第六集 縁談
成宅の表門をくぐってすぐの外院を成書杏が歩いていると、内院に繋がる二門から少女が一人、衣の裾を持ち上げて走ってきた。
「三姉上、三姉上、三姉上!」
家族の誰よりも天真爛漫な成家の末っ子は、未成年の印である二つ結びの髪を弾ませて成書杏の手をつかんだ。
「三姉上ってば、遅いじゃない。帰ってくるのをずっと待ってたんだから」
成書杏は苦笑して、末妹の手の甲を軽く叩いた。
「ちっとも遅くないわよ。少し早く切り上げてきたくらいよ。妙杏こそ、なにをそんなに慌てているの。走ると、また嫡母上に叱られるわよ」
窘められたことで十二歳の成妙杏はちょっと口を尖らせたが、すぐに気をとり直して目を輝かせた。
「母上の前で走ったわけではないから叱られはしないわ。それより聞いて。今、正房にね――」
「五娘子!」
遅れて駆けてきた侍女の呼びかけが、成妙杏のお喋りを遮った。主人である五娘子と同齢の侍女は、成書杏を見ると少々慌てた動作で礼をした。
「お帰りなさいませ、三娘子」
礼を終えるなり、侍女はすぐさま成妙杏に向き直った。
「五娘子、お室にお戻りください。見つかったら、わたくしが旦那様と奥様に叱られます」
侍女は切実な表情で言い募ったが、成妙杏は鼻であしらった。
「平気よ。父上と母上は欧陽公子とのお喋りに夢中だもの。あのようすは、相当お気に召したわね」
「欧陽公子?」
その名に引っかかりを覚えて成書杏が問うと、成妙杏は悪巧みするようにニヤリとした。末妹は背伸びをして、耳打ちする距離まで三姉に顔を寄せる。
「正房にいるお客人よ。あの感じはきっと縁談ね。父上と母上がご機嫌だもの。目的はきっと、生まれ順で三姉上の方ね」
鵬臨国の女性は、笄年とされる十五歳から社交場へ出て、婚姻も許されるようになる。共に十七歳である成書杏と成紅杏は、まさに今が一番、よりよい嫁ぎ先探しにいそしむ年齢なのだ――主に親が。
うきうきと報告する末妹のようすに、成書杏は軽く眉をひそめた。
「妙杏ったら、まさか覗き見したの?」
「ほんのちょっとだけよ。顔と名前が分かる程度だけ。三姉上だって気になるでしょう?」
成書杏は自分も茶坊で覗き見をしたのをすっかり棚に上げて、末妹のおこないに呆れ返った。
邸に男性客がいるとき、未婚の令嬢は親に呼ばれるまで顔を出さないものだ。成妙杏は自室にいるよう言いつけられながらも、勝手に抜け出してきたのだろう。嫡出の末娘として甘やかされてきたゆえの奔放さだ。
姉とはいえ庶子の立場から嫡子の行動にあまり口を出しては角が立つ。末妹を叱るのは嫡母に任せることにして、成書杏はもたらされた情報に意識を向けた。
「確かに、少し見にいった方がいいかもしれないわね」
「でしょでしょ」
成妙杏の瞳が、共犯者を得た喜びにきらめく。けれど成書杏は、このまま末妹を連れ回すつもりはなかった。
「妙杏は室に戻っていなさい」
「えー。そんなの狡いわ、三姉上」
「紅杏のお菓子があるわよ」
「え、どれどれ」
一度は不満の声をあげながら、成妙杏は即座に機嫌を直した。成書杏の後ろに控えていた離離が竹編みの食盒を差し出せば、飛びつく勢いで蓋を開ける。
「わあ! 今日のはとびきり綺麗ね。室で食べるから、持っていって」
後半は自身の侍女に向けて、成妙杏は言った。侍女が食盒を受けとるなり、末妹はあっという間に二門の方へと駆け戻っていく。
五娘子お付きの侍女はまたしても、主人の後ろを食盒をひっくり返さないようしながら小走りに追いかけることになった。
まだまだ幼い末妹とその侍女の後ろ姿をほほ笑ましく眺めて、成書杏も二門へと再び歩を進める。
欧陽公子なる人物の顔を拝まねばならい。間違いなくこの先の物語に、無関係ではないのだから。
成書杏が正房の前までくると、正妻お付きの侍女が家主夫妻へとり次いだ。さほど待たされることなく、中へと通される。
正房に入ってすぐの室は、中堂と呼ばれる応接間になっている。正面奥、山水画を背にして置かれた羅漢床が、家主・成元とその正妻である呉氏の定位置だ。幅広な座面を中央で仕切るように置かれた低い茶机を挟んで、夫妻は並び座っている。
二人の前へ進み出る途中で、成書杏はさりげなく左へと視線を走らせる。中堂の左右に並ぶ客人用の椅子の内、羅漢床に近い左奥の席に見慣れぬ郎君が、その隣に呉氏と同世代だろう女性が座っていた――おそらく、欧陽公子とその仲人だ。
家主夫妻の前で、成書杏は優雅に礼をした。
「父上と嫡母上にご挨拶を」
成書杏が顔を上げると、父・成元は顎髭を撫でて頷いた。
「ちょうどいいときに帰ってきたな。そちらは、欧陽意殿だ。挨拶しなさい」
父にうながされるまま、成書杏は体を左へ向ける。
「欧陽公子にご挨拶を」
成書杏が挨拶すると、欧陽意