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エヌ・ユニヴァーシティ

せんせい

作者: 白皙けいぎ

「わたしは学生に愛されている。これからも、これから先も」

 D教授は煙草を深く吸いながら、そう思った。そして意味もなく自分の研究室を見渡した。机上のパーソナルコンピュータと筆記用具を除けば、視界に入るのは学術書を中心とした書籍ばかりであった。D教授はこみ上げてくる恍惚感に酔いしれながらまた煙草を呑み、鼻からけむりをゆっくりと出した。この烟をぼんやりと眺めながらD教授は、「これは哲学でなく法学の烟だ」とむかし学生たちに云ったことを思いだした。

 D教授は読みかけの憲法学の論文に赤ペンを入れると、机の脇を見やった。そこには綺麗な包装紙につつまれた菓子折りと一通の封筒があった。その封筒には「D先生へ」といかにも女学生的なクセのある文字が書かれている。これはD教授のゼミの卒業生のHが、出張先の土産として贈ってくれたものだった。

「わたしは学生に愛されている。これからも、これから先も」とD教授はまた思った。

 彼は今の自分に誇りを抱いていた。それには自分の華々しい学歴、自分の愛妻、そして自身が就いている教授という職が色を添えていた。またD教授は烟をくゆらせて、いわゆる悦の境地にひたった。

「私には自尊心の拠り所がある」D教授は眼をつむりながら思った。「私が歩んだ経歴、今あるの私の地位――これらが自尊心の拠り所だ。それらに立脚してこそ今の私がいる。そういう拠り所がないやから民族主義者ナショナリストになって、至る所で悪口雑言をぎゃあぎゃあと喚き散らす。そして我われ善たる進歩的知識人インテリが悪たる民族主義者ナショナリストを糾弾する――善対悪の構図が形成される。だが、その構図の中に、民族主義者ナショナリストに対する我われ進歩的知識人インテリの優越感が入り混じっていることも認めねばなるまい」


 D教授の悪い癖の一つに、突如物思いに耽るという癖があった。その物思いに入ると、それまで進めていた作業をぱったりと中断してしまう。この時もその例に漏れなかった。教授はいつのまにか持っていた赤ペンを机に放り出し、論文の上に肘をついて、あれこれと悦なことを思った。はじめの内は頭の中だけの現象であるのだが、その悦の度合いが昂じると、それは独り言となって口の外へとポロポロともれていった。もちろんこの一連の流れはすべて無意識下で行われるものである。


 その時、このD教授の悦を乱す過去の思い出がいくつか頭の中に浮かんできた。彼にとって、これらの嫌な思い出は、自己の領域を侵す防ぎようもない害悪であった。

「あれはたしか数年前だったか」教授は苦悶しながら思った。「私の講義が始まる前、前列に座ってたあの学生だ。奴は『右翼は己の拠り所を民族に求め、左翼は己の拠り所を自分愛に求める』とか云っておった。『しょせん右翼と左翼の闘いは、民族愛と自己愛の相克にすぎない。だからこそ、双方の争いは低次のものであると認めなければならない。本当の自己の拠り所というものは、あまねく他者への奉仕に求めるべきだ』とか云って――馬鹿め。学歴コンプレックスが思いつきそうな発想だ。彼らの云う左翼には私も含まれているのだろう。そして私の拠り所――地位――学歴――あの学生は、これらを私の拠り所として考えている――」

 そしてDは煙草を新しく一本取り出して強く吸った。自分の中にある負の記憶を燻蒸するかのように。

「ずっと昔、居酒屋でからんできたあの男のことも癇に障るな。いかにも無教養な風貌で、無精ひげを伸ばし、不潔な身なりをした男だったな。あの男は私を見るなり、礼儀を弁えず話しかけてきおった。『あんたらは勉強したことを誇っているが、どうもおれには理解できねえ』だとか云って。私は無視を決め込んだのに、あの男はべらべらと喋りつづけた。『お勉強なんて結局のところ、机に座って文字を読んで、ノートにペンを走らせるだけじゃないか。別に死を突きつけられているわけでもねえし、別に飢えに苦しむわけでもねえし、それにお勉強して誰かの助けになったのかい。お勉強なんて、自分の、自分による、自分のためのものじゃないか。俺に言わせれば遊びと変わりゃしないよ。紙一重未満の差だよ』だとかなんとか喚きちらしていた。ふん、どうせあの男は右翼なのだろう。あの無教養の度合から察して右翼に間違いない。喜んで君が代を歌い、国旗を揚げて、天皇陛下万歳なのだろうな。無教養のクズだからな」

