第七集 側妻
成宅は京城・展封にあるその他多くの邸と同様に、敷地中央の内院と、それをとり囲むように建つ正房と複数の房屋からなる。游廊と院子の小径よって往来できる房屋はそれぞれ、家主の親兄弟や妻子に居所としてあてがわれている。
成書杏と生母の居所は正房の裏手、敷地北東の奥にある雪柳閣と呼ばれる建物だ。
成書杏が離離と共に雪柳閣へ戻ると、生母の白氏が室の奥からすっ飛んできた。
「書杏、どうだった?」
白氏は娘の手をつかむなり、ぐいと詰め寄る。眉を釣り上げている生母がなにを聞きたいかを察しつつも、成書杏はあえてしらばくれた。
「どうって、なにが?」
「縁談相手のことよ。さっきまで会っていたでしょう? 今日の来訪があるまでわたくしになにも報せなかったのだから、呉氏ったら本当に腹が立つ。自分の息子が探花になったからって図に乗って!」
白氏は甲高い声で苛立たしげに喚く。怒りのままに手を握りつぶされそうで、成書杏はさりげなく生母を振り払って距離をとった。
側妻は正房の客人の前に姿を見せないのがしきたりだ。関わらせる気が家主夫妻になければ、客人が誰であるか知らされることもない。
今日の縁談を白氏が知りえたのは、下女を買収して聞き出したからだろう。縁談らしいとは分かっても、相手が誰かまで探り出すだけの時間はなかったとみえる。
成書杏の将来に関わることでありながら生母の白氏を締め出すあたり、犬猿の仲と言えど呉氏もあまりに意地が悪い。
呉氏への恨み節が止まらない生母の声を聞きながら、成書杏は正房よりいくぶん質素なしつらえの室を移動して羅漢床に腰を下ろした。休みなく濃い一日を乗り切ってすっかり疲れているので、いつまでも立ち話をしていたくない。
羅漢床の茶机にあった落花生を離離に剥かせていると、呉氏への悪態をひと通り喚き尽くした白氏が隣に座った。
「それで、どちらの公子なの? 官職は? 名前は?」
ようやく本題に戻って、白氏は前のめりに畳みかける。生母の短気な詰問に構わず、成書杏は落花生を数粒まとめて咀嚼してから答えた。
「欧陽意っていう、農民の書生よ」
「農民ですって!」
悲鳴じみた声で再び白氏が喚き出す。
「呉氏め、書杏を格下へやろうだなんて。わたくしの娘にそんな勝手は絶対に許さないんだから」
癇癪を起こしたように座ったまま地団駄を踏む白氏を見て、やはりこの縁談の一番の障害は彼女だと成書杏は確信した。生き延びる道を切り開くには、足るを知らない生母を説き伏せねばならない。
「欧陽公子は次の科挙合格を目指しているそうよ。学問所での成績も上々だとか。今のところ裕福とまでは言えなさそうだけれど、三年後には官僚かも。そう考えれば、そんなに悪くないわ」
まずは縁談相手の擁護を試みてみる。ところが白氏は顎をそびやかして鼻で笑った。
「そんなどうなるか分からない要素なんか信用できるもんですか。科挙に合格できるのは受験者のほんの上澄みなのよ。六十や七十の歳まで受け続ける人もいるのだから。欧陽とかいう農民がそうならない保証がある?」
上昇婚を理想とするのなら、白氏の主張はなんら間違ってはいない。だが、そこへの執着が強過ぎて、彼女の思う理想が誰にとってもよいものとは限らない、という視点が抜けている。
成書杏は落花生の殼を離離に捨てさせて、生母の方へ体ごと向いて居直った。
「母さん。格上の家に嫁げても、爵位もない官戸の庶子ではどうせ側妻がいいところよ。だったら、格下の家でも正妻になった方が惨めな思いをせずに済むわ」
「なんてことを言うの!」
叱りつける口調で言って、白氏は成書杏の手を包み込むように握った。血の繋がりが明らかな面差しを真正面からつき合わせ、生母から娘へ、一語一語を強調するように言い聞かせる。
「わたくしはね、物のような扱いの生活から抜け出して少しでも楽な暮らしをするために、努力して努力して、旦那様と出会って今の暮らしを手に入れたの。書杏はわたくしの娘よ。わたくしにできたことなら、あなたにだってできるわ」
切実な響きで言い募られ、成書杏はため息をつきそうになるのをぎりぎりで堪えた。
白氏は元妓女だ。妓女は、奴隷階級である賤民籍になる。賤民はたやすく売買されるのが常で、生きるも死ぬも所有者しだいだ。
そこから抜け出すために彼女は、出会った当時には官職に就いたばかりだった成元に上手くとり入り、身請けさせるだけでなく正妻を差し置いて長男まで産んでみせたのだ。強かと言うほかない――この長男は今、家を離れているが。
そのような経験をしているものだから、白氏は娘にも、身の丈以上の相手へ嫁ぐことを期待している。
