死海図書館 1
「イヴ、ここは寒いね。暗いし……何もない」
ロアは言う。けれど、多くの物がここにはある。世界に路を敷く水盤の上、足元を覗けばもう一人の自分。傍らを返り見れば、ハッとして、暗がりのたまり場がそこにある。湿り気を帯びた土の匂いや、年輪を重ねた枯れ木の匂い、水気に晒した鉄分の匂いも、ロアを求めて触れる手を伸ばす。
「僕たち、どこに向かっているんだろう……」
遠邇の闇は無限の広がりをみせて……闇溜まる‘そこ’には空間があるけれど、嫌な感覚を禁じ得ない。世界には暗闇のたまり場があり、それは、世界を蝕む綻びとなって、視界の節々で息を潜める。知らずに踏み入れることを許さない……ゆえに、先の見えない迷路を形作る。
光は始終あたりを飛び回り、くるくると螺旋を描く仕草を示すと、ロアの肩、肘にすり寄ってくる。まるで‘そちら’へ促すように……促されるまま先へと進む。
件の闇は光を透さず、知らずに傍らを通り過ぎていて、光の瞬きに気づかされる。濃密な塊は正体を現して、ゴクリとつぶさに息を呑むのだった。
光にはお気に入りの仕草があるよう。くるくるくると三度回る……けれどこの時は半ばで掻き消え、暗闇にすんと呑み込まれる光……瞬きひとつと肩先にあらわれて、頼りない様子で幽暗を仄めかす。
『敵。ロア……』
篝火の先。それは遠くに。果てしなく拡がる風呂敷の闇の、無数に綻ぶ暗幕の隙から……ひたひたと見え隠れする『何れか』を感じとる。
気配であり、視線であり、影である何者か。それはひとえに剥き出された敵意を従え、闇深き間に介在する叛意を具現する存在。
『敵が来る、ロア、……が来るよ』
弱弱しい発光……光の訴え。傍らで息衝くイヴを見る。押し寄せる圧力に抗いようもなく、ただ消え入る燭台の火を窶すよう。
「イヴ……?」
静まり返った世界の水盤。
つま先にあてられた水面の泡沫。波立たず、そこで終わりを迎える。薄氷の上を往く心地に素肌が泡立ち、脳裏の表象が眼下を過ぎ去る。
明滅、イヴの明かりは儚きものに。しかし、飽和する闇に変化はない。水面深くより生じる些細な光の恩恵に預かるが、視界にかかる暗幕は目の前からというより、闇境を越えて打ち寄せる圧力の一つであると、接近する悪意が宣告している。
無機質な姿。だがそれには望むべくもない一部分が秘められている。ロア・ロダン、少年と似通う唯一の器官……そして、確かに相似な二人の姿。その在りようはいずれであれ不可解。
無機質な尾、さながら左右に転回する機動的な基部を備える。影に蝕まれる異形の身体は、突如、すうと大きく幽暗を薙いだ。
『ロア、ロア気をつけて』
無音。だが、空気の軋む圧力を感じる。視界が割れて、赤く滲み出す危険信号。気付くと、無機質な尾部が、先端を地に向け縫い付けている。
−−弾ける。
紫紺に色づく粒子が舞い上がる。
紫の奔流に意識が攫われる。
淡い光の点滅を探す。打ち出された威力に揺らめく火。
飛散する粒子に翻弄され、叫ぶ声もままならず立ち位置を見失う。
騒ぎ乱れる手枷の絶ち緒。跳ね上がりに生じる一寸の隙間から、悪意の影差す来訪者をみとめる。
『ロア……闘って。そして、倒すんだ』
ふらふらと、虫の息を繋いで現れるイヴ。暖かな蛍火。けれど、紫の粒子に行く手を阻まれる。頼りない信号を掲げて闇夜を迂回。肩先にとまると……霧散してしまう。
「イヴ……」
潰える蛍火――。
『ロア』
胸のあたりから声がする。光が集まり明かりが灯る。
安堵の気持ちが一息つかせる。しかし、人ひとり分隔てた濃霧の先から、粒子の渦巻く闇を押しのけ、穏やかでない叫びが耳に齎される。力ある言葉をうたっている。
「イヴ。あいつは、あれは、何――?」
『ロア。落ち着いて。ロア。エンベッド』
「‘エン……ベッド’」
――embed。
『そう。エンベッド。ロア、頭上、来るよ。逃げて――』