 教授は吸い付くした煙草を灰皿に押し付け、またもや新しいのを一本取り出した。彼の燻蒸は続いた。

「そういえば、あの答案をよこした学生Sも気になるな。これももう何年も前の話だが。ろくに勉強もしないで、めちゃくちゃな答案を提出してきやがった。あれは憲法概論の試験だったな。しかしあの答案の趣旨逸脱加減は甚だしい。なにが『憲法とかいうちっぽけな枠に収まりたくはありません』だ。『憲法が全面改正されたら今いる憲法学者の価値はどうなるのですか』だと。まったく馬鹿らしい。Sもきっと右翼なのだろう。我われ護憲派の考えなど理解できるわけがない。なんのための硬性憲法だ。なんのための法の支配だ。Sは法治主義との区別すらついてないんじゃないか。まったくこれだから右翼は……」

 D教授はまた一本の煙草を吸い尽くすと、ふと我に帰った。そして吸殻を灰皿に押し付けて、赤ペンを握り、中断していた論文に眼を通しはじめた。しかしこの日のD教授は異様なほど集中する力が欠けていて、まったく作業は進まなかった。そしてD教授は数十秒ほどボンヤリとすると、自身の頬をピシャリと自分で叩いて、外へ出た。気分転換という大義名分を付けて。

「今日はO大学での特殊講義も請け負っていたな。でもまあ、それまでには時間があるさ」D教授は自分に言いきかせた。


 D教授はキャンパスの売店で紅茶を買うことにした。その売店へと行く途上、教授は行き交う学生の顔を見て思った。「本当にマヌケな顔をしているな、ここの学生は。しかしこのマヌケづらを少しでも凛々しい顔に変えて送り出す――それが私の使命だ。けれどもまあ、ここの学生の顔を見ていると、やはり学歴差別は肯定しなくちゃならんな。こんなアホどもがO大学の連中と同じ土俵で戦えるものか。もちろん民族差別は駄目だし、マイノリティーは尊重せねばなるまい。けれども、学歴の差別は肯定されてよい。それこそこの国の、いや世界の平和の為になるのだから。学歴が悪い奴は大抵右翼だ。右翼は民族を差別し、マイノリティーへの理解も薄い。おまけに教養も思考力もない。だからこそ学歴差別は肯定される。学歴は個人の努力のみならず人格までも物語っているからな。そう、合理的な学歴差別は許される。いや、差別という表現は正しくないか。区別の方が正しい表現だ」

 教授は売店に着くと、学生に紛れてペットボトルの紅茶を買った。そして店から出るや否や、貪るようにそれを飲み干して、近くにあったゴミ箱にボトルを捨てた。するとまた異様に煙草が吸いたくなり、近くの喫煙所に赴き、また一本に火を付けて、烟をはいた。

 喫煙所所には二人の学生がいて、なにやら雑談にふけっていた。一方の学生は髪を茶色に染めていて、服装もいわゆる今風のものであり、もう一方の学生は眼鏡をかけた地味な学生だった。D教授には彼らに会話が成り立つのだろうかとも思われたが、好奇心にかられて何気なく耳を傾けてみた。

「I君はどうなの。部活を休んでからは」と地味な学生は云った。「勉強とかに注力してるのかい」

「まあね」と、Iと呼ばれた洒落た方の学生は応えた。「時間が有り余ってさ。見ての通り、この脚じゃ部活はできないし。アルバイトもできないよ。だからとりあえず名作と云われる小説を片っ端から読んで時間をつぶしてるよ。これでおれも文学青年さ」

