中編
「アイビー、助けて!」
そう切羽詰まった声で姉に呼ばれたのは、翌日の昼下がり。王宮内の図書館へ本を借りにいこうとしているときだった。
「どうしたの、お姉ちゃん」
声の方へ向かえば、第三部隊の倉庫の前で、姉が心細そうに立っていた。
「倉庫の荷物を騎士団本部に移動させなきゃいけないんだけど、思ったより数が多くて……手伝ってもらえない?」
入り口から見れば、包帯やら薬やらの木箱が壁際にごちゃごちゃと積まれている。これを一人で運ぶのは大変だろう。というか、わたしが手伝ったって時間がかかる量だ。しかも騎士団本部までは結構遠い。
「いいけど、第三部隊の他のメンバーは?」
「みんな忙しいんだって。ほら、花祭りもあるでしょ? 私は暇だから引き受けたの」
あっけらかんとした姉の返事に、わたしは目を眇めた。倉庫に入り、もう一度、辺りを見回す。狭い倉庫の中、いくつも積まれた木箱には圧迫感がある。どれも重そうで、ときどき蓋に打ち込まれた釘が飛び出しているものもあった。
本当だろうか。この量を姉一人に任せるだろうか。むしろ——。
「……まあいいや。台車を借りてくるよ。お姉ちゃんはここで待ってて」
「助かるっ、やっぱりいざというとき頼れるのは可愛い妹だけっ」
「はいはい、そういうのいいから……」
ひらひら手を振って倉庫から出たところで、人にぶつかった。というより、弾き飛ばされた。
「マリアンテ、手伝おっか?」
「どうした、困り事か?」
無様に地面に転んだわたしの頭上を飛び越して、どこからともなく現れた双璧二人が姉に声をかける。
「ヨシュア、ハル!」と姉が嬉しそうに声を弾ませた。先に名を呼ばれたヨシュアの口元がわずかに綻び、ハルが横目にヨシュアを睨んだのを、わたしは見逃さなかった。こっちは地面に這いつくばっているので、角度的によく見えたのだ。
わたしは地面に手をついて立ち上がり、看護服についた砂埃を手で払う。転んだ先が乾いた石畳でよかった。水たまりでもあったら目も当てられない。本当に、幸運だった。
別に痛くはない。転んだといっても、勢いがついていたわけではないし、心配されるほどのことじゃない。前方不注意なこっちが悪かったとも言える。
ヨシュアとハルは倉庫に入り、姉を囲んで何か話している。姉が一生懸命荷物について説明するのを、騎士たちは世界で最も興味深い論文の発表会か何かのように聞いている。明かり取りの小さな窓から陽光が入りこんで、きらめく埃が三人を取り巻いていた。
「わかった、これを全て本部へ運べばいいんだな。たいした手間でもない」
「任せておいてよ。というか、マリアンテ一人にやらせるなんて第三部隊はひどいなぁ」
冗談っぽく言いつつもハルの声は剣呑だった。日ごろはおどけた翠色の瞳に不穏な影が横切る。姉は困ったように微笑んだ。
「違うわ、みんなを責めないで。私がやるって言ったのよ」
「ふうん、優しいね、マリアンテは」
「おひとよしなんだろ、こういうのは」
「ひどーいっ」
可愛らしく頬を膨らませた姉に、いつも仏頂面のヨシュアの目尻が緩む。常はピンと張られている理性の糸が、ついたるんでしまったという感じの油断だった。ハルが横からすかさず言った。
「ここは俺たちがやるから、マリアンテはこっちに座っててよ」
指し示されたのは、光に照らされた綺麗な木箱。倉庫の隅にひそやかに置かれたそれは、釘のはみ出しもなく、艶やかな飴色をして、ふさわしい客人を待つ椅子のようにたたずんでいる。
「そんなの悪いわ、私も手伝う」
姉は拳をむんとさせていたが、二人に押し切られて木箱に座った。そうすると、まるで画家がスケッチのためのモチーフを置いたかのように、姉と木箱はしっくり馴染んだ。
優しげに微笑む顔は淡い光に包まれ、長いまつ毛が頬に影を落とす。看護服のスカートから伸びた白い足は、薄暗い倉庫の中でもくっきりと浮かび上がっていた。
姉はいつだってきちんと両膝を揃えて座る。リリベル男爵家の令嬢として施された教育が、十年経っても彼女に根づいている証左だ。
姉は覚えているだろうか。かつて両親が健在だった頃、肩を並べて令嬢教育を受けていた、なんでもない幸福な日々を。
「そうだ、ヨシュア。今度のお休みに街に出かけようと思っているのだけど、あなたも来ない?」
「休日はもっぱら鍛錬に当てているが」
「ほらマリアンテ、この生真面目君はこう言ってることだし、やっぱり二人で出かけようよ」
「たまには息抜きするのもいいものよ? 三人ならきっと楽しいわ」
片付けが始まるのかと思ったら、まったく違う話で盛りあがり始めた。