成書杏としても、上昇婚を望む気持ちはもちろんある。さりとて親から圧力にも近い期待を向けられては、疎む感情も芽生えてしまう。
白氏はさらに娘を引っ張り寄せるように、手を握る力を強くした。
「わたくしは貧しい苦労を知っているわ。だから、血を分けた娘にはそういう苦労のない、より富貴な暮らしをさせてあげるのが、親としてのわたくしの勤めよ。よく分からない農民なんかよりも、雨世子の方はどうなっているの?」
成書杏は、今度はため息を我慢しなかった。長々と息を吐いて項垂れつつ、生母の手を握り返す。
「母さん、世子については口を出さない約束でしょう」
「そう言ってちっとも進展しているようすがないから、こうして聞いているんじゃない。なんのために茶坊へ行っているのよ」
確かに、成書杏があえて成紅杏に優しく振る舞ってまで霜葉茶坊に通っている本来の目的は、蕭雨との接触機会を増やすためだ。今の成書杏にとっては、形だけの行動であるが――林墨燕の目さえ欺ければいい。
そんな事情を知るよしもない白氏は、あくまで自身の不満と願望とを娘に向け続ける。
「今日も世子と会ってきたのでしょう? あなたも茶坊に行くようになってもう結構になるし、世子も進士になられたんだから、そろそろなにか言ってくるんではないかしら」
白氏の読みはあながち的外れではない。実際、蕭雨は行動を起こしている。その相手が成書杏ではない、というだけで。
「それを言ったら、紅杏だって同じ条件よ」
成書杏はただの事実として告げたが、白氏はあからさまに顔をしかめた。
「あんな商人の娘なんて、世子が相手にするはずがないじゃない」
そう言う白氏は商人よりも身分が下の妓女だろう、と成書杏は胸中でぼやいた。人を良民と賤民とに分ける身分制度によって辛苦を舐めた過去を持ちながら、自らも差別をしているのだから呆れ果てる。
成家に子供は合わせて五人いるが、今の発言によって白氏にとって自分の子以外いかにどうでもいい存在か分かろうというものだった。無視するだけでは収まらず、疎んじてさえいる。この点、呉氏とも大差がない。
これでは兄妹の中で唯一、母のいない成紅杏が家中での居場所を失うのも当然のなりゆきだ――父・成元も、自身の体面と出世以外には感心が薄いので大した庇護者になりえないのだ。
「ねえ、いっそ欧陽公子を茶坊に連れて行ってはどう?」
白氏からの突然の提案に、成書杏はぎょっとした。
「連れていってどうするの」
つい聞き返してしまってから、成書杏は後悔した。この先どのような話になるかは、よく知っているというのに。
「紅杏に会わせたらいいわ。そのまま上手く話を持っていって、押しつけてしまいなさいな」
素晴らしいひらめきだとばかりに、白氏の声は高くなった。やはりこういう流れになってしまうのかと、成書杏はげんなりとした気持ちになる。
物語にあらがうと心では思っていても、すべては複数の登場人物の思惑が交錯することで進行していくものだ。成書杏だけが多少言動を変えた程度では、その他の人間の思考や行動まで簡単には歪められない。
「そんなに上手くいくとは思えないけど」
無駄と分かりつつ、成書杏はもう一歩だけ食い下がる。案の定、白氏は娘の憂慮など意にも介さず、悪巧みするように顔を寄せた。
「二人きりにさせて、それらしい既成事実でもなんでも、でっち上げたらいいのよ。そもそも欧陽家が正妻の嫡庶にこだわらないなら、それが紅杏でも構いやしないはずよ。外でこまこまと働けるような子だから、農民の相手にはうってつけなくらいだわ」
娘の意見を聞く気がないどころか、侮辱の言葉がさらりと出るあたり本当に救いようがない。汚い手を使うことになんら躊躇のないこの生母が、成書杏は心底恐ろしくもあった――遡れば、成紅杏の母の秋氏が難産で亡くなったのも、白氏の策が引き起こしたと言えるのだ。
当時の白氏は、同じ側妻である秋氏が息子を産むことをひどく恐れていた。そこで彼女は、優しい顔で胎児の成長によい滋養品をたくさん届けながら、その中に妊婦には禁忌とされる桃仁――桃の種子――を混ぜ込んでいた。
たとえ実の娘であっても強く反発すれば、白氏の自己中心的な残酷さが牙を剥くだろう。この場で生母に逆らうのはやめることにして、成書杏は渋々頷いた。
「……やってみるわ」
形だけ、と心の中でつけ足す。
なんらかの策は講じたのだと、白氏を納得させる体裁だけ作ればいい。いずれにせよ、縁談を成紅杏に押しつける計略が上手くいかないことは分かっているのだ。
白氏の説得よりも、計略が失敗したあと欧陽意との縁を断たずに済む方法を考えることに、成書杏は意識を切り替えた。