後編
騎士団の巡警先に妖魔が現れたのは翌日のことだった。
「早くお湯持ってきて!」
「第一部隊の治癒士は全員出動!」
「薬はもうないの!?」
王宮広場に張られた天幕の下、運び込まれた騎士たちの治癒で治癒士たちはおおわらわだった。
現れた妖魔は近年でも類を見ないほど強かったらしい。騎士団は妖魔を退けたものの、多くの負傷者を出す結果となった。
「リリベル、こっちへ来て重傷者を治癒してくれ! かなりの深手だ、覚悟して来い!」
「はい!」
ミナ隊長に言われ、他の怪我人を治癒していたわたしはきゅっと髪を結び直す。
普段は式典くらいでしか利用されず、王宮の人々の憩いの場となっている王宮広場は、今は治癒士の怒号と怪我人の呻きに満ちている。怪我人を運びこむ荷車の車輪がもくもくと土埃を蹴立て、四囲に立ちこめる人々の熱気でうなじに汗が流れた。
そうして連れていかれた陣幕には、真っ黒な靄に包まれた人型のモノが横たわっていた。
妖魔に襲われたのだろう。人間が魔を帯びた怪我を負うとこうなるのだ。つん、と鉄錆めいた臭いが鼻を刺し、血の臭気と混ざって吐き気を催しそうだった。
近くにいた第三部隊の治癒士がウッと顔をしかめてそそくさと天幕の外へ出ていく。ミナ隊長は顔色一つ変えず、わたしを見やった。
「妖魔にトドメを刺した騎士らしい。魔の汚染が骨まで進んでいるが……リリベルならいけるな?」
「はい」
わたしは鼻と口を布で覆い、腕まくりをして頷いた。これくらいで動じていては第一部隊の治癒士は務まらない。体中をめぐる魔力の渦を感じながら、躊躇なく靄の上に両手をかざす。
手のひらから金色の光があふれたかと思うと、瞬く間に靄が薄れていった。
これが治癒士の最も奇跡的な御業。
人間の体を蝕む魔の汚染を、己の魔力によって中和する。本来、一度魔に冒された肉体は腐り落ちてしまい治ることはない。けれど治癒士だけは、不可逆なはずのその進行に逆行する。
わたしの手際に安心したのか、ミナ隊長はこちらに頷きかけて天幕を立ち去った。
わたしはしばらく手をかざし続ける。靄はどんどん晴れていく。この分なら後遺症も残らないだろう。物理的な怪我さえ治れば、すぐにでも歩けるようになるはずだ。
こういうとき、遥かな時間を超え、あの日のわたしたちに傘を差しかけているような心地になる。
わたしは今、確実に悲しむ人を一人か二人は減らしたのだ、と。
やがてすっかり靄がなくなったところで安堵の息を吐きかけて、はっと身がこわばった。顔を覆っていた靄が取り払われて、騎士の身元が明らかになっていた。
短い黒髪に、端正な顔立ち。今は瞼が閉ざされているが、その下の瞳が冷たい黒色をしていると、わたしは知っている。
ヨシュア・カレンデュラ。
ふいに、わたしが第一部隊に抜擢されたときのことが思い出された。治癒士になったばかりで、まだ姉とともに第三部隊に所属していた頃だ。
大規模な妖魔討伐のおり、この騎士は、第三部隊の天幕に出現した妖魔を倒してくれたのだった。けれどその中で大きな怪我を負ってしまい、魔に侵されて意識不明となってしまった。
そのときわたしは彼を治癒した。どうにもならないと第三部隊の面々が泣き喚く中で、わたしだけは治癒ができた。自分や第三部隊の皆を助けてくれた人を、死なせたくなかった。その一心だった。
どうやらわたしは人よりも魔力が多いらしい。その一幕を見ていたミナ隊長に拾われ、現在は第一部隊で治癒に奔走する毎日というわけだ。
過去をぼんやり思い返していると、ヨシュアの瞼が引き攣るように動いた。
いつも厳しい光をたたえている瞳が焦点を失い、ぼうっと空をさまよう。その両目がわたしを捉え、薄い唇がかすかに動いた。
