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「勝利した彼女はシナリオ通りに、」

作者: 杏藤亨
掲載日:2026/09/25

「転生」って、転生される側からしたら、乗っ取りでは?


ある日、婚約者が「前世を思い出した」と言った。

それから友人も、従兄も、クラスメイトも。

みんな顔も声も記憶もそのままなのに、少しずつ、セシリアの知らない人間になっていく。

彼らは楽しそうに言う。


「ここってゲームの世界じゃない?」


そしてセシリア自身の頭にも、知らない女の声が聞こえ始めた。これはゲーム転生ものの、転生される側から見た話です。


※ホラー。自傷・嘔吐・流血・自死等の描写があります。


*****


昔Xで書いた

「近頃婚約者の様子がおかしい。というか、周囲の人間が皆おかしい。あの令嬢が現れてから、私の婚約者も、長年友誼を結んで来た令嬢令息達も、前世を思い出したと言い出したのだ。おとめげえ、だとかシナリオがだとか、妄言を言い合い楽しそうにしている。怖いのは私だけなのだろうか。」という140字小説を元に書きました。


「勝利した彼女はシナリオ通りに、」


最愛の婚約者が狂ったのだ、と。セシリア・アルヴェーンは、最初そう考えた。

そうではないと気付いたのは、いったいいつのことだっただろう。婚約者だけではない。自分の周りにいるすべての人たちが、もしかすると自分までもが、――――何かが、壊れ始めている。

始まりは、春だった。王立学院の中庭で、婚約者のエドワードが突然に倒れた。

その日はよく晴れていた。雲ひとつない快晴で、春の柔らかな陽射しが中庭いっぱいに差し込む過ごしやすい日だった。

気持ちの良い日ね、こんな日は授業ではなくてピクニックにでも行きたいわ。そんな平和そのものみたいな会話を、友人としたことを覚えている。

薄桃色のブラッサムの花が咲き乱れる季節で、昼休みになれば中庭には多くの生徒が集まる。セシリアも友人のクラリッサと一緒に昼食を終えたところで、花の瑞々しい香りと、木々の爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込めるのが心地良かった。

食後のお茶でも飲みましょうかとクラリッサと相談していると、遠くからエドワードが歩いてくるのを見つけた。

エドワード・スフェーン。セシリアの婚約者。十歳の頃から、ずっとそうだった人。


「エドワード様」


クラリッサに一言詫びてから彼の名前を呼ぶと、エドワードはセシリアのいる方を向いた。セシリアが彼に向かって軽く左手を振る。エドワードはいつものように微笑む。そのはずだった。


「あ」


けれどその日は違った。微笑む代わりに彼の目が見開かれ、ぴたりと足が止まる。その視線はセシリアではなく、その少し向こうに向いていた。不思議に思って振り返ると、よく似た双子の男女がいた。

話したことはなかったが見覚えはある。確かセシリアとエドワードの同学年の子爵家の双子で、名前はミナ・ハーシェルとブラウ・ハーシェルだっただろうか。赤みがかった金髪が美しい二人で、よく似た双子だから話の話題に上がることが多く、それなりに有名だった。けれど、ただそれだけのはずだった。少なくとも、そのときまでは。


「……ミナとブラウ?」


背後で、エドワードが呟いた。

妙な声だった。知人を見つけた声ではない。まるで、いるはずのない人間を見つけたような声。振り返ると、彼は真っ青になっていた。


「エドワード様?」

「嘘だろ」

「え?」

「嘘だろ。じゃあ、この世界って」


ふらり、と彼の身体が揺れる。駆け寄ろうとして間に合わない。エドワードがその場に崩れ落ちるのを、セシリアは咄嗟に手を伸ばしながら呆然と見つめていた。


     *


王立学院の医務室に担ぎ込まれたエドワードは、程なくして目を覚ました。

覚ましたのだが。目覚めた彼は、寝台の横で付き添っていたセシリアに妙なことを言いだした。


「俺、前世を思い出した」


寝台の横に座っていたセシリアは、何を言われたのかさっぱり理解できなかった。


「ぜんせ?」

「あ……」


思わず吐き出してしまった、という様子の言葉を恥じるかのように、エドワードは口を押さえる。それから誤魔化すように笑った。その笑い方に、セシリアは微かな違和感を覚える。

その正体を、セシリアはうまく説明できなかったけれど。こんな時エドワードはこんな風に笑うだろうか、と思った。何か恥ずかしいと思ったとき、彼はごまかし笑いをするよりも、顔を赤くしながら逸らす人ではなかっただろうか。


「いや、ごめん。なんでもない」

「なんでもないわけがありませんわ。突然倒れたのですよ」

「ちょっと混乱しただけだから」

「ちゃんと医師に診てもらいましょう。頭だって打ってしまったかも」

「大丈夫だって」


だって。エドワードは、そんな風に言葉尻を軽くする言い方をしただろうか。胸の奥が、ほんの少しだけ嫌な冷え方をした。聞き慣れた声なのに、そこに混じる響きだけが違う。いつもなら自然に受け止められるはずの言葉が、薄い膜を一枚隔てて届いてくるようだった。


「……エドワード様?」

「あ」


まただ。彼は一瞬、セシリアの顔を見て妙な顔をした。この人間はどうしてここにいるのだろう、と怪訝に思っているような顔。


「ごめん」


ごめん。その短い謝罪が、耳の奥に引っかかった。いつもの彼なら、まずセシリアの名前を呼ぶ。そうしてから、何が悪かったのかを考えて、ゆっくり言葉を重ねてから申し訳ないと言う人だった。


「……何がです?」

「いや……なんか、喋り方が」


そう言って彼は、自分の口元を押さえた。まるで、自分の中から漏れ出したものを慌てて塞ぐように、指先で唇に触れる。

やがて「申し訳ない。少し、頭が混乱しているようだ」と言い直した。

それは確かに、セシリアの知っているエドワードの喋り方だった。

だからセシリアは安心しようとした。けれど、胸の奥に生まれた小さな違和感は消えなかった。心臓のすぐそばに細い棘が刺さっていて、息をするたびにそこへ触れるようだった。

