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知らない子どもの成長記録

作者: 海老崎 伊織
掲載日:2026/07/11

最初の写真は、六月十二日の朝に見つけた。

通勤電車の中で、昨夜撮ったコンビニ弁当の写真を消そうとしていたときだった。

写真フォルダの一番上に、見覚えのない赤ん坊が写っていた。

生後半年くらいだろうか。

薄い水色の毛布に包まれ、畳の上に寝かされている。口を半分開けて眠っており、頬には乾いた涙の跡があった。

知らない赤ん坊だった。

だが、背景には見覚えがあった。

赤ん坊の頭の向こうに、灰色のカーテンが見える。その隣には、角の欠けた木製の棚。棚の上には目覚まし時計と、飲みかけのペットボトル。

私の部屋だった。

昨夜、私は誰とも会っていない。

独身で、恋人もいない。もちろん子どもなどいるはずがない。

誰かが部屋に侵入したのかと思い、写真の詳細情報を確認した。

撮影時刻は午前三時十三分。

その時間、私はベッドで眠っていた。

位置情報は、自宅。

撮影機種も、私のスマートフォンだった。

気味が悪かったが、何かの誤作動だろうと思うことにした。クラウド上に他人の写真が混ざったのかもしれない。

私は写真を削除した。

その日の夜、玄関の鍵と窓を何度も確認した。クローゼットやベッドの下まで調べたが、もちろん誰もいなかった。

翌朝、写真は元に戻っていた。

昨日と同じ赤ん坊が、同じ場所で眠っている。

ただし、少しだけ違っていた。

赤ん坊の目が開いていた。

黒い瞳で、まっすぐカメラを見つめている。

私は写真をもう一度削除した。

最近削除した項目からも消し、クラウドとの同期を切った。念のためパスワードも変更した。

それでも、その次の朝には新しい写真が追加されていた。

今度の子どもは、一歳くらいに成長していた。

水色の毛布の上に座り、小さな手で床を支えている。

背景は、やはり私の部屋だった。

撮影時刻は、午前三時十三分。

三日目。

子どもは二歳ほどになっていた。

パジャマ姿で、私のベッドの横に立っている。

笑ってはいなかった。

こちらに背を向け、眠っている私を見下ろしていた。

写真の端には、布団から出た私の右腕が写り込んでいた。

手首のほくろまで、はっきりと見えた。

その日、私は会社を休んだ。

警察に相談することも考えたが、写真以外に被害はない。侵入された形跡もなければ、盗まれた物もない。

説明したところで、まともに取り合ってもらえるとは思えなかった。

私は家電量販店へ行き、小型の防犯カメラを買った。

カメラを寝室の棚に設置し、部屋全体が映るようにした。

さらにスマートフォンの電源を切り、引き出しに入れ、上からガムテープで封をした。

その夜、私はほとんど眠れなかった。

午前三時を過ぎても、部屋に異変はない。

三時十三分。

防犯カメラの赤いランプが点灯している。

カーテンは動かず、床がきしむ音もしなかった。

三時二十分まで耐えたところで、私は力尽きて眠った。

朝。

引き出しのガムテープは破られていなかった。

スマートフォンの電源を入れる。

写真フォルダには、四枚目が追加されていた。

子どもは五歳くらいになっていた。

ベッドのすぐ横で、しゃがんでいる。

そして、人差し指を唇に当てていた。

静かにして。

そう言っているように見えた。

防犯カメラの映像を確認した。

午前三時十三分。

眠っている私の姿が映っている。

部屋には誰もいない。

だが、その瞬間だけ画面が大きく乱れた。

一秒にも満たないノイズだった。

映像を一時停止し、コマ送りにする。

ノイズの中に、人の顔のようなものがあった。

子どもの顔だった。

カメラのすぐ前に立ち、レンズをのぞき込んでいた。

私はスマートフォンを初期化した。

クラウドのアカウントも削除した。

それからビジネスホテルに泊まった。

場所を変えれば、少なくとも私の部屋が背景になることはない。

そう考えていた。

翌朝、新品同然になったスマートフォンの写真フォルダに、一枚だけ写真が保存されていた。

七歳ほどの少年が、私の部屋の床に座っていた。

ホテルではない。

誰もいないはずの自宅だった。

少年は、赤いロボットのおもちゃを持っていた。

胸の部分が開き、中から小さな飛行機が出てくる玩具だ。

私は、そのロボットを知っていた。

幼い頃、父に買ってもらったものだった。

小学校へ上がる前になくしてしまい、泣きながら何日も探したことを覚えている。

あの玩具は、今も実家のどこかにあるのだと思っていた。

私は母に電話をかけた。

「赤いロボットのおもちゃ、覚えてる?」