「……マリアンテ?」
「すみません、違います。姉を呼んできましょうか?」
何度か瞬きを繰り返し、やっと正気に戻ったらしい。ヨシュアは顔をしかめるとぶっきらぼうに応じた。
「いや、いい。……間違えた、妹の方だったか」
小さな舌打ちが聞こえた。どうやらわたしは名前も覚えられていないし、ここまでの怪我を治しても感謝さえしてもらえないようだ。別に、仕事でやっているのだからいいのだけれど。
それでも、治癒したばかりで疲れていたからかもしれない。わたしの口から疑問がついて出ていた。
「……あの、カレンデュラ様。あなたはどうしてそこまで姉を好きなのでしょうか」
寝台に横たわったヨシュアは、身じろぎもせず吐き捨てる。
「お前に教える必要が?」
「姉を大事にしてくださる方なのか知りたいんです」
そんなの気にしたこともなかったが、唇は勝手にそれらしい理由を捻り出してくれる。その言葉は宙に向かってばらばらに散らばっていく気がしたけれど、どうやらヨシュアのもとにはまっすぐ届いたらしかった。
「——かつて、マリアンテに命を救われたことがある」
かすれた声でヨシュアは言った。やはり姉を中心に据えると物事はすんなり進む。さっきまで冷たく響いていた声音の底に、かけがえのない思い出を懐かしむような柔らかな色が滲んだ。
「これを見ろ」
ヨシュアが騎士服の胸元からなにかを引っ張りだした。銀細工の鎖に小さな石がついた、不恰好な首飾りだった。
それに見覚えがあって、わたしは息を止めた。
以前、わたしが姉にあげたものだった。
魔石にはわたしの魔力がこめてあって、何かあっても、一度だけなら大規模な治癒ができる。妖魔に襲われてもこのペンダントが姉の命を守ることを祈って、第三部隊を離れたときに贈ったのだ。
なぜこれをこの男が持っている?
魔石は役目を果たしたのか、くすんだ灰色に濁っていた。形も歪で、森にでも行けばこれよりもっと綺麗な石はいくらでも見つかるだろう。
しかしその屑のような石塊を、ヨシュアは愛おしげに指先で撫でた。治癒に走り回る治癒士と尽きることのない怪我人とで騒がしい王宮広場よりももっと遠く、霞がかった青空を見上げながら、秘密を打ち明けるように囁いた。
「俺が討伐で大怪我を負った際、マリアンテがこれを使って治癒してくれた。彼女がいなければ、俺はとうに死んでいただろう。この魔石はかなりの魔力がこめられていて、貴重なものだった。だがそんな大切なものをなげうって、マリアンテは見ず知らずの俺を助けてくれたんだ」
「そう……だったのですね……」
かつてわたしが行ったことをなぞるようなストーリーを聞かされて、くらりと目眩に襲われる。
わかっている。わたしはペンダントをあげただけで、助けたのは姉だ。だからその功績は姉のものだ。わたしには一切関係がない。美味しい食事を作ってもらって、料理人に感謝こそすれ、その食材の作り主にまで思いをめぐらせる人がどれほどいるだろう。
けれど、ヨシュアの恋心の道筋には重大な落とし穴があいている気がして、わたしは言い募っていた。
「それで姉を好きになったのですか? 治癒士は治癒が仕事です。たとえ姉でなくても、そこにいたのが治癒士であれば全員同じことをします」
「そうだな。だが、俺にとっては彼女だけが特別だ」
間髪いれずに答えは返る。何度も解いた問題に回答するように、迷いなく。
わたしは看護服のエプロンに手を隠し、ぎゅっと拳を握りしめていた。
「……姉は博愛の人です。目の前で怪我をしたのがあなたでなくても助けたと思いますよ」
「だからどうした? それがマリアンテの最もよい美点だろう」
わかる、と思ってしまった。
姉は平等で、公平で、だからこそ残酷に君臨するのだ。
