じられた。
――お父さんがいないの、お母さんもいないの。あたしはひとりぼっちなの……ずっと独りなの――
彼女はもう寂しさ感じてはいなかったはずだ。幸せを知ったはずだった。それなのに彼女がここに呼ばれたのはどうしてか。
わざわざ彼女の元に母親を連れて行き、心を乱して闇に落とした。
それほどまでに、この闇が彼女を求めていたということ。
彼女に近づきつつ、闇に手を染めていく。
無理矢理こじ開けてしまったら、中にいる留美が危険だ。闇に同化させるように身体を埋めていくしかない。
彼女はもうすぐそこのはず。こんなにも強い光が見えるのに、どうしてこんなにも手が届かないのだろう。深すぎる闇が感覚を狂わせているのだろうか。
私も寂しさは知っている、貴女よりもきっと。だから助けに来ることができたの。
だんだんと息ができなくなる。流石にこれほど強い瘴気の中にいたらまずい。彼女の身体が持たない。
「居場所は自分で見つけるの、作るの。そうしないとずっと独りのままだわ」
闇がひときわ大きな悲鳴をあげた、気がした。
五月蝿い、これでは私の声が彼女に届かない。
――誰もいない、あたしはひとりぼっちなの……忘れられた、存在な のォ……皆ここにく ルことはない のおォォォ――
だんだんと、彼女の声が歪んでいった。最後にはもう誰の声か分からないような、たくさんの音が重なった声になっていた。
いけない、引き摺られている。この声はきっと、ここにいた土地神のもの。そして悲しくも食われてしまった人たちの。
「お願い、気づいて。貴女を導く光に!」
叫びながら、私は全身の力を放った。
鬼の姿なら、少しは長くここにいられる。
――ここでならあたしは幸せに暮らせるの――
留美は闇に捕らわれていた。この中にいることは幸せになんてならない。
現実から逃げて、闇に堕ちて。
結局独りなことから何も変わってなんてない。
私を囲む闇が一層濃くなった。
まずい、このままでは・・・あたしまで堕ちて……
意識が飛びそうになる中で、薄紫の髪先が見えた。
『こらこら、しっかりしなさい』
あの人が助けに来た。
私を救ってくれた人が、ここにいる。
私は腕に力を込めた、留美のいる場所へ届くようにと。
その腕に、あの人の腕が重なった、そんな気がした。
「貴女には護人がいるでしょ!」
瞬間、僅かだった光が大きくなった気がした。
――もり、ひと? ――
*
雲母さんのいるはずの塊の中、一体何が起きているんだろうか。
「幼い人間の身体で、強すぎた力を持つ。身を焼いたほどの苦しみだと、本人は言った。父親も御しきれず、手を焼いた」
彼はどんな思いでいるのだろう。待つことしかできないで、俺と同じように。
俺の前に立っているため、彼の表情を伺うことはできない。大好きな人を、護ることができずにただ待っているしか……。
そんな俺の思いを知ってか知らずか、彼はふと振り向いた。
「そして俺たちは出会ったんだ。力を欲する俺と、力に溢れたあいつが」
黒鉄さんは笑っていた。
嘘も何もない、綺麗な笑顔で。
吸いかけの煙草を地に落とし、踵で火を消した。
どうしてかその火花が飛び散り、一瞬で世界が明るくなった。
俺は眩しさで瞼を閉じた。少し経ってから恐るおそる開けて見ると、光っていたのは腕輪だった。
『もり、ひと』
腕輪から聞こえてきたのは留美の声だった。
「留美!」
俺は叫んだ。何度も何度も。あいつがそう求めている気がしたから。
瞬間爆発音が響き、そちらへ視線をやると、あの醜い塊が弾けていた。
そこから出てきたのは美しい鬼だった。
銀色に輝く髪を靡かせ、赤い瞳でこちらを見つめる雲母さんが。
その背後に、彼女よりも一回り大きな鬼の姿が見えた。
薄紫の髪をした、優しい笑顔の。
それがあたりの黒い影を連れて包み込んだ。
しかし気のせいかと思うくらいの間に消えてしまい、俺は瞬きをした。よく見てみるが、もうそこには雲母さんしかいない、そしてふわふわと宙から降りてくる留美がいた。
雲母さんが抱き留め、しかし彼女は崩れ落ちた。俺と黒鉄さんは駆け寄っていく。
「大丈夫、意識を失っているだけ」
雲母さんは息を切らしながらそう言った。
真っ白な顔をした留美。それでも生きて帰ってきた、それが嬉しかった。
俺の腕輪と同じように、留美の指輪が光っていた。
雲母さんから留美を受け取り、その手のひらを握り締めた。
「良かった」
意識のないはずの留美の頬には涙が伝っていた。
六
「あれ自体が、ずっと独りだった。寂しかったんでしょう。そして仲間を求めた」
雲母さんは、私を護人のところまで運んでくれると、そう言った。
家に帰って目を覚ましたあたしの着替えを手伝ってくれたのだった。
ベッドに横になり、あたしは雲母さんに詫びた。
「あたしの寂しさがこの事態を招いた」
あたしは流れる涙を止められぬままだった。
「貴女に非はないよ。ちょっとしたすれ違いか寂しさを生み出し、それが思わぬ方向で肥大してしまった。あれは幸せだった貴女を揺さぶるためにお母さんまで使った」
雲母さんは黒鉄さんの方を見て、寂びそうに笑う。
「お前も悪くはないし、お前の母さんも悪くはない」
そう言って護人があたしの涙を拭った。その仕草がとても優しくて、そして温かいものだと分かるから、涙を止めなければいけない、そう思った。
「お母さんは、あちら側へ行ってしまった」
「ええ。分かっています。あたしは護人の声が聞こえたから戻ってこれた。何度もあたしを呼んでくれたから」