「例えばどんな小説を読んでるの」

「ああ、いっぱい読んでるよ」Iは髪を掻きながら、照れくさそうに云った。「トルストイとか鴎外とかプルタルコスとか。受験勉強で見かけた偉人の小説を中心にね。やっぱ著者と作品名ばっか暗記したって意味ないと思うんだよ。やっぱ中身に眼を通さないと」

「へえ。じゃあ授業の方はどうだい。ちゃんと出席してるの」

「もちろんだよ。やっぱ学費払ってんだからな。そう思うと脚を骨折して正解だったな。部活動なんかより、今の生活の方が学生らしいし、充実してる」

「おすすめの講義はあるかい」地味な学生は興味深く訊ねた。

「ああ、D教授の憲法概論は最高だね」

 D教授は身体からだをびくりと震わした。まさか自分の名前が出てくるとは思ってもみなかった。教授は自分の存在が彼らに悟られていないことを知った。教授は思案した。「この場を去るべきか否か」と。

 一方、Iはこれまで溜め込んだ考えを噴出するかのようにべらべらと喋りはじめた。

「今まで自分の政治的立ち位置なんて考えたことなかったけどさ、D教授の授業でおれは目覚めたよ。おれはリベラル派だね。護憲万歳だ。天皇制は反対だ」そしてIは少し息をついて、また話した。「そもそもさ、改憲論者なんて、ろくに憲法を勉強してないあかしなんだよな。奴らみたいな改憲論者っていうのはね、つまるところ戦争が大好きなんだ。歴史認識がおかしいから戦争が好きになって、それでもって改憲派になるんだよ。まったく、ちゃんと腰を据えて憲法を勉強すべきだよなあ」

 D教授は笑いをこらえるのに必死であった。自分が講義中に云ったことを、Iがそのまま繰り返していたからである。もっとも部分的にはIの理解不足で、D教授の意図がそのまま伝わっていないものもあったが。

「意外とN大学も捨てたものではない」と、教授は思った。「学生の顔がアホ面に見えていたが、やればできる学生もいるじゃないか。きっとこのIという学生は私を尊敬しているのだろう。該博なインテリとして見てくれているんだ。悪くないな。まことその通りだしな」

 IはさらにD教授を褒めそやした。彼は、D教授がO大学の法学科を優秀な成績で卒業し、さらに海外の大学院で博士号を修得したことや、その知識は法学のみならず人文科学や自然科学にも通じていること等々を挙げていた。まるでIはD教授の存在を意識して語っているかのようであった。

 D教授はIの言葉を聞きながら、

「我ながら、授業中に自慢話をしすぎたな」と感じた。「自慢話にならないよう、話題に連関しながら、遠回しに自分の経歴を披瀝していただけなのだが」

 そしてまたD教授は、煙草を味わいながら自分の世界へと没入した。まず自分の学生時代を思い浮かび、その学生時代に夢中になった麻雀、その麻雀で覚えた煙草の味、その煙草を買う際お世話になった煙草屋、その煙草屋の女性店員、その女性店員の美しい顔立ち、その顔によく似た大学院時代の初恋相手――その初恋相手との失恋、その失恋による意欲の低下、その意欲の低下による学業の成績不振、その成績不振による鬱、その鬱の時に味わった煙草の烟、その烟による嫌な記憶の燻蒸――D教授の意識の流れが止め処もなくつづいた。

 しばらく経ってD教授は我に帰った。隣にいた二人の学生はもういなくなっていた。

「もう授業開始のベルが鳴り終わったのだろう」とD教授は思った。「私もあっちの大学に行く頃合いかな」

 D教授は燃え尽きた煙草をゴミ箱に捨てて、その場を発った。気分はいささか心地よかった。心の燻蒸が奏功したのだろう。

「私は学生に愛されている。これからも、これから先も」

 D教授はそう独りごちた。


(了)

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