もしも双璧の騎士二人に愛されて、自分は特別だと自惚れるような女だったらとうに見限ることができていた。汚点を指差して騒ぎ立て、もっともらしい理由をつけて自分の悪心を肯定できた。
でもできない。なぜなら姉の最大の欠点は、欠点がないところだから。
彼女を嫌った瞬間、正義の天秤は彼女の方へ傾く。瑕疵のない姉を嫌うなんて、きっと嫌う方に問題がある。そういう論理が成り立ってしまう。
わたしは努めて長く息を吐き、強く握っていた拳を開いた。手のひらに脂汗が滲んでいて、そっとエプロンで拭う。
「カレンデュラ様が姉を慕う理由はよく理解できました。お話しいただきありがとうございました」
かつて家庭教師に習ったとおり、上位貴族に対する深々とした揖礼をする。
地面に向かって垂れ落ちる結び髪を眺めながら、そうか、と内心ひとりごちていた。
わたしが治癒しても、特別にはしてもらえなかったのだ。
わたしは姉よりも前に彼の命を救い、魔石を通じて彼の助けにもなったが、そんなものに価値はないのだ。
口の中に血の味が広がる。知らず噛んだ唇が切れていた。慌てて傷口を舐めたとき、天幕に誰かが入ってきた。
「ヨシュア、大丈夫?」
春風のように柔らかな声が耳に届いた。
天幕の入り口に、姉が立っていた。これだけの騒ぎの中でも汗一つかいた形跡がなく、長い銀髪がさらさらとなびいている。
姉は両手を胸元で組み合わせ、不安そうに眉根を寄せた。
「ひどい怪我をしたと聞いたから、心配で来ちゃったの」
「問題ない。不覚を取ったが、たいした怪我ではなかった」
ヨシュアは平然と応じる。わたしは笑いたくなった。恋する男の意地というものだろうか? 骨の髄まで魔に汚染されていて、わたしが治癒しなければ死んでいただろうに。
ヨシュアの虚勢に、姉はぱっと表情を明るくした。
「そうなの? よかったわ」
「ああ、もうなんともない。それより——」
二人の話は続いていく。花祭りに行くとか行かないとかそういう話題だった。わたしはくるりと踵を返し、天幕を出る。背後に楽しげな笑い声が遠ざかっていく。
ここにわたしの居場所はなかった。
■ ■ ■
次の怪我人を治癒するため、別の天幕へ向かおうとしていたわたしの背中を、誰かが叩いた。
「妹ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど」
ハルだ。どうやらこっちもわたしの名前を覚えてないらしい。
見たところ、怪我がなさそうなのはよかった。さすがに騎士服が汚れ、王子様然とした金髪もぼさついているけれど、妖魔に傷つけられてはいないらしい。
「わたしに何かご用ですか?」
「こんなときに聞くことじゃないんだけど……」
「はあ」
ハルは辺りを行き交う治癒士を見回し、口元に手を当てて声をひそめた。
「マリアンテって誰にハンカチあげるの?」
本当にこんなときに聞くことじゃない。
唖然と口を開けたわたしに、ハルは苦笑しながら髪をなでつけた。
「マリアンテのことはやっぱり妹ちゃんに聞くのが一番だと思うんだけど、妹ちゃんを捕まえるチャンスがなかなかないからさー。こんなときでもないと話を聞けないだろ?」
「わたしはたいてい第一部隊の居室にいますよ」
あと、食堂でも一瞬相席した。この騎士は覚えていないかもしれないが。
しかしハルは「えー?」と片眉を上げると、なんでもないようにへらりと告げた。
「人目があるところで内緒話なんかできないよ。変に噂になったら嫌だろ?」
どちらが、なんてことは聞かずともわかった。周りに人がいる場所で意味深そうな会話をして、わたしと仲がいいのではなんて思われるのは、ハルが嫌なのだろう。