わたしは入り口のそばで、片手で自分の肘を掴んで立っていた。こちらに背を向ける三人の楽しげな笑い声は、彼らだけを包みこむように響く。わたしはその場でつま先立ちになっては踵をつけた。自分にはやることがある、と言い聞かせでもするかのように。
そのまましばらく待っていたが、ちっとも話が終わりそうにないのを察すると、足音を忍ばせて倉庫を離れた。もう手伝いは不要だろう。男手二人あれば、台車もいらないに違いない。
脇目もふらずに回廊を歩いていれば、地面にぶつけた膝がずきずき痛んだ。看護服をまくると、痣になっていた。だがわたしは治癒士だ。怪我の重さくらいは正確に判定できる。これくらいはなんともない。
なんともない、はずだ。
■ ■ ■
姉といると、わたしはときどき、自分が姉にしか見えない幽霊なんじゃないかと思う。
実は両親が亡くなったときに一緒に死んでいて、寂しさから姉に取り憑いてしまった亡霊なんじゃないかって。
だから誰も、姉の隣にいるわたしには目もくれず、話しかけもせず、わたしが何をやっても感謝もしないのではないだろうか。そう考えると筋は通る。不自然なほど無視される主人公、その正体は幽霊だったからだ——なんて、使い古された三文小説のどんでん返しだ。
もちろんそんなことはない。わたしは物語の主人公ではない。
わたしは第一部隊所属の治癒士で、ミナ隊長からも同僚からもごく普通に話しかけられ、それなりに親しく過ごしている。当たり前に生きている、ごく普通の人間だ。そもそも幽霊だったら酸っぱいいちごタルトなんて食べずに済んだに違いない。
わたしがマリアンテ・リリベルの妹である限り、きっとこの人生はいつまでも続くのだろう。
「……全然、終わらない」
その夜、寮の自室で手巾に針を刺していたわたしは、先の見えない刺繍にうんざりして呟いた。
今日は満月だったから、蝋燭の節約のために灯りを絞り、窓辺に椅子を置いて月明かりを頼りに刺繍していた。銀色の月光に照らされた手巾には、まだ半分ほどしか薔薇が咲いていない。
どうせ誰も欲しがらないというのに、こんなことをやってなんの意味があるのだろう。
ぷつり、と針が肌を刺す感覚が走った。反射的に肩が跳ねる。見ると人差し指の先に朱の雫が浮いていて、今にも弾けそうに小刻みに震えていた。
わたしの手から、ぽとりと刺繍針が落ちた。
こんなこと、もうやめよう。
そばの机に手巾を放り投げる。ぐしゃぐしゃになった手巾に刺繍された薔薇は、ちっとも花には見えなかった。赤と緑が入り混じった、小汚い布の塊。
こんなものはもう見ていたくなくて裁ち鋏を手にしたとき、部屋の扉がトントンと叩かれた。
「アイビー、もう、置いていくなんてひどいわ。台車を借りに行ってくれたかと思ったのにっ」
同室である姉の帰還だった。どこかのタイミングで着替えたのだろう。看護服ではなく、可愛らしいワンピース姿で、片手には小さな紙包みを持っている。
わたしはとっさに鋏を手芸道具の中にしまい、ぎこちなく口角を持ちあげた。
「ごめん、あの二人がいれば大丈夫かなって。帰り、遅かったね?」
「うん、あのあとお茶に誘われて街まで出かけてたの。お茶もお菓子も美味しかったわよ!」
姉はなんでもないように言いながら、羽織っていた薄手の上衣を脱ぐ。蝋燭の灯火がその姿を照らし、華奢な体つきを浮き立たせていた。細い手首に、見たことのない腕飾りがつけられているのに気づいてしまった。今日のお出かけで買ったか——買ってもらったのだろう。
「デートだったんだ」
わたしの返事に、姉は明るい笑い声をたてた。
「違うわ、二人はそんなんじゃないもの。今度はアイビーと行こうね。これ、お土産」
差し出された紙包みの正体はクッキーの詰め合わせだった。花祭りの時期によく売られている、バターをたっぷり使った生地に薔薇の花を練りこんである名物だ。
「もう十日もすれば花祭りなんだって。毎日忙しいからすっかり忘れちゃってたわ」
「お姉ちゃんの刺繍の調子はどう?」
「まあまあやってるわよ? でも下手だから誰にもあげないかも。そうしたらアイビーがもらってくれる?」
椅子に座った姉が、頼みこむように両手を合わせて片目をつむる。わたしの口からは乾いた笑みが漏れた。
「お姉ちゃんの刺繍なら、欲しがる人、いるよ。……カレンデュラ様とか、シオニア様とか」
「ヨシュアとハル? そうかなあ?」
「だってすごく良くしてくれるでしょ」
あの二人が姉に恋慕しているのはもはや周知の事実だというのに、姉は他人事のように首を傾げている。お土産のクッキーを自分で開けてつまみながら、なだめるように眉を下げた。
「あの二人は騎士だもん。みんなにそうよ。アイビーにだって優しいでしょ」
その声を聞いた瞬間、カッと頭に血が逆流して、それから勢いよく地面に向かって下がっていった。
