記憶の忘れ物屋
雨の降る午後にだけ、その店は路地裏に現れる。
看板には「記憶の忘れ物屋」とだけ書かれていた。
店主は感情の読めない表情をした青年で、カウンター越しに客が持ち込む「忘れたい記憶」や「忘れてしまった記憶」を、まるで古本を整理するように手際よく棚へ並べていく。
今日訪れたのは、初老の男性だった。
「どうしても思い出したいんだ」
男性は震える手で、色褪せた一枚の栞を差し出した。
それは何十年も前の文庫本に挟まれていたもので、持ち主の名前も、何の物語だったのかも思い出せない。
ただ、その栞に触れると、胸の奥が切なく疼くのだという。
店主は栞を手に取り、静かに目を閉じた。
店内の空気が重くなり、壁一面に並んだ瓶の中の記憶たちが、波打つように光り出した。
「これは、あなたが生涯で一度だけ、言葉にできなかった『別れ』の記憶ですね」
店主がそう告げると、男性の瞳から涙がこぼれ落ちた。
それは戦時中、駅のホームで交わした無言の約束。
言葉を交わせば二度と会えない気がして、ただ強く手を握り合ったあの日の温もり。
男性はその記憶を、あまりの痛みに耐えきれず、自ら封印していたのだ。
「返しますか? それとも、このままこの店の棚に預けていきますか」
男性はしばらく迷った末、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。……この痛みとともに生きていくことにするよ。それが、あの人を愛した証だから」
男性が店を出ると、雨はすでに上がっていた。店主は、もう二度と戻らない栞を棚の端にそっと置くと、次にくる誰かのために温かい紅茶を淹れた。
路地裏の店は、また静かに、次の雨を待っている。