そりゃそうである。この男は姉が好きなのだし。もっと言ってしまえば、わたしのような平凡な女となんて、噂になるのも願い下げなのだろう。そう穿ってしまうのは、別にわたしが卑屈だからではないと思う。
ともかく、わたしは首を横に振った。
「存じません」
「そうなの? 妹なのに?」
「はい」
わたしの短い返事に、ハルも察するものがあったのだろうか。柔和な微笑みを浮かべ、拝むようにわたしに手を合わせた。
「じゃあ、マリアンテのことを探って、できれば俺を応援してくれない?」
優美なかんばせの上に乗った微笑は、お伽噺の王子様のように優しげで、けれど瞳に光る茶目っ気が愛嬌を添えていた。たいていの女の子はこの笑顔に従ってしまうだろうし、ハルはこの表情を作り慣れているのだろう。老練の画家が下書きをなぞっていくがごとく、計算され尽くした無駄のない動きだった。
わたしは目に塵でも入ったように瞬きを繰り返した。
「なぜわたしがそんなことをしないといけないのですか?」
「対価が欲しい? そうだなあ、じゃあこういうのはどうだろう? 代わりに俺は、妹ちゃんとヨシュアとの仲を取り持ってあげるよ。ヨシュアが好きなんでしょ?」
ハルの双眸が、わたしの顔をじっと見つめる。わたしは跳ねそうな肩を抑え、強いてふっと力を抜いた。
「違います。わたしにそんな素振りがありましたか?」
背中に冷たい汗が滲む。
もしかすると、わたしだけがほんの少し特別に思っていた治癒の一幕が、わたしの態度に現れていたのかもしれない。それをハルは目ざとく見つけ出して、何かの意味を見出したのか?
だがハルはあっけらかんと笑ってみせた。
「あれ違った? じゃ、好きなのは俺? たいていの女の子はヨシュアか俺を好きになるからさー」
背中に浮いた汗は瞬く間に引いていった。
何を焦っていたんだろう、と馬鹿馬鹿しくなってくる。当然、ハルがわたしを眼中に入れているわけがないのだ。そもそも、わたしに自由意志があると理解しているかさえ怪しい。舞台に上がった脇役その三、くらいの認識しかないのだろう。
そうでなければ、こんなに失礼なことを面と向かって言えるはずがない。
わたしを懐柔しなければならない立場のくせに、わたしを怒らせるとは考えないのだろうか。
「シオニア様は、なぜ姉を好きなんですか?」
「可愛くて優しいから。逆に聞くけど、マリアンテを好きにならない男がいるかい?」
浅薄すぎていっそ清々しい。でも、恋なんてそれくらいの軽さでした方がいいのかもしれない。運命的な理由とか、きらめく思い出とか、そんなものなくたって人は人を好きになれる。
ハルはブーツの爪先で、地面に落ちた小石を蹴った。
「残念。妹ちゃんに協力してもらったら一歩リードできると思ったんだけどなー」
「姉は今、カレンデュラ様と話していますよ」
「えっ本当!? 邪魔してこよっと。ありがとね、妹ちゃん!」
ハルは目を輝かせ、ぽん、とわたしの頭を撫でて去っていく。犬でも撫でるような、なんの意味もない手つきだった。
わたしは看護服のポケットに手を突っ込み、手巾を取り出す。
苦心しながら針を進め、つい昨夜完成した刺繍。白い手巾の一面に大小さまざまな薔薇が咲き、優美な線を描く蔓がその隙間を埋めるように這う。
ぐしゃり、と手巾を握り潰した。
わたしは誰からも愛されない。特別じゃない。
こんなもの最初から必要なかったのに、張り切って馬鹿みたいだった。
■ ■ ■
花祭りの当日はひどい土砂降りで、そして大妖魔の襲撃があった。
もはや怪我人を広場に運びこむゆとりもなく、第一部隊は現場への出動を要請された。ミナ隊長に付き従い、わたしも騎士団が襲撃されたという山道へ赴いた。
辺りは酸鼻を極めていた。