握りしめた拳がぶるぶる震え、目の前が真っ赤になる。なにか言おうと思ったのに、首を絞められたように喉が締まって声は一つも漏れなかった。
そんなわけがない。この姉は一体何を見ているんだ。
わたしがどれほど惨めな思いをさせられてきたか——。
姉は薔薇の形をしたクッキーを美味しそうに頬張って、「アイビーも食べて? はい、あーん」と一枚差し出してくる。
なんだか急に体から力が抜けて、わたしは背もたれにぐったりともたれた。
「……そんなことないって。ねえ、お姉ちゃんはどっちが好きなの?」
「もーっ、本当に違うのっ。私はアイビーが好きだもの」
「またそんなこと言って……」
「本当だもん。このお土産だって、アイビーの好きそうなのを買ってきたのよ」
姉は頑なにわたしにクッキーを突きつけてくる。わたしは力なく手のひらで受け取った。
——わたしはこの姉のことをどう思っているのだろう。
残酷な女だ。でも嫌いにはなれない。だって家族なのだ。両親を亡くした悲しみを同じようにわかちあってくれたのは、他の誰でもない姉だ。
手のひらにのったクッキーを、のろのろと口に入れる。ほろほろした生地が崩れて、薔薇の香りが鼻まで抜けた。
クッキーは美味しい。嫌になるほど。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「んー?」
「治癒士になろうねって決めたときのこと、覚えてる?」
「覚えてるわ」
即答だった。姉はじっとわたしを見つめ、もう一度、
「覚えてる。——忘れない」
真剣な顔つきで言った。
リリベル男爵家の所領は辺境近くにあって、妖魔に出くわすことはままあった。そのための自警団もきちんと揃っていて、頑丈な市壁に囲まれた街の中にいれば、そこまで危険はなかった。
けれど両親は領主だから、そういうわけにはいかない。辺境領主には市外調査の務めがある。
ある雨の日だった。
両親は自警団とともに市壁の外へ出かけ、そして物言わぬ遺体になって帰ってきた。
調査の最中に大型の妖魔に襲われ、深手を負ったのだそうだ。そのときはあいにく治癒士がいなかった。だから魔を帯びた傷は両親の体を蝕み——屋敷まで保たなかった。
両親の遺体は魔を帯びているので周囲を汚染しないよう、すぐに焼却しなければならなかった。損傷もひどかったらしい。使用人たちは幼いわたしたちを慮って、両親には会わせてくれなかった。だから幸いにして、わたしが覚えている最後の両親の顔は、調査に出かけるときの笑顔だ。
火葬場は墓地の中にひっそり佇む煉瓦積みのこじんまりした建物で、その灰色の壁は雨に濡れて色を濃くしていた。墓地の芝生をぬかるみに変えるくらいの雨だというのに、煙突からたなびく白い煙は太く、まっすぐに天を目指していた。
わたしは一人でいた。領主の急な死に大人たちは余裕を失い、相続権を持たぬ娘になど気を払っている暇はなかった。
火葬場の軒下から煙の行き先を眺めていると、姉が隣にやってきて、ぎゅっと手を握ってくれた。
姉はなにも言わなかった。忙しない雨音が二人の間を遮っても、つないだ手から思いが伝わってくるような気がした。
その温かさを、わたしは忘れたことがない。
『ねえ、アイビー』
煙がすっかり薄れた頃、姉がようやく口を開いた。
『もし治癒士がいたら、お父様もお母様も、助かったかもしれないのだって……』
わたしの手がぴくりと震えた。反射的に手を離そうとして、違う、と息を呑んだ。姉の手が震えている。ずっと落ち着いていて、葬儀の間も涙一つこぼさず、気丈にわたしに寄り添ってくれていた姉が。
『わたしたち、治癒士になりましょう。一人でも多く救って、こんなふうに悲しむ人を一人でも減らすの。大丈夫、わたしたち二人なら絶対にできるわ』
曇天の下でも、姉のすみれ色の瞳は鮮やかに輝いていた。わたしには見えない未来が見えているかのように、姉は確信を持って微笑んでくれた。
——そうやって、わたしたちは治癒士になった。
「アイビーと一緒に治癒士になれて、本当によかった。だってあなたは私の大切な妹だもの」
鈴を鳴らすのに似た声が、追憶を破る。
姉がいつしかわたしの前に立って、こちらを見下ろしていた。夢のように美しい微笑で、気をそらすのを許さない神々しさで。
「これからもずっと一緒にいましょうね」
ほっそりとした手が伸びてきて、わたしの頬を押し包む。
春とはいえ、夜の帰り道はまだ寒かったのだろうか。姉の手はひんやり乾いていた。
これからもずっと——わたしはゆっくりと瞼を下ろす。その途方もない年月はわたしの心に穴を穿って、底なしのがらんどうにしてしまうようだった。
 