学院の医師が診察を行い、頭を打ったわけではないことが分かった。疲れが出たのではないか、とのことだった。

その日の帰り際、医務室の扉を閉める直前、ぼそりと彼が呟いた。


「……セシリアって、本編にいたっけ?」

「……えっ?」


耳を澄ませて行ければ聞き逃してしまうほどの、ごく小さい独り言。思わず聞き返せば、エドワードはぎくりとした表情を見せた後、なんでもないと笑った。

その笑顔は、やはりエドワードのものだ。そのはずだ。婚約者の隣を歩きながら、強く心に言い聞かせる。きっと気のせい。倒れてしまった彼が心配だから、過敏になっているだけ。

そう思わなければ、隣を歩く人を、これまで通り見つめていられなかった。

なんだかひどく恐ろしくて、廊下を踏む足に上手く力が入らなかった。


     *


不安と違和感を感じていても、時間は当たり前に過ぎていく。そうやって流れる時の中で、しかし、ことは着々と進んでいた。

エドワードが倒れた三日後、セシリアの友人のクラリッサが倒れた。その翌週には、エドワードの友人であるアルフレッドが。さらにその数日後には、セシリアの従兄のミハイルが。

セシリアとそれほど接点のなかったクラスメイトも、ぽつぽつと倒れた、という話を聞く。その中には、エドワードが呟いていたミナとブラウの双子もいた。

皆、同じだった。熱を出す。顔色を悪くする。あるいは激しい頭痛を訴えて、倒れる。そして目を覚ますと「前世を思い出した」と言う。

そして前世を思い出したと語る人間はみな、一様に倒れる前の人格とは、少し違う。

言葉遣いが軽くなり、衣服や食べ物の好みが変わっている。その人の持っていた癖がなくなったり、逆に別の癖らしきものをするようになる。

貴族らしからぬ言動をしては、思い出したように取り繕い、前世を思い出したと言ったものたち同士で苦笑し合って、肩を叩き合っていた。

どういうことなのかと尋ねても、困ったように笑って誤魔化されるばかり。

親しかった人達が、自分を弾いたコミュニティを作り上げていくのを、セシリアは呆然としながら見ている事しかできなかった。

ぽつぽつと、彼らが身内同士で話す会話を拾う。


ぜんせ。

てんせい。

うまれかわり。

しみゅれぇしょんげーむ。

しなりお。

ぷれい。

ほんぺん。

れいめいのあるるかん。

こうりゃくたいしょう。

ひろいん。

だんじょしゅじんこう。


ほとんど意味が分からない。前世や生まれ変わり、という言葉ばかりは少しだけ理解できたけれど、それだっておかしいのだ。

セシリアたちが住むこの国において、広く信仰されている国教では、人間は死ねば天の国に還り、恒久の安寧を得るとされている。前世や生まれ変わり、転生というのは、確か海を隔てた大陸で信仰されている宗教の教義ではなかっただろうか。

人が死んで、別の人間として生まれ直す。セシリアがずっと信じていた宗教観に寄れば、それは自分という存在が別の人間にとって代わられるという恐ろしい考えでしかなかった。

彼らが話すのは知らない言葉と知らない価値観ばかりだった。にも関わらず、彼らは、それを当然のように理解していた。

そして。

これがセシリアにとって、一番恐ろしい事だったのだが。

────彼らはみな、心から楽しそうだった。


「マジでびっくりした。お前エドワードだったの?」

「俺もだよ。お前、アルフレッドかよって」

「しかもミナとブラウいるじゃん!」

「いやー、あたしみたいなのが、女主人公になっちゃってごめんね?」

「それ言ったらボクだって男主人公だし」

「じゃあここ、本当に『黎明のアルルカン』?」

「たぶん。校舎とかまんま王立学院じゃん」

「待って、俺あれ途中で止めちったんだけど」

「うっそ、お前マジ?」

「クラリッサはプレイした?」

「全ルートやったよ。超ファンだったもん。設定資料集読み込んで、ファンディスクまでプレイ済み~」

「神じゃん」


放課後の学院の一室で、明るい笑い声が響く。セシリアは扉の外で立ち尽くしていた。扉に据え付けられた窓を覗き込めば、大勢の人間がセシリアの知らない単語を交えて談笑に興じていた。

あまり面識がないのは、別クラスのミナとブラウ。クラスメイトのヒューリーにアビゲイル。あれは隣のクラスのロドリゴだっただろうか。

そしてセシリアの知っている人たちがいる。

エドワード、クラリッサ。アルフレッド。ミハイル。

エドワードとは幼い頃から何度も一緒に食事をした。アルフレッドは、エドワードを通して、何度も話をした。みんなで夏に湖へ行ったこともある。

従兄であるミハイルとは、幼い頃冬に何度も雪合戦をした。クラリッサとはパジャマパーティーをして、同じ寝台に潜り込み、朝まで恋の話をしたことだってある。

大切な人達だった。仲が良かったと思っているのは、決してセシリアのうぬぼれではなかったはずだ。

なのに。

よそよそしくなる視線は日を重ねる毎に増え、会話もだんだんと噛み合わなくなっていく。記憶が無くなった、という風ではなかったけれど。

なんだか、別の人間が、今までの彼らの記憶をそっくりそのまま模倣して、彼らの皮を被って立っているような。

そんな恐ろしい考えが、いつからか頭の隅から離れない。

誰なのだ。扉の向こうにいる人たちは、いったい、誰なのだろう。

扉の取っ手に触れているのに、そこから伝わる金属の冷たさだけが妙に鮮明だった。指先が痛いほど冷たくなる。自分の手が自分のものではなく、遠くから伸びてきた誰かの手のように感じられる。