電話の向こうで、母が黙った。

「急にどうしたの?」

「小さい頃、持ってたやつ。胸から飛行機が出てくる」

「そんなおもちゃ、持ってなかったでしょう」

「持ってたよ。父さんに買ってもらった」

「お父さんは、あなたにロボットなんて買ってないわ」

母の声は妙に硬かった。

「じゃあ、誰のおもちゃだったんだよ」

長い沈黙の後、母は言った。

「今日は仕事でしょう。変なことを考えてないで、ちゃんと行きなさい」

電話は切られた。

その夜、私は実家へ向かった。

連絡はしなかった。

母に事前に知らせれば、何かを隠されるような気がした。

実家の私の部屋は、物置として使われていた。

段ボール箱や古い家具をかき分け、押し入れの奥まで探した。

ロボットは見つからなかった。

代わりに、見覚えのないアルバムを見つけた。

表紙には何も書かれていない。

開こうとすると、母が部屋に入ってきた。

「何をしてるの」

母の顔から血の気が引いていた。

「このアルバム、何?」

「戻しなさい」

母は私の手から奪おうとした。

私は反射的にアルバムを抱え込んだ。

「誰なんだよ、あの子」

母の動きが止まった。

私はスマートフォンを取り出し、写真を見せた。

七歳ほどの少年。

赤いロボットを抱え、正面を見つめている。

母は小さく息をのんだ。

「知ってるんだろ」

「知らない」

「嘘つくなよ」

「知らない!」

母は叫び、その場に座り込んだ。

しばらくして、消え入りそうな声で言った。

「その写真を消しなさい」

「消しても戻ってくる」

「だったら、その携帯を捨てなさい」

「誰なんだ」

母は答えなかった。

私はアルバムを開いた。

最初のページに、赤ん坊の写真が貼られていた。

水色の毛布に包まれ、畳の上で眠っている。

スマートフォンに現れた最初の写真と同じ赤ん坊だった。

写真の下には、母の字で日付と名前が書かれていた。

一九九〇年六月十二日。

冬馬。

私の名前だった。

だが、私は一九九二年生まれだ。

「どういうことだよ」

ページをめくる。

一歳。

二歳。

五歳。

アルバムの中で成長していく子どもは、スマートフォンの写真に写っている少年と同じ顔をしていた。

赤いロボットを抱えている写真もあった。

子どもの横で、今より若い父と母が笑っている。

最後の写真では、七歳の少年が誕生日ケーキの前に座っていた。

その次のページは空白だった。

「この子は誰なんだ」

母は床を見つめたまま言った。

「あなたよ」

「俺じゃない」

「あなたなの」

「俺は一九九二年に生まれた」

母は両手で顔を覆った。

「あの子がいなくなったのが、一九九二年」

喉の奥が冷たくなった。

母の話は、ところどころ途切れた。

七歳だった冬馬は、六月十二日の夜、自分の部屋で眠った。

翌朝、姿を消していた。

玄関も窓も施錠され、家の中に侵入した形跡はなかった。

大規模な捜索が行われたが、何も見つからなかった。

それから約三か月後、母は妊娠した。

医師からは、時期的に説明がつかないと言われたらしい。

母自身にも、心当たりがなかった。

そして翌年の春、私は生まれた。

生まれたばかりの私を見て、父と母は確信した。

失踪した冬馬と、まったく同じ顔だった。

「だから、同じ名前を付けたのか」

母は答えなかった。

「俺は、あの子の代わりだった?」

「違う」

「じゃあ、何なんだよ」

「分からないのよ!」

母は泣きながら叫んだ。

「あなたが生まれてから、あの子の写真は全部捨てた。服も、おもちゃも、何もかも処分した。そうすれば、あの子は戻ってこないと思った」

「ロボットは?」

「捨てたわ」

「どこに」

「焼いたの」

私はアルバムの写真を見た。

少年が抱えている赤いロボット。

スマートフォンの中のロボットと、傷の位置まで同じだった。

そのとき、スマートフォンが震えた。

新しい写真が追加されました。

画面を開く。

少年は十歳ほどになっていた。

場所は実家の、私たちがいる部屋だった。

写真の中で、母は床に座り込んでいる。

私はアルバムを開いたまま立っている。

撮影されたのは、今この瞬間だった。

写真の左端。

押し入れの暗がりから、少年が顔だけを出していた。

「お母さん」

私は画面を見せた。

母が振り返る。

押し入れの中には何もいなかった。

だが、奥の壁に、子どもの手形が一つ付いていた。

濡れた泥のように黒い手形だった。

私はアルバムを持って実家を出た。

母は置いていけと言ったが、聞かなかった。

自宅に戻った後、毎朝一枚ずつ写真が増えた。

十二歳。

十五歳。

十八歳。

少年は成長するにつれ、私に似なくなっていった。

