知らない子どもの成長記録
最初の写真は、六月十二日の朝に見つけた。
通勤電車の中で、昨夜撮ったコンビニ弁当の写真を消そうとしていたときだった。
写真フォルダの一番上に、見覚えのない赤ん坊が写っていた。
生後半年くらいだろうか。
薄い水色の毛布に包まれ、畳の上に寝かされている。口を半分開けて眠っており、頬には乾いた涙の跡があった。
知らない赤ん坊だった。
だが、背景には見覚えがあった。
赤ん坊の頭の向こうに、灰色のカーテンが見える。その隣には、角の欠けた木製の棚。棚の上には目覚まし時計と、飲みかけのペットボトル。
私の部屋だった。
昨夜、私は誰とも会っていない。
独身で、恋人もいない。もちろん子どもなどいるはずがない。
誰かが部屋に侵入したのかと思い、写真の詳細情報を確認した。
撮影時刻は午前三時十三分。
その時間、私はベッドで眠っていた。
位置情報は、自宅。
撮影機種も、私のスマートフォンだった。
気味が悪かったが、何かの誤作動だろうと思うことにした。クラウド上に他人の写真が混ざったのかもしれない。
私は写真を削除した。
その日の夜、玄関の鍵と窓を何度も確認した。クローゼットやベッドの下まで調べたが、もちろん誰もいなかった。
翌朝、写真は元に戻っていた。
昨日と同じ赤ん坊が、同じ場所で眠っている。
ただし、少しだけ違っていた。
赤ん坊の目が開いていた。
黒い瞳で、まっすぐカメラを見つめている。
私は写真をもう一度削除した。
最近削除した項目からも消し、クラウドとの同期を切った。念のためパスワードも変更した。
それでも、その次の朝には新しい写真が追加されていた。
今度の子どもは、一歳くらいに成長していた。
水色の毛布の上に座り、小さな手で床を支えている。
背景は、やはり私の部屋だった。
撮影時刻は、午前三時十三分。
三日目。
子どもは二歳ほどになっていた。
パジャマ姿で、私のベッドの横に立っている。
笑ってはいなかった。
こちらに背を向け、眠っている私を見下ろしていた。
写真の端には、布団から出た私の右腕が写り込んでいた。
手首のほくろまで、はっきりと見えた。
その日、私は会社を休んだ。
警察に相談することも考えたが、写真以外に被害はない。侵入された形跡もなければ、盗まれた物もない。
説明したところで、まともに取り合ってもらえるとは思えなかった。
私は家電量販店へ行き、小型の防犯カメラを買った。
カメラを寝室の棚に設置し、部屋全体が映るようにした。
さらにスマートフォンの電源を切り、引き出しに入れ、上からガムテープで封をした。
その夜、私はほとんど眠れなかった。
午前三時を過ぎても、部屋に異変はない。
三時十三分。
防犯カメラの赤いランプが点灯している。
カーテンは動かず、床がきしむ音もしなかった。
三時二十分まで耐えたところで、私は力尽きて眠った。
朝。
引き出しのガムテープは破られていなかった。
スマートフォンの電源を入れる。
写真フォルダには、四枚目が追加されていた。
子どもは五歳くらいになっていた。
ベッドのすぐ横で、しゃがんでいる。
そして、人差し指を唇に当てていた。
静かにして。
そう言っているように見えた。
防犯カメラの映像を確認した。
午前三時十三分。
眠っている私の姿が映っている。
部屋には誰もいない。
だが、その瞬間だけ画面が大きく乱れた。
一秒にも満たないノイズだった。
映像を一時停止し、コマ送りにする。
ノイズの中に、人の顔のようなものがあった。
子どもの顔だった。
カメラのすぐ前に立ち、レンズをのぞき込んでいた。
私はスマートフォンを初期化した。
クラウドのアカウントも削除した。
それからビジネスホテルに泊まった。
場所を変えれば、少なくとも私の部屋が背景になることはない。
そう考えていた。
翌朝、新品同然になったスマートフォンの写真フォルダに、一枚だけ写真が保存されていた。
七歳ほどの少年が、私の部屋の床に座っていた。
ホテルではない。
誰もいないはずの自宅だった。
少年は、赤いロボットのおもちゃを持っていた。
胸の部分が開き、中から小さな飛行機が出てくる玩具だ。
私は、そのロボットを知っていた。
幼い頃、父に買ってもらったものだった。
小学校へ上がる前になくしてしまい、泣きながら何日も探したことを覚えている。
あの玩具は、今も実家のどこかにあるのだと思っていた。
私は母に電話をかけた。
「赤いロボットのおもちゃ、覚えてる?」
電話の向こうで、母が黙った。
「急にどうしたの?」