大木が折れ重なる間に、血まみれの騎士たちが倒れている。篠突く雨が苦悶の声をかき消し、負傷者の体温を奪い、流れる血を洗い流していた。
「山の西側にも負傷者多数らしい。リリベル、お前が向かってくれるか」
「はい!」
雨よけの布をかぶり、わたしはミナ隊長の指示に従い西側へと走る。
その間中、ずっと心臓が嫌な音を立てて鳴っていた。十年前、両親を亡くしたときの記憶がありありと蘇る。両親もこんなふうに死んでいったのだろうか。妖魔に襲われて、たくさんの血を流して、苦しんで……。
「違う、今のわたしなら、みんなを助けられる」
雨に濡れる頬をぴしゃりと叩き、わたしは気合を入れ直す。そうだ、今のわたしは治癒士だ。魔に侵された怪我を治癒し、何人たりとも生かすことができる。
そうしてたどり着いた西側は斜面になっていて、ここがいちばんの激戦区だったようだった。
ほとんどの樹木は倒れ、地面にえぐれたような跡が残っている。何人か騎士が倒れていたけれど、もう息をしていなかった。
「そんな……」
目の奥に熱いものがこみあげてきて、わたしは奥歯を噛みしめる。いくら治癒士と言えど、死者を生き返らせることはできない。騎士の亡骸のそばに跪き、見開かれた瞼を下ろしてやりながら、わたしは必死に辺りを見渡した。
生者はいないのか。
わたしはなんの役にも立てないのか。
指先から血の気が引いて、雨に打たれる感覚もなくなっていく。肩から提げた治癒道具の入った鞄の重さがのしかかってくるようだった。縋るようにそのベルトを握り、なんとか地面を踏みしめる。
そのとき、わたしの耳にかすかな呻きが届いた。
「た……すけ……」
雨音に紛れてしまいそうな小さな声だった。わたしは勢いよく立ち上がり、忙しく視線をめぐらせる。
「どこにいますか? わたしは治癒士です、助けに来ました」
周囲は雨に煙って、人の形もぼんやりとした影としか映らない。声を聞き漏らさないように慎重に歩きながら、わたしはそこへたどり着いた。
「たすけ、て……くれ……」
そこには二人の人影が倒れていた。
魔の侵食が進み、ほとんどが黒い靄に覆われている。けれどわずかに頭部だけはあらわになっていた。だから、その二人が誰かは一目瞭然だった。
ヨシュアとハルだった。
鞄のベルトを握りしめる手に力がこもり、肩に痛いほどの重さが食いこむ。は、と短い息が口からこぼれた。
わたしは治癒士だ。両親を亡くし、そんな人を一人でも減らしたくて、ずっと治癒を続けてきた。同じように悲しみを分かち合う姉と約束して。
迷う暇なんてない。ここまで魔に覆われてしまえば、あとは命尽きるしかない。一秒でも早く治癒しなければ。
早く動け。魔力を回せ。わたしはもう無力な子どもではない。両親と同じように死んでしまう人を、助ける力があるのだ。
雨はいよいよ勢いを増し、わたしの顔面に突き刺さる。冷たい雫が頬を流れ、顎先から滴り落ちていく。
ふ、と、温かな夢想が胸に流れこんできた。
ここで治癒すれば、このふたりはわたしに感謝してくれるかもしれない。マリアンテの妹ではなくアイビーとして見てくれて、名前を覚えてくれて、食堂でご飯を食べてくれて、一緒に街へ出かけてくれて、三角形が四角形になって……。
なんて、そんなことにはならない。
空が光って、近くで雷鳴が低く轟いた。雨で冷え切った足の裏に、わずかな振動が伝わってくる。
どうせすぐ忘れる。わたしの救った命で姉に愛を囁き、恋模様を演じ、どちらか勝った方がわたしの義兄にでもなるのかもしれない。
——わかっている。
ここでたいした葛藤もできないから、わたしは物語のヒロインにはなれないのだ。
わたしはすぐさまその場を離れ、他の怪我人を探しにいった。