護人が笑った。あたしの声に応えてくれたから、あたしは帰ってきた。
偽りでも家族三人一緒だったあの空間で、一瞬でも幸せを感じていたのは確か。
それでも惑わされなかったのは、彼がいたから。
「良かったんだよ、あなたは。いい彼氏に出会えて」
雲母さんが、彼を見た。
「今宮護人、元々ここの神主だった一族の末裔。だから彼の力に護られた、そしてこの落ちた神も手を出しにくかった」
「俺んちが宮司だったなんて、知らなかった」
あたしは彼に護られていた。色んな意味で。それがとても嬉しく、そばにいた彼に手を伸ばす。
彼が私の手を受け止めてくれた。
そんなどうしようもないことで満たされる、とても幸せだと感じた。
*
彼女なら、もうどんな現実も受け入れられるだろう。
「一つ、言わなければいけないことがある」
私は留美の顔を見据え、ゆっくりと言った。
「貴女の父親は、さっきのあれよ。お母さんは、この事件に絡んで無事に帰った唯一の人間。その理由が貴女。貴女を産むために、帰ってきた」
彼女もそれがどんな話なのか、おおよそ分かっていたような表情で見返してくる。涙に濡れているが、強く覚悟をしている瞳だった。
「なんとなく分かっていました。あの暗い世界でどうしようもなく怖かったけど、でも同時に何かに包まれている安心感があった」
留美は隣にいる護人に視線を向けた。
「愛なんて、誰にも教えてもらえなかった。でも今では……分かる気がする」
彼女は頬を染め、幸せな瞳で私を見た。
「誰かと一緒にいたいと、この人は一緒にいてくれるのだと、信じる事ができるようになったもの」
護人は耳まで真っ赤になってそっぽを向いた。どうやらうぶらしい。
「良かったわ、貴女だけでも助けることができて」
私は立ち上がった、しかし疲労からふらついてしまう。そんな私を、不安げな表情の黒鉄が支えた。
心配ないと瞳で訴えて、それでも彼の腕を借りてこの家を後にする。
「大変になるだろうけど、よろしくやりなさいよ」
動けない留美に手を振る。もう別れの時だ、長居はよくない。
護人は玄関まで見送りに来たが、留美についていろと言ってさっさと追い返した。
黒鉄が私を支える腕に力を込めた。しかし気づかない振りをして進んだ。あいつが黙ってついてくるのは分かっていたから。
私たちは彼らの前から姿を消す。一瞬で空高く舞い上がって。
星空の中を、ゆっくりと歩くように進む。
天も地も光で溢れ、暗闇に宝石を散りばめたような輝きだった。
ふらふらと散歩を楽しんでいると、黒鉄がその行く手を阻んだ。
「言わなくて良かったのか?」
いつになく真面目な顔だった。私はその理由を知っていたけれど、彼には譲らない。
「まだ良いでしょう、直に分かってしまうわ。それまでは幸せな時間を過ごさせてあげましょう」
ぽんと、私の頭の上に手が置かれる。
「それが幸せかどうかは、俺たちにはなんとも言えないがな」
彼は笑った、だから私も笑うことにした。
「帰ろう」
手を繋いで歩く空の道。
私たちは二人出会えたから生きていられる。
しかし、彼らは……。
堕ちた神の子、彼女は人ではなく仮生の物に近い。もし今回の件で力が目覚め、より仮生に近くなってしまったら。あの二人は共に生きていくことができるだろうか。
時の流れが違う、それは酷く苦しい。あまつさえ愛し合う二人には。
?
畠の家を訪れると、今日は畠自身が迎え入れた。どうやら奥さんがいないようだった。
「畠さん、この事件はもう起きないわ」
「そうかい」
畠は雲母の話を聞きながら不機嫌そうにハイライトをふかしていた。
俺も一緒になってピースをふかし、雲母の話を聞いていた。
「原因は貴方の言った通り、神社の神様。それが寂しさを感じていた人間を巻き込んでいた。あの神はもう消えたから、これから何かが起こることはない。最後の犠牲者は出てしまったけど」
静まり返る室内、俺と雲母の背には嫌な汗が伝っていた。
「……最後の犠牲者?」
そこに食らい付いた、俺も雲母も突っ込んでほしくないところだった。
「唯一帰ってきた人、いたでしょ? その人はどうしても向こうがよかったみたいで……」
「あ?」
「ごめんなさい」
雲母がしょんぼりと項垂れていた。しかしそんな姿も見慣れた畠が、俺たちを許してくれることはなかった。
今回は本当に大変だった。
あの神は夢に入り込み人を誘った。だから俺は何度も夢に入って、これ以上の犠牲者を出さないように走り回った。
「大丈夫、こっちからちゃんと報告書は出すから」
そうは言うが、畠の機嫌は悪いようだった。
「畠、奥さんがまた実家に帰っちまったからって俺たちにあたるなよ」
俺の一言に、堪忍袋の尾は切れたようだった。
「うるせえ!!」
俺と雲母は笑いながら急いで家を出る。
「もう来るなよ!」
畠は怒鳴った、図星だというように。
俺と雲母は笑った。
飛びつかんばかりに怒り散らす畠は、こうなってしまうと止められない。
昔からからかいがいのある男だった。
慌てて立ち上がり家を飛び出すと、外までついて来た。
「もう二度と来るなよ!」
顔が茹蛸のように真っ赤で、年をとって後退してきた髪の毛が、それを余計に目立たせていた。
こんなにも面白い人間をからかわずにはいられない。
楽しいことはとことん楽しまなければ。
今の時代に出会うことができたのだから。ほんの僅かな間しか、共に過ごすことはできないのだから。