「小さい頃、持ってたやつ。胸から飛行機が出てくる」
「そんなおもちゃ、持ってなかったでしょう」
「持ってたよ。父さんに買ってもらった」
「お父さんは、あなたにロボットなんて買ってないわ」
母の声は妙に硬かった。
「じゃあ、誰のおもちゃだったんだよ」
長い沈黙の後、母は言った。
「今日は仕事でしょう。変なことを考えてないで、ちゃんと行きなさい」
電話は切られた。
その夜、私は実家へ向かった。
連絡はしなかった。
母に事前に知らせれば、何かを隠されるような気がした。
実家の私の部屋は、物置として使われていた。
段ボール箱や古い家具をかき分け、押し入れの奥まで探した。
ロボットは見つからなかった。
代わりに、見覚えのないアルバムを見つけた。
表紙には何も書かれていない。
開こうとすると、母が部屋に入ってきた。
「何をしてるの」
母の顔から血の気が引いていた。
「このアルバム、何?」
「戻しなさい」
母は私の手から奪おうとした。
私は反射的にアルバムを抱え込んだ。
「誰なんだよ、あの子」
母の動きが止まった。
私はスマートフォンを取り出し、写真を見せた。
七歳ほどの少年。
赤いロボットを抱え、正面を見つめている。
母は小さく息をのんだ。
「知ってるんだろ」
「知らない」
「嘘つくなよ」
「知らない!」
母は叫び、その場に座り込んだ。
しばらくして、消え入りそうな声で言った。
「その写真を消しなさい」
「消しても戻ってくる」
「だったら、その携帯を捨てなさい」
「誰なんだ」
母は答えなかった。
私はアルバムを開いた。
最初のページに、赤ん坊の写真が貼られていた。
水色の毛布に包まれ、畳の上で眠っている。
スマートフォンに現れた最初の写真と同じ赤ん坊だった。
写真の下には、母の字で日付と名前が書かれていた。
一九九〇年六月十二日。
冬馬。
私の名前だった。
だが、私は一九九二年生まれだ。
「どういうことだよ」
ページをめくる。
一歳。
二歳。
五歳。
アルバムの中で成長していく子どもは、スマートフォンの写真に写っている少年と同じ顔をしていた。
赤いロボットを抱えている写真もあった。
子どもの横で、今より若い父と母が笑っている。
最後の写真では、七歳の少年が誕生日ケーキの前に座っていた。
その次のページは空白だった。
「この子は誰なんだ」
母は床を見つめたまま言った。
「あなたよ」
「俺じゃない」
「あなたなの」
「俺は一九九二年に生まれた」
母は両手で顔を覆った。
「あの子がいなくなったのが、一九九二年」
喉の奥が冷たくなった。
母の話は、ところどころ途切れた。
七歳だった冬馬は、六月十二日の夜、自分の部屋で眠った。
翌朝、姿を消していた。
玄関も窓も施錠され、家の中に侵入した形跡はなかった。
大規模な捜索が行われたが、何も見つからなかった。
それから約三か月後、母は妊娠した。
医師からは、時期的に説明がつかないと言われたらしい。
母自身にも、心当たりがなかった。
そして翌年の春、私は生まれた。
生まれたばかりの私を見て、父と母は確信した。
失踪した冬馬と、まったく同じ顔だった。
「だから、同じ名前を付けたのか」
母は答えなかった。
「俺は、あの子の代わりだった?」
「違う」
「じゃあ、何なんだよ」
「分からないのよ!」
母は泣きながら叫んだ。
「あなたが生まれてから、あの子の写真は全部捨てた。服も、おもちゃも、何もかも処分した。そうすれば、あの子は戻ってこないと思った」
「ロボットは?」
「捨てたわ」
「どこに」
「焼いたの」
私はアルバムの写真を見た。
少年が抱えている赤いロボット。
スマートフォンの中のロボットと、傷の位置まで同じだった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
新しい写真が追加されました。
画面を開く。
少年は十歳ほどになっていた。
場所は実家の、私たちがいる部屋だった。
写真の中で、母は床に座り込んでいる。
私はアルバムを開いたまま立っている。
撮影されたのは、今この瞬間だった。
写真の左端。
押し入れの暗がりから、少年が顔だけを出していた。
「お母さん」
私は画面を見せた。
母が振り返る。
押し入れの中には何もいなかった。
だが、奥の壁に、子どもの手形が一つ付いていた。
濡れた泥のように黒い手形だった。
私はアルバムを持って実家を出た。
母は置いていけと言ったが、聞かなかった。
自宅に戻った後、毎朝一枚ずつ写真が増えた。
十二歳。
十五歳。