いや、違う。

私のほうが、彼に似ているのだ。

目の形。

左の眉の小さな傷。

笑うと片方だけ上がる口元。

どれも同じだった。

違うのは、写真の中の彼が一度も笑わないことだけだった。

背景は、常に私の部屋だった。

彼は少しずつベッドへ近づいていた。

十八歳の写真では、眠る私の顔に手を伸ばしている。

二十歳の写真では、私の頬に指が触れていた。

二十三歳の写真では、ベッドの端に腰かけていた。

写真が増えるたび、私の記憶が一つずつ消えた。

中学校の担任の名前。

初めて付き合った相手の顔。

父の葬儀で、誰が隣に立っていたのか。

代わりに、経験したはずのない記憶が増えていった。

赤いロボットを抱いて眠った夜。

父の自転車の後ろに乗り、川沿いを走った夕方。

七歳の誕生日、母が焼いてくれた不格好なケーキ。

どれも一九九二年より前の記憶だった。

私は会社へ行けなくなった。

同僚から電話がかかってきても、相手が誰なのか分からなかった。

母に助けを求めようとしたが、電話番号を思い出せなかった。

連絡先には「母」と登録されている。

それなのに、表示された名前を見ても、何も感じなかった。

ある朝、鏡を見ると、左の眉の傷が消えていた。

代わりに写真の男の眉に、同じ傷ができていた。

写真の中の彼は、私から何かを取り戻している。

そう思った。

記憶。

傷。

名前。

人生。

次に追加された写真で、彼は三十一歳になっていた。

現在の私と同じ年齢だった。

彼は私の枕元に立っていた。

眠っている私を見下ろし、初めて笑っていた。

写真の右下に、これまでなかった文字が表示されていた。

《成長記録を完了しました》

その日は一睡もしなかった。

部屋の明かりをすべてつけ、玄関の前に椅子を置いた。

午前三時十三分が近づく。

スマートフォンのカメラを起動し、部屋を映した。

画面の中には、私しかいない。

三時十二分。

耳元で、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

振り返っても、誰もいない。

声は押し入れの中から聞こえていた。

押し入れの戸が、ゆっくりと開く。

暗闇の奥に、水色の毛布が見えた。

その上に、赤ん坊が寝ている。

私は動けなかった。

赤ん坊は泣きながら、両手を伸ばしていた。

顔は、私の赤ん坊の頃の写真と同じだった。

背後で、床がきしんだ。

振り返る。

写真の男が立っていた。

私と同じ顔。

私と同じ身長。

私が今着ているものと同じ部屋着。

ただ一つ違うのは、彼の姿が鏡に映っていないことだった。

「誰だ」

声が震えた。

男は不思議そうに首をかしげた。

「冬馬だよ」

「俺が冬馬だ」

「うん」

男は穏やかに笑った。

「だから返してもらいに来た」

「何を」

「全部」

押し入れの赤ん坊が激しく泣き始めた。

男は赤ん坊を見て、懐かしそうに目を細めた。

「長かった」

男が一歩、近づく。

私は後ずさった。

「来るな」

「大丈夫。痛いのは最初だけだから」

「何をする気だ」

「何もしないよ」

男は私の肩に手を置いた。

触れられた場所から、冷たさが身体の中へ広がっていく。

「やっと生まれる順番が来た」

視界が暗くなった。

最後に見えたのは、男が私のスマートフォンを拾い上げる姿だった。

◇

目を覚ますと、身体が動かなかった。

声を出そうとしても、甲高い泣き声しか出ない。

水色の毛布に包まれていた。

私を抱いている女が、涙を流している。

若い頃の母だった。

隣には、死んだはずの父が立っている。

「この子の名前、どうする?」

父が聞いた。

母は少し考えてから答えた。

「冬馬」

私は必死に叫んだ。

違う。

私はもう、その名前で三十一年生きた。

会社も、友人も、部屋もある。

だが、口から出るのは赤ん坊の泣き声だけだった。

父がカメラを構える。

シャッター音がした。

同時に、どこか遠くでスマートフォンの通知音が鳴った。

◇

翌朝。

三十一歳の冬馬は、自宅のベッドで目を覚ました。

ひどく懐かしい夢を見た気がしたが、内容は思い出せなかった。

枕元のスマートフォンを確認する。

写真フォルダに、一枚の写真が追加されていた。

若い夫婦に抱かれた、生まれたばかりの赤ん坊。

撮影日は、一九九二年四月三日。

冬馬はその写真をしばらく眺めた。

赤ん坊は泣いていた。

助けを求めるように、小さな手をカメラへ伸ばしている。

知らない赤ん坊だった。

冬馬は首をかしげ、写真を削除した。

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