「あれ? そういやエドワードの婚約者って」


唐突に聞こえてきた単語に心臓が跳ねる。胸の内側を、硬い拳で殴られたようだった。


「……セシリア?」


エドワードの声が、彼女の名前を呼ぶ。セシリア。そう、セシリア・アルヴェーン。わたくしの名前。その音だけは、確かにセシリアを自分の場所へ繋ぎ止めてくれた。

はずだった。


「そう、セシリア。あの子ゲームにいたっけ?」


その言葉に、わけもわからないまま、ヒュッと息が浅くなる。


「なんかあんまり覚えがないんだけど」

「いや、名前だけじゃなかった?」

「確かエドワードルートの過去回想に名前だけ出てたはず」

「婚約者がいたって?」

「そうそう。でも本編開始前に関係終わってたんじゃないっけ。本編には出てこなかったはず」

「確かねえ、設定資料集のエドワードのページにちょろっとだけイラストあったよ」

「本編だと立ち絵もないもんな~顔見てわかんねえはずだわ」


ああ、と納得したような複数の笑い声。


「じゃあモブキャラか」


誰かが言ったその瞬間セシリアは扉を開けた。中にいる全員が一斉に振り返って、心臓が鷲掴みにされた心地になる。

まるで知らない生き物たちが、一度にこっちを観察しているような、そんな恐ろしさに全身が総毛立っていた。


「……セシリア」


エドワードが立ち上がる。彼だけは笑っていなかった。それだけが僅かなよすがだった。

セシリアはエドワードの顔を真っ直ぐに見つめる。政略で結ばれた婚約だったけれど、誰よりも信頼していて、大切だと、愛おしいと、なんの衒いも無く言える人。

いや、言えた人だった。今は違う。

足の裏が床に貼りついているようだった。逃げたいのに、膝から下が自分の命令を聞かない。喉の奥は乾ききっているのに、背中には冷たい汗が流れていた。


「もぶきゃらとは、なんですか」


セシリアの問いに、誰も答えなかった。軽口を当人に聞かれてしまったと言わんばかりの、気まずそうな空気が流れる。ちらちらと視線が交わされあい、それまでの喧噪が嘘のように静まりかえっていた。


「わたくしのことですか?」

「違う」


そう答えたのはエドワードだった。慌てたように、取り繕うように、否定する。困ったような顔をするエドワードに、やはり違和感が募った。

エドワードはいつも、困ったとき、右手の人差し指で頬を掻く癖があったのに。


「では、もぶきゃらとは、誰のことです?」

「それは……」

「わたくしでしょう?」


自分でも驚くほど、静かな声だった。声を出したのは自分なのに、どこか遠くから聞こえた。自分の口が動いているのを、別の場所にいる自分が見ているようだった。

エドワードが歩み寄ってきた。一歩、二歩。そのたびに、床板が軋む。

いつもなら、その足音を聞くだけで安心した。彼が近づいてくることは、私の側へ戻ってきてくれることと同じだった。

けれど今は、近づいてくる彼の姿が怖い。


「聞いてたのか」

「ええ」

「ごめん。別に悪い意味じゃないんだ」


まただ。ごめん、なんて気安い形の謝罪を、彼は口にしなかった。いつも謝るとき、彼はすまないと、もしくは、申し訳ないと言う。少しだけ口下手で、言葉が堅くて、でもそういうところが愛おしいと思っていた。その謝罪が、今度は胸の奥を直接掴む。


「ゲームに登場しないキャラクターって意味で」

「げえむ」


舌がうまく動かない。げえむとは、なんだ。ゲーム?遊び、遊戯という意味合いのゲームは分かる。でも、彼らの言うゲームとは、セシリアが知っている意味とはどうにも違うような気がずっとしていた。


「……うん」

「きゃらくたあ」


口にした言葉が、空気の中で異物のように浮かんだ。誰も笑わない。


「登場しないとはどういう意味ですか。わたくしが?この世界に存在してはいけないと、そういう意味ですか?」


エドワードの顔が歪む。焦ったようにきょろきょろと視線が泳いだ。


「違うんだ、セシリア」

「何が違うのです?」

「君はちゃんとこの世界生きてる。分かってる」


ちゃんと生きてる。その言葉を聞いた瞬間、肺が潰れたように息ができなくなった。

どうして。どうしてそんなことを、婚約者から保証されなければならないのだろう。

自分はここにいる。足が床に触れている。指先が震えている。心臓が動いている。

それなのに、彼の言葉は、セシリアが存在していること自体を疑っているように聞こえた。


「わ、わたくしは、生きています」

「うん」

「十七年間、ちゃんと」

「分かってる」

「お母様のお腹から生まれて、お父様とお母様に育てていただいて、あなたと十歳の頃に婚約して」

「分かってるよ」


抑えようと思うのに、声が震えた。言葉を重ねるほど、足元が崩れていく。

自分の記憶を口にしているのに、それが証明になっていない。自分が自分であることを示すはずの思い出が、誰かに読み上げられた設定のように、空虚に響いている。


「十二歳の冬、貴方の屋敷の池に落ちたでしょう」

「覚えてる」

「あなたが先に氷を踏み抜いたのです」

「うん」

「私が助けようとして、私まで落ちて」

「覚えてるって」

「貴方はずっと泣いていて、すまないって言ったんです」


エドワードが黙った。その沈黙が怖かった。覚えているなら、すぐに答えてほしかった。セシリアの記憶を、セシリア自身のものだと認めてほしかった。


「自分のせいでわたくしが死んだらどうしようと、泣いていたでしょう」

「……覚えてる」


喉が震えた。声を出すたび、喉の内側が擦れて痛んだ。涙が溜まって視界が滲む。目の前のエドワードの輪郭が揺れて、彼の顔と、知らない誰かの顔が重なって見えた。


「貴方は誰なんですか」


言ってしまった。その瞬間、胸の中で何かが切れた。エドワードの顔から、表情が消える。

エドワードの仮面を被っていた何かが、仮面を外したように見えて、セシリアは悲鳴を飲み込んだ。

そのまま誰の制止も聞かないまま、セシリアは全力でその場から逃げ出した。


     *


泣きながら逃げ帰ったあの後、セシリアは何回か、日常生活に戻ろうと苦心した。

考えすぎだと自らに言い聞かせたり、彼らの考えを理解しようと努めてみようとした。

けれどどうしても受け入れられないのだ。話を聞き、つぶさに観察してみても、彼らにさほどの悪意があるようには見えない。

だからこそ、怖かった。何か無邪気な、自分にはまったく理解のできない生き物たちが、少しずつ自分の周囲の人間と置き換わっていく。

段々と『前世を思い出す』人間が増えていったのも、セシリアの恐怖に拍車をかけた。

学院の生徒、教師。街の人。使用人。

ある朝、給仕していた侍女が紅茶をこぼした。


「申し訳ございません!」


慌てて布を取りに行った彼女は、戻ってくる途中で倒れた。長く努めてくれていて、少しだけそそっかしいところがあるけれど、丁寧な言葉遣いの女性だった。

翌朝。


「セシリア様、昨日マジですみませんでした」


今までにしなかった口調で勢いよく頭を下げてきた姿を見た瞬間、胃の奥が縮んだ。

昨日までの彼女なら、もっとゆっくりと頭を下げていた。セシリアの袖を汚してしまったことを何度も詫び、震える手で布を探していた。

今、目の前にいる彼女は、同じ顔で、同じ声で、別の温度で笑っている。


「いやあ、今までのアタシ、手際悪すぎでしたね」


そう言って磊落に笑う彼女の手つきは、今までに無いほど的確で、てきぱきとしていて、だからその日から、彼女に身の回りの世話をさせるのをやめた。


     *


怖かった。誰かと話すのが怖い。今日まで知っていた人間が、明日には知らない言葉で喋っているかもしれない。

眠って目を覚ましただけで別の誰かになる。夜になると、眠ることさえ怖くなった。

瞼を閉じたら、次に目を開けたとき、自分の中にも知らない誰かがいるかもしれない。あるいは、今ここにいる自分が、すでに何かに置き換えられているのかもしれない。

眠気で頭が重くなっても、セシリアは何度も自分の名前を呟いた。

セシリア。

セシリア・アルヴェーン。

アルヴェーン伯爵家の長女。

お母様の声。お父様の手。クラリッサとの内緒話。アルフレッドの揶揄い。ミハイルへの相談話。エドワードと手を繋いだ時の温度。

それらを一つずつ数えなければ、自分の輪郭が夜の中へ溶けてしまいそうだった。


「人格が変わったわけじゃないんだよ」


自室に閉じこもり、学院を休みがちになったセシリアを見舞いに来たクラリッサはそう言った。


「前世を思い出しただけ」

「では、貴方はクラリッサなの?」

「もちろん」

「わたくしと初めて会った日のことを覚えている?」

「七歳の誕生会でしょ?」

「わたくしがあなたのドレスに果実水をこぼした」

「そうそう。ぶどう水だから色が落ちなくて最悪だった」


けらけらと目の前の彼女が笑う。

クラリッサの顔で、クラリッサの声で、クラリッサの記憶を持った誰かが。その笑い声は、昔と同じで、だからこそ吐き気がした。クラリッサはけっしてそんな風に笑わなかった。両手で口元を抑えるようにして、くすくすと控えめに笑うのが、彼女の笑い方だった。

同じものが揃っているのに、そこにいる人だけが違う。顔も声も記憶も、セシリアがクラリッサだと認めるためのものはすべてある。それなのに、自分の中の何かが、これは違うと叫び続けている。


「でもさ、私にはそれより前の人生もあるんだよ」

「……それより前」

「うん。日本ってところで二十四歳まで生きてた」


聞いた事もない国の、知らない人間の人生。その言葉を聞いた途端、クラリッサの中に、セシリアの知らない広大な場所があるように思えた。

セシリアが知らない時間。セシリアが触れられない記憶。自分の隣にいたはずの彼女が、自分の知らない誰かとして生きていた時間。


「どちらが、本当の貴方なの」


クラリッサは首を傾げて少し考え、答えを返した。


「どっちも私じゃない?」


セシリアは何も答えられなかった。胸の奥に空洞ができたようだった。どっちも私。

その言葉を認めるなら、自分もいつか、自分ではない誰かを自分の中に抱えなければならない。そうなったとき、今ここにいるセシリア・アルヴェーンはどこへ行くのだろう。

クラリッサは笑った。物の分からない幼い子供の癇癪を宥めるような顔だった。


「セシリアも思い出したら分かるよ」


皮膚の下を冷たい指でなぞられたように、背筋が凍った。思い出す。それは、今の自分が他人に取って代わられることと、何が違うのだろう。


「やめて」

「え?」

「そんなことを言わないで」

「でも、もしかしたらセシリアも転生者かもしれないじゃん」

「違う」

「まだ思い出してないだけで」

「違う!」


思わず叫んだ。声が部屋の壁にぶつかり、何度も跳ね返った。クラリッサが目を丸くする。


「わたくしはわたくしよ」

「……うん」

「わたくしは、セシリア・アルヴェーンなの」


涙を浮かべ、自分の体を抱きしめながら、自分に言い聞かせるように繰り返した。けれど、言葉にした途端、その確信が指の間からこぼれていく。わたくしはわたくしだと叫ぶほど、そうである証拠が薄くなっていく。


「分かったって」


言いながら、クラリッサの顔に浮かんだものを、セシリアは見逃さなかった。

困惑。そしてほんの少しの同情。まるでセシリアだけが、まだ何も知らない子供であるかのような。


     *


段々と鏡を見るのが怖くなったのは、それからだった。理由は分からない。ただ、鏡に映る姿が自分ではないように感じることが増えた。

心配する両親に心労をかけるのが忍びなく、引きずるように学院に登校した。休み時間のたび、気を落ち着けたくて化粧室に隠れるようになった。

化粧室の鏡に映して亜麻色の髪を梳かしていると、不意に違和感を覚えた。櫛が髪を通るたび、頭皮が引かれる。亜麻色の髪が肩から滑り落ちる。その感触は確かに自分のものなのに、鏡の中の女は、私が手を動かすよりわずかに遅れて動いているように見えた。鏡を見る。亜麻色の髪、若葉色の瞳。見慣れた顔。自分、と誰に言われるでもなく答えることが出来る顔。十七年間、毎日見てきたセシリア・アルヴェーンの顔。

それなのに。


――あ。


声がした。耳からではない。頭蓋骨の内側、脳の奥に直接触れるような声だった。

セシリアは振り返った。首筋が引きつり、背中に冷たい汗が噴き出した。誰もいない。


「……誰?」


返事はない。おそるおそる鏡を見れば、セシリアが映っている。鏡の中のセシリアは、怯えた顔をしていた。けれど、その目の奥に、自分ではない何かがいるように見えた。


――この顔。


頭の中で誰かが喋った。


――綺麗だけど、やっぱ慣れないな。


「誰?」


悲鳴を飲み込んで立ち上がる。膝が震え、椅子が倒れた。床に響いた音に、心臓が跳ね上がる。


――セシリアって設定画しかなかったけど、こんな顔だったんだ。


「誰なの!?」


頭痛がして、セシリアはいよいよ震えだした。こめかみの奥を、鋭い針で何度も刺されているようだった。視界の端が白く明滅する。吐き気が込み上げ、舌の根が痺れた。

突然、知らない光景が見えた。

狭い部屋、白い壁。見たことのない薄い板。その板の中で、人が動いている。

知らない文字に、知らない絵。音楽。台詞。

知らない。知らない。知らない。

そのはずなのに知っている。知らないはずのものが、記憶の底から次々に浮かび上がってくる。

知らない部屋の匂い。知らない機械の音。知らない誰かの声。

それらが、私の記憶の隙間に入り込み、そこに最初からあったもののように根を張っていく。


「いや」


名前が浮かぶ。

黎明のアルルカン。


「いや」


エドワード・スフェーン。女主人公の攻略対象。


「いや、いや」


ミナ・ハーシェル。女主人公。ブラウ・ハーシェル。男主人公。アルフレッドは隠しルート。クラリッサは、男主人公ルートでの攻略対象。

言葉が頭の中を走り回る。セシリアの記憶を踏み荒らしながら、知らない女が楽しそうに笑っている。

そして。セシリア・アルヴェーン。設定資料集にだけ名前が載っていた、エドワードの元婚約者。


「嫌!」


発作的に鏡を殴る。拳に硬い衝撃が走り、皮膚が裂けた。遅れて痛みが来る。血が滲み、鏡の亀裂に沿って赤い線が伸びた。

甲高い音。鏡に亀裂が走る。ひび割れた鏡の中で、セシリアの顔がいくつにも分かれた。どれが本当の自分なのか分からない。


「これはわたくしじゃない!」


頭の中で誰かが泣いていた。違う。泣いているのはわたくし。この女は笑っている。懐かしがっている。


――うわー。


「やめて」


――本当にゲームの世界だったんだ。


「わたくしの中に入ってこないで」


――ってことは、エドワードって。


「やめて!」


――推しじゃん。


その言葉が落ちた瞬間、胃がひっくり返り、溜まらずセシリアはその場で吐いた。喉が焼ける。胃が痙攣し、腹の奥が引きつる。床に膝をつき、何度も吐いた。涙と唾液で顔が濡れ、息を吸うたびに酸っぱい臭いが鼻の奥へ戻ってくる。何も出なくなっても吐いた。身体が空っぽになっても、まだ何かを吐き出そうとした。嘔吐きながら、自分の中に根を張ろうとするわけのわからないものを追い出そうとしていた。

気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。自分の頭の中に、知らない女がいる。知らない母親を愛していて、知らない父親が嫌いだった。

見た事も無い学校。友達。仕事。恋に失恋。げえむ。スマホ。漫画。コンビニ。電車。

なだれ込んでくる数多の記憶を、セシリアは知らない。なのに知っている。知っていることが、自分の中にあることが、怖い。

記憶はただの情報ではなかった。その女が見た景色、その女が感じた寂しさ、その女が誰かを好きになったときの胸の痛みまで、セシリアの身体の中に流れ込んでくる。知らない人生が、セシリアの血管を通っている。


「出ていって」


頭を掻きむしった。爪が頭皮に食い込み、熱い痛みが走る。


「出ていって!」


爪を立てる。頭蓋骨を開けば、この女を取り出せるのではないかと思った。皮膚の下にいる。脳の奥にいる。

セシリアの記憶を押しのけ、セシリアの名前を使い、セシリアの身体を内側から覗いている。


「セシリア!」


騒ぎを聞きつけたのか、扉が開いた。駆けつけた人間の中にエドワードもいた。

嫌だ。今、彼の顔を見たくない。彼の顔を見た瞬間。


――うわ。


やめて。


――顔良。


その声が、セシリアの中で弾んだ。

セシリアの心臓が跳ねたのか、知らない女が喜んだのか分からない。


「やめてえええええ!!」


セシリアは壁に頭を叩きつけた。一度。鈍い痛み。二度。視界が白く弾ける。三度。額から温かいものが流れた。


「セシリア!」


エドワードに羽交い締めにされた。背中に彼の胸が触れる。昔なら、その体温に縋った。今は、触れられた場所から自分が崩れていくようだった。


「離して!」

「何してるんだ!」

「触らないで!」

「落ち着け!」

「わたくしをわたくしのままにして!!」


血が目に入り、視界を真っ赤に染め上げた。温かな血が頬を伝い、唇の端に触れる。鉄の味がした。


「消えたくないの!」


続いて誰かが駆け込んでくる。クラリッサ。アルフレッド。ミハイル。知らない人。知っている人。もう分からない。

顔を見ても、声を聞いても、そこにいるのが誰なのか判断できない。自分自身の記憶が、自分自身の判断を裏切っている。


「お願い!」


絶叫しながらセシリアは泣いた。喉が裂けるほど泣いた。


「お願いだから助けて!」


誰に言っているのか分からない。


「わたくしじゃないの!これはわたくしの記憶じゃないの!知らない女がいるの!頭の中にいるの!」


友人の恐慌に青ざめながら、クラリッサがこちらに手を伸ばす。


「だ、大丈夫。セシリア、きっと前世の記憶が戻ってるだけ……」

「違う!!」


叫んだ。


「違う!これはわたくしじゃない!」


――いや私なんだけど。


「黙れ!」


――ちょっと、怖。どうなってんの、これ。


「黙りなさい!!」


再び頭を壁に打ち付けようとして、エドワードに止められる。


「セシリア!」

「殺して!」


その場にいる全員が凍りついた。


「お願い、もう殺して!」

「何を」

「わたくしがいなくなる前に殺して!」


嫌だ。死にたくない。身体の奥では、まだ生きたいと叫んでいる。でもこの女になるのはもっと嫌だ。

自分の声で笑い、自分の顔で彼を見つめ、自分の記憶を抱えたまま、自分ではない誰かとして生き続けるのは嫌だ。


「わた、わたくしを忘れないで」


セシリアは自分を抱きすくめているエドワードの服を掴んだ。指先に布の感触がある。その感触だけが、今の彼女を現実に繋ぎ止めていた。


「お願い」


彼の顔が涙で歪んで見えた。


「わたくし、ちゃんといるのよ」

「セシリア」

「わたくしだったの。十七年、生きてた」

「ああ」

「あなたのこと、好きだった」


エドワードの顔がくしゃりと歪む。その顔だけは、昔知っているもののような気がした。


「知ってる」

「わたくしも」


息ができない。胸が締めつけられ、肺が空気を吸うことを拒んでいる。


「わたくしも、あなたに好きでいてほしかった」

「何を言ってる。俺はずっと君を」

「違う」


分かってしまった。この男の中にも、もう知らない誰かがいる。彼の声の奥に、セシリアの知らない人生がある。セシリアを見つめる目の奥に、エドワードではない誰かの記憶がある。