十八歳。
少年は成長するにつれ、私に似なくなっていった。
いや、違う。
私のほうが、彼に似ているのだ。
目の形。
左の眉の小さな傷。
笑うと片方だけ上がる口元。
どれも同じだった。
違うのは、写真の中の彼が一度も笑わないことだけだった。
背景は、常に私の部屋だった。
彼は少しずつベッドへ近づいていた。
十八歳の写真では、眠る私の顔に手を伸ばしている。
二十歳の写真では、私の頬に指が触れていた。
二十三歳の写真では、ベッドの端に腰かけていた。
写真が増えるたび、私の記憶が一つずつ消えた。
中学校の担任の名前。
初めて付き合った相手の顔。
父の葬儀で、誰が隣に立っていたのか。
代わりに、経験したはずのない記憶が増えていった。
赤いロボットを抱いて眠った夜。
父の自転車の後ろに乗り、川沿いを走った夕方。
七歳の誕生日、母が焼いてくれた不格好なケーキ。
どれも一九九二年より前の記憶だった。
私は会社へ行けなくなった。
同僚から電話がかかってきても、相手が誰なのか分からなかった。
母に助けを求めようとしたが、電話番号を思い出せなかった。
連絡先には「母」と登録されている。
それなのに、表示された名前を見ても、何も感じなかった。
ある朝、鏡を見ると、左の眉の傷が消えていた。
代わりに写真の男の眉に、同じ傷ができていた。
写真の中の彼は、私から何かを取り戻している。
そう思った。
記憶。
傷。
名前。
人生。
次に追加された写真で、彼は三十一歳になっていた。
現在の私と同じ年齢だった。
彼は私の枕元に立っていた。
眠っている私を見下ろし、初めて笑っていた。
写真の右下に、これまでなかった文字が表示されていた。
《成長記録を完了しました》
その日は一睡もしなかった。
部屋の明かりをすべてつけ、玄関の前に椅子を置いた。
午前三時十三分が近づく。
スマートフォンのカメラを起動し、部屋を映した。
画面の中には、私しかいない。
三時十二分。
耳元で、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
振り返っても、誰もいない。
声は押し入れの中から聞こえていた。
押し入れの戸が、ゆっくりと開く。
暗闇の奥に、水色の毛布が見えた。
その上に、赤ん坊が寝ている。
私は動けなかった。
赤ん坊は泣きながら、両手を伸ばしていた。
顔は、私の赤ん坊の頃の写真と同じだった。
背後で、床がきしんだ。
振り返る。
写真の男が立っていた。
私と同じ顔。
私と同じ身長。
私が今着ているものと同じ部屋着。
ただ一つ違うのは、彼の姿が鏡に映っていないことだった。
「誰だ」
声が震えた。
男は不思議そうに首をかしげた。
「冬馬だよ」
「俺が冬馬だ」
「うん」
男は穏やかに笑った。
「だから返してもらいに来た」
「何を」
「全部」
押し入れの赤ん坊が激しく泣き始めた。
男は赤ん坊を見て、懐かしそうに目を細めた。
「長かった」
男が一歩、近づく。
私は後ずさった。
「来るな」
「大丈夫。痛いのは最初だけだから」
「何をする気だ」
「何もしないよ」
男は私の肩に手を置いた。
触れられた場所から、冷たさが身体の中へ広がっていく。
「やっと生まれる順番が来た」
視界が暗くなった。
最後に見えたのは、男が私のスマートフォンを拾い上げる姿だった。
◇
目を覚ますと、身体が動かなかった。
声を出そうとしても、甲高い泣き声しか出ない。
水色の毛布に包まれていた。
私を抱いている女が、涙を流している。
若い頃の母だった。
隣には、死んだはずの父が立っている。
「この子の名前、どうする?」
父が聞いた。
母は少し考えてから答えた。
「冬馬」
私は必死に叫んだ。
違う。
私はもう、その名前で三十一年生きた。
会社も、友人も、部屋もある。
だが、口から出るのは赤ん坊の泣き声だけだった。
父がカメラを構える。
シャッター音がした。
同時に、どこか遠くでスマートフォンの通知音が鳴った。
◇
翌朝。
三十一歳の冬馬は、自宅のベッドで目を覚ました。
ひどく懐かしい夢を見た気がしたが、内容は思い出せなかった。
枕元のスマートフォンを確認する。
写真フォルダに、一枚の写真が追加されていた。
若い夫婦に抱かれた、生まれたばかりの赤ん坊。
撮影日は、一九九二年四月三日。
冬馬はその写真をしばらく眺めた。
赤ん坊は泣いていた。
助けを求めるように、小さな手をカメラへ伸ばしている。
知らない赤ん坊だった。
冬馬は首をかしげ、写真を削除した。




