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青年はすぐに立ち上がる。
「父さん、アサをお願いします。それと戸締りをしっかりしておいて、今夜は決して外に出ないようにしてください」
それだけ言うと、青年は家の外に飛び出した。
山神の祭られている神社向かって駆けていく。
母にもらった魔よけの鈴を腰に下げ、青年は息を切らせて神社の石段を駆けのぼる。
神社の社の前には、昔と同じ姿の緑の目の少女がつまらなさそうに座っている。
成長した少年を見つけるなり、緑の目を丸くする。
「お前、どうしてここに来た。今夜は山神様が里に下りる夜だぞ?」
青年は少女に歩み寄る。
息を整えながら話す。
「だからだよ。今夜なら山に金竜草が花咲くのだろう? 僕はそれを取りに来たんだ。どうしても助けたい人がいるんだ」
青年は真剣な顔で少女に訴える。
少女はしばし考える素振りをしていたが、無言で立ち上がる。
「ついて来るがいい。金竜草の咲く場所へ案内しよう」
少女は山道を登っていく。
青年は少女の後ろを歩いていく。
闇の中をどれくらい歩いたのか、開けた場所にたどり着いた。
「ここだ」
少女が指さす方向を見ると、藪の中にぼんやりと金色の光が見える。
青年は金色に光る花を手折り、着物の胸元にしまい込む。
「これがあれば、アサが助かるかもしれない」
青年のつぶやきに、少女は眉をひそめる。
「アサ?」
怪訝な顔をする少女に、青年は答える。
「あぁ、薬草を摘むのを手伝ってくれる村の娘なんだけど、心臓が悪くて、今までに何度も発作を起こしているらしくって」
「ほおぉ、つまりは女のためなのか」
少女の眉が跳ね上がり、声に怒気がこもる。
「女のためだと知っていれば、私も案内はしなかったものの」
少女はぶつぶつと文句を言いつつ、山道を歩いていく。
「え、女性だと駄目なのか? もしかして、この金竜草は女性には効かないのか?」
「そういう訳ではないわ」
青年は慌てて少女の後を追いかける。
境内に戻ってきた少女は、まだ不機嫌そうだった。
山道を帰る間中、一言も口を効いてくれない。
青年はふてくされている少女に頭を下げる。
「ありがとう、ヒルコ。君のおかげで金竜草をまた取ることが出来て良かったよ。それにまた君に会えたことは、とてもうれしい」
青年の素直な物言いに、少女は頬を赤くする。
「べ、別に、私はお前にまた会えたことは、全然うれしくないぞ。もう金輪際手は貸さないからな。さっさとその金竜草を持って、そのアサとか言う娘を助けてやるがいい」
吐き捨てるようにつぶやく。
青年はにっこりと笑う。
「うん、ありがとう、ヒルコ」
青年は少女に背を向け、石段に足をかける。
――りん。
不意に腰に下げた魔よけの鈴が澄んだ音で鳴る。
青年は全身に鳥肌が立つ。
――りんりん。
鈴は勢いよく鳴りつづける。
青年は石段の両側にある林に目を向ける。
背筋に冷たい汗が流れる。
いつの間にか、辺りは静寂に包まれていた。
虫の音一つ、葉のそよぐ音さえ聞こえない。
――りりん、りりん。
腰に下げた鈴だけが、不気味なまでに鳴り響いている。
青年は視線を感じ、そろそろと振り返る。
少女の立っていたはずのそこには、闇の塊のようなものが集まっている。
それが異形のものであることを、青年は本能的に感じ取った。
こちらに向かって覆いかぶさってくる。
青年が動けないでいると、不意に着物の袖を引かれる。
「山神様が帰ってきた、逃げろ」
少女の声が耳元で聞こえる。
青年は弾かれたように石段を駆け下りる。
全速力で家への道を駆け戻る。
――りんりん。
青年が一生懸命走っても、鈴の音は鳴り止まない。
むしろ音は大きくなるようだった。
闇の塊のようなものは物凄い速さで青年に迫ってくる。
青年が全速力で走っても、距離はいっこうに広がらない。
むしろ縮まってくるようだった。
もしもあの闇に取り込まれたらどうなるのか、青年はあまり考えたくなかった。
山神様に連れていかれるとか、神隠しにあうとか言われるが、現実的に考えて、命はないだろう。
最悪の事態を想像して、青年は誰にともなく祈る。
(せめて自分の命が失われてもいい。でもせめて、アサの命だけは助けてくれ。彼女が生きてくれれば、僕の命なんてなくなってもいいから。せめて彼女だけは)
青年は徐々に近づいてくる家の明かりを見ながら、ぼんやりと考える。
闇はすぐ背後に迫り、逃げられないだろう、と青年はすべてを諦めかけていた。
青年が小川の橋を渡っていた時だった。
「諦めるな。何としても生き延びろ」
耳元で緑の目の少女の声が聞こえたような気がした。
とんと背中を押され、青年は橋から小川へ転がり落ちる。
びしょ濡れになりながら、あまり深くもない小川から上を見上げると、ぼんやりと光る少女の姿が浮かんで見えた。
少女は緑の目を青年に向けて微笑む。
「ありがとう、ヨル。お前のおかげで、私は長年の孤独から解き放たれた」
(ヒルコ)
青年が少女の名を呼ぶ間もなく、少女の姿は青年を追って来た闇に包まれる。
少女の光が闇に包まれ散り散りになるのを、青年はなす術もなく眺めていた。
小川の水の流れる音を聞きながら、青年はのろのろと起き上がる。
気が付けば辺りはうっすらと朝の光に包まれている。
山の端に昇ったばかりの太陽から、光の筋が降り注ぐ。
「そうだ。早くアサのところにこの金竜草を届けないと」
青年は小川の土手を上り、明るくなったあぜ道を自分の家を目指して歩いていく。
びしょ濡れで帰ってきた青年を、両親は驚いて出迎えた。
しかし青年に渡された金竜草を見て、父は苦しんでいるアサにすぐにその薬を飲ませた。
心臓の発作は収まり、アサは元気になった。
青年は父の跡を継いで薬師となった。
それから間もなく、青年はアサと結婚した。