「あなたも、もうわたくしのエドワードじゃない」


彼が息を呑むのが見えた。それを最期に、意識が遠のく。身体の重さが消えていく。指先から感覚がなくなる。

それを最後に、セシリアはゆっくりと床の上に倒れた。


     *


目を覚ますと、セシリアは医務室で眠っていた。頭の鈍痛に顔を顰めながらも、まだ自分が自分であることに深い安堵のため息をつく。

今は何時だろう、とぐるりと視線を巡らせる。医務室にいた医師が応急処置を行ったこと、これから正式な病院に向かい診察を受けるようにと指導を受ける。

馬車を呼んでくるから安静にしているようにと言われ、セシリアは大人しく寝台に身を横たえていた。

エドワードは、どこだろう。セシリアはそんな風に考えた。あれだけ狂乱状態を見られたのだ。愛想を尽かされたとしても、無理からぬことだ。

一度意識を失ったことで、かえってそんな風に考えるようになっていた。

婚約を解消することも、あり得るのかも知れない。それが良いことなのか悪いことなのか、セシリアには分からなかった。

そっと額に手をやれば、包帯が巻かれている。気を失う前に何度も壁に打ち付けた傷だろう。

ふう、と息をつきかけて、再び頭の中に降って湧いた声に身を凍らせた。


――ねえ。


ひっ、と悲鳴を飲み込む。まだ、あの女が頭の中にいる。


――ねえってば。


セシリアは震える体を無理矢理に起こし、寝台から降りた。足が萎えていたせいで、よろよろと床に頽れる。医師には安静にするよう言われていた。けれど部屋に一人でいることが、今のセシリアには耐えられない。壁伝いに体を引きずるようにして、医務室から出る。のろのろと、歩き出す。誰でも良いから誰かに会いたかった。

一人になると、聞こえるから。ほら。


――さっきはごめん。


頭の中から声がする。自分とよく似ているようで、まるで違う声。耳を塞いでも意味はない。この声は、セシリアの頭蓋の中から響いてくるものだから。


――でもアタシだって怖かったんだよ。

「やめて」

――いきなり知らない人の記憶いっぱい入ってくるし。

「やめて」

――でもさ。

「やめて」

――ちょっと落ち着いて話さない?

「黙って」


吐き気と痛みをこらえながら、当て所もなく歩き出す。三階にある医務室から、廊下を伝って、どこかへ。誰かいないのか。医師はどこなのか。教員は。生徒は?こわい。なにもかもが、こわい。

三階の空き教室の前を通りがかった瞬間、聞こえてきた声に身を震わせる。怖いのか、安堵なのか、セシリア自身にももう、分からなかった。


「────セシリアについて教えてくれないか」


ひどく堅い、エドワードの声だった。そうやって声を抑えていると、以前の、セシリアが知っているエドワードのもののような気がして、余計に混乱する。


「俺はゲームを途中までしかやっていない。本編が始まった時、なんでセシリアは俺の婚約者じゃなくなってるんだ」


自分がエドワードと婚約者じゃなくなっている。まるで、未来でも知っているみたいに彼は話す。


「いや、なんていうか。……セシリアはさ、その」

「頼む。教えてくれ。セシリアが心配なんだ」


エドワードだけじゃない。複数の声がする。何人かが、言いづらそうに口ごもっている。


「……ゲーム通り、マジでメンヘラじゃん」


扉の向こうで、誰かが引き攣った声で言い、セシリアは震え上がった。めんへら、という意味は分からなかったけど、口調から良い意味の言葉でないことは察せられた。


「ちょっと引いたわ。あんなに暴れる?」

「いやでも、元々そういう設定だったんでしょ?」

「確か精神的に不安定になって────って設定じゃなかった?」

「そうそう。だから本編はそのせいでエドワードが恋愛に臆病になってて、それをヒロインが癒やす、みたいなやつだったような」


頭が痛い。怖い。本編、というのがなんなのかさっぱり分からない。けれど、このままだと自分は、頭の中の女に乗っ取られるのではないか。そんな恐怖だけが、いっぱいに広がっていく。


「……たすけて」


無意識に、小さく呟いてしまい、扉の向こうで話していた誰かが、「ん?」と反応した。

セシリアは慌てて口を押さえた。気づかれたくない。怖い。あの人たちも、頭の中の女も、何もかも。


「でもマジで設定通りに進んでない?」

「ね。シナリオ補正とかあんのかな」

「怖っ。じゃあこのままいなくなっちゃうの?」


いなくなる。その言葉を聞いた瞬間、セシリアの中で何かが切れた。痛みも構わぬまま、走り出した。


「……あれ?」


背後で扉が開く音がしたけれど、セシリアは振り返らなかった。


「セシリア?」


エドワードの声だと気付いていたけれど、聞きたくなかった。


「セシリア!」


追いかけてきた声を無視して、ひた走った。廊下を。階段を。体の痛みすら、恐怖が凌駕して押さえ込んでいた。

どこへ向かっているのか、自分でも分からない。ただ逃げたかった。この世界から、知らない言葉から、大切な人たちの顔をした知らない人たちから。

そして何より、自分の頭の中にいる、セシリアになろうとしている女から。


     *


「……さすがに今のは不謹慎だろう」


残された部屋の中を睨み付けて、エドワードが低い声で言った。


「え?」

「お前たち、昨日のセシリアを見ただろう」


中にいた者たちが顔を見合わせる。


「いや、でもさ」

「ゲームでは実際――」

「ゲームの話をしているんじゃない!」


エドワードが出入り口の横の壁を叩き、皆が黙る。


「怖がってるんだ」


声が震えていた。


「セシリアはずっと怖がってる。俺たちが知らない人間になったと思って、それで今度は自分まで自分じゃなくなると思って……!」


言葉が途切れた。エドワードには、先刻の光景が脳裏に焼きついている。

血まみれになり、嘔吐し、泣き喚きながら彼女は叫んでいた。わたくしの中に入ってこないで。わたくしをわたくしのままにして。消えたくない。


「メンヘラだの設定通りだの……」


拳を握り、セシリアの顔を思い出す。違うんだと弁解したかった。自分も、みんなも、変わったように見えるのかもしれない。でも、エドワードの中には、変わらずセシリアと過ごした想い出が確とあるのだ。


「俺の婚約者だぞ」


誰も答えなかった。気まずそうに目を逸らされて、唇を噛んだ。


「……くそっ」


言い捨てて、エドワードも走り出した。


     *


セシリアは階段を駆け上がる。足が痛い。頭が痛い。息が苦しい。肺が焼ける。それでも走る。逃げるのだ。逃げるのだ。どこへ?どうやって?わからない。でも、逃げなくてはならない。だってほら、また聞こえてきた。


――待ってよ!

「嫌」

――どこ行くの!?

「黙りなさい!」

――エドワードのところ戻ろうよ!

「嫌!」

――なんで!?

「あなたがその名前を呼ばないで!」

――はあ!?

「その人はわたくしの婚約者なの!」

――知ってるよ!

「知らない!」

――知ってるって!私にも記憶あるもん!

「それはわたくしの記憶よ!」

――私の記憶でもある!

「違う!」


扉を押し開けた。かっと照りつける日光が眩しく目を焼いた。風が吹きつける。学院の屋上。いつの間にこんなところまで来たのだろう。

遥か下に、中庭が見える。人が小さい。蟻のようだった。


「違う」


息を切らしながら、頭の中の女に言い放つ。


「違う、違う、違う」

――何が違うの。

「全部」

――だから、何が?

「あなたはわたくしじゃない」


頭の中の声が戸惑うように黙った。ようやく言い合いに勝ったような気持ちで、セシリアは笑った。久しぶりに、自分一人で笑ったような気がした。


「わたくしの名前は、セシリア・アルヴェーン」

――知ってる。

「アルヴェーン伯爵家の娘」

――うん。

「十七歳」

――知ってるよ。

「十歳のとき、エドワード様と婚約した」

――知ってる。

「十二歳の冬、一緒に池に落ちた」

――だから知ってるって。

「十五歳の春、初めて好きだと言われた」

――うん。

「わたくしはあの方が好きだったの」

――私も好き。

「違う!!」


それだけは絶対に譲りたくなかったから、セシリアは叫んだ。大声に、屋上に止まっていた鳥が飛び立った。


「貴方の好きは違う!」

――何が違うの!?

「あなたはあの人を『推し』と言った!」

――それは前世で――

「わたくしはそんなふうにあの人を好きになったんじゃない!」


涙がこぼれた。


「わたくしはあの人を知っている!」


泣きながら笑った。


「泣き虫だったの。小さい頃は、わたくしよりずっと泣き虫だった。犬が死んだとき三日も泣いて、お父様に叱られたときは平気な顔をしていたくせに、わたくしのところに来たら泣いた」

――……うん。

「十二歳の冬、池に落ちたときもそう。わたくしの方が熱を出していたのに、ずっとわたくしの寝台の横で泣いていた」

――知ってる。

「知らない!」


胸を掻きむしった。


「あなたは私の記憶を見ているだけ!」


――違うよ!


初めて、頭の中の声も、泣いた。


――違う!

「違う!」

――私だってセシリアなんだよ!


世界が止まって、風の音だけがした。


「…………何といったの?」

――私だって。


頭の中の声も、セシリアと同じように震えている。


――前の名前も覚えてる。でも、セシリアとして生きたことだって全部覚えてる。

「やめて」

――お母様も好きだよ。

「やめて」

――お父様も。

「やめて」

――クラリッサも。

「やめて!」

――エドワードも。

「やめなさい!!」

――だから私だってセシリアなんだってば!!

「わたくしの名前を取らないで!!」


叫んで、セシリアは屋上を後ずさった。一歩。もう一歩。踵が何かに当たった。石造りの欄干だった。

転落を防ぐためのそこは、けれど。多分きっと、乗り越えようと思えば出来る高さでしかなかった。


――ねえちょっと、危ないよ。

「わたくしよ」

――え?

「わたくしがセシリアよ」

――分かったから。ちょっとそこから離れよう?

「わたくしだけがセシリアよ」

――分かった。分かったってば。

「貴方には渡さない」

――ねえ。


セシリアは、欄干に手をかけた。自分が自分でいるためには、もうこれしかないという確信があった。


――……何してるの?

「わたくしの身体も」

――ねえちょっと、やめて。

「わたくしの記憶も」

――やめてって。

「わたくしの名前も」

――ねえ、セシリアってば。

「わたくしだけのものよ!」


セシリアは欄干から身体を乗り出した。


――待って。

「わたくしは」


視界がくるりとひっくり返って、空が見えた。青かった。馬鹿みたいに綺麗だった。


「最後までわたくしよ」


足が、地面から離れた。


     *


――え。


最初に感じたのは風。


――え?


次いで、浮遊感。身体が浮いている。いや、落ちているのだ。


――待って。


青い空が遠ざかる。学舎の壁がものすごい速さで流れていく。


――待って、待って待って。


セシリアは目を開いたままだった。不思議と怖くなかった。


――やだ。


頭の中の女の声が怯えて震えた。


――やだ、やだ。


ああ、この女も怖いのだ。セシリアと同じように、消えるのが怖いのだ。おかしくなって、少し笑った。


――私、死ぬ?

「そうよ」

――嫌だ!

「そう」

――嫌!嫌だ!助けて!

「わたくしも嫌だった」

――セシリア!

「ずっと」

――ごめん!ごめんなさい!だから!

「ずっと怖かった」

――死にたくない!

「わたくしだって」

――やだ!


奇妙なことに、落ちている時間はいやに引き延ばされているように感じた。きっと感じているだけなのだろうけど。段々とゆっくりと落ちているような、そんな感覚に陥る。

その奇妙に間延びした時間の中で、セシリアは階下の窓の中、きょろきょろと視線を彷徨わせていたエドワードと目が合った。

エドワードの目が、ひどくゆっくりと驚愕に見開かれ、口元が叫び出す直前の形へと歪んでいく。

けれどその言葉が吐き出されるよりも前に、セシリアの肉体は、中庭の地面へと叩き付けられた。

ドチャッ、と。水気を含んだ、セシリアの体重と同じ分だけの質量が地面に叩き付けられた音が響く。一瞬ものすごく身体が痛くなって、でもすぐにそれすら感じなくなった。

一拍おいて、中庭中から悲鳴が立ち上る。それすら、今のセシリアには遠かった。全部の声が遠くなる。外から聞こえる声も、内側から聞こえる声も。


――やだ、やだ、やだ。


声が、小さくなる。


――私また死んじゃうの?


消えていく。


――お願い。


もうほとんど聞こえない。


――たすけ――


そして、静かになる。本当に何も聞こえなくなった。知らない女の声が消えた。


「ああ」


セシリアは、全身を奇妙にねじれさせながら笑った。割れた頭から血を流しながら、口と鼻からも黒みがかった血液をこぼしながら、輝かんばかりに笑った。

できた。追い出せた。あの女を、わたくしを奪おうとしたものを。自分は勝ったのだ。最後まで渡さなかった。

身体も、名前も、自分自身も。


「……勝った」


誰に聞かせるでもなく、呟いた。嬉しかった。わたくしはわたくしだ。最期まで、セシリア・アルヴェーンとしてあることが出来たのだ。

転生。前世。生まれ変わり。どれも知ったことではない。天の国までは、あの女も着いてくることはできまい。


「わたくしの、かちよ…」


こぽ、と血のあぶくをひとつ吐いて、そしてセシリアの世界は暗くなった。


     *


葬儀の日は、よく晴れていた。棺の中には、たくさんの白い花が敷き詰められていた。

セシリアの母は泣き崩れ、立っていられなかった。父親は一度も泣かず、ただ、拳を握りしめて棺のそばから動かなかった。

エドワードも、何も言わなかった。棺の中の顔は、葬儀屋の死化粧によって綺麗に隠されていた。あの日の傷など、最初からなかったかのように。

黙ったまま、セシリアの好きだったブラッサムの花を一枝、棺の中に差し入れた。


「……マジで死んじゃった」


アルヴェーン家のものに聞こえない程度に離れたところで、誰かが囁いた。


「ね」

「なんか……怖いな」

「何が?」

「だってさ」


ひそひそと、声の主たちは声を潜める。


「セシリア、ゲームでも(・・・・・)死んでたじゃん(・・・・・・・)」


沈黙。


「ああ……」

「確か本編始まる前に自殺してたんだよね?」

「そう。だからエドワードに婚約者がいなかった」

「精神的に不安定になって、ってやつ」

「それでエドワードが恋愛に臆病になったんでしょ?」

「うん。女主人公がそれを癒やしていくのがエドワードルート」

「……じゃあ」


誰かが、小さく笑った。胸の内の恐怖を誤魔化すような、引き攣った笑いだった。


「結局、シナリオ通りになったってこと?」

「…………」

「シナリオの力って怖くない?」


エドワードは、彼らの会話を聞きながら、土の中に埋められていく棺を見ていた。

全部聞こえていた。ゲームのことも知っていた。彼は、ゲームを最後までプレイしたことがなかった。だから、知っている人間から情報を聞き出していた。セシリアを失いたくなかったから。

『黎明のアルルカン』。

攻略対象、エドワード・スフェーン。物腰穏やかな公爵令息。優しく誠実でありながら、恋愛に対してだけは臆病。

その理由は、かつて婚約者を亡くしているから。ゲームの中では、ほんの数行だったらしい。

『彼にはかつて、将来を誓い合った婚約者がいた。』

『しかし彼女は精神を病み、学院在学中に自ら命を絶ってしまう。』

『その悲劇から、エドワードは人を深く愛することを恐れるようになった。』

たったそれだけの、顔もほとんど出ない伯爵令嬢。設定資料集に小さな絵が載っていた程度。名前さえ覚えていないプレイヤーも多かっただろう。

攻略対象に悲しい過去を与えるための設定。主人公が癒やすべき傷。それだけの女。


「違う」


エドワードが呟いた。たぶん、誰にも聞こえなかった。

違う。彼女は、そんなものではなかった。彼女は怖がっていた。何週間も眠れなかった。

知っている人間が知らない人間になっていくことを怖がった。自分までそうなることを恐れた。

吐いて泣いて、血まみれになりながら、頭を壁に打ちつけながら叫んだ。わたくしをわたくしのままにして。消えたくない。

誰も知らない。ゲームには書かれていない。


「エドワード」


呼ばれてエドワードは振り向いた。ミナ・ハーシェルが立っていた。桃色がかった金髪が、春の日差しを受けて輝いている。

ゲームの女主人公。本来ならば、これから彼と出会うはずだった少女。悲しい過去を持つ青年に寄り添い、その心を少しずつ開いていく少女。

エドワードルート。物語は、始まる。予定通りに、何一つ狂うことなく。

棺の中で、セシリアは眠っている。彼女は最後まで負けなかった。知らない誰かに身体を奪われることもなかった。

記憶を奪われることも、名前を奪われることもなかった。最後まで、セシリア・アルヴェーンだった。

彼女は確かに勝った。

春になれば、物語が始まる。かつて婚約者を喪ったため、愛することを恐れる青年と。そんな彼の心を溶かしていく、心優しい少女の恋物語。

そしてその物語のどこにも、死んだ婚約者が最後に何を思ったのかは、書かれていない。

だから誰も知らない。セシリア・アルヴェーンが最期に笑っていたことを。自分は自分のまま死ねるのだと安堵して、誰にも負けなかったのだと信じて。心の底から、勝ったと、そう思っていたことを。

けれどセシリアは知らなかった。彼女は本当に勝った。ただ、その勝ち方まで世界には織り込み済みだった。


勝利した彼女はシナリオ通りに、



自分で書いておいてほんとアレなんですけど、これエドワード一生モンのトラウマだなと思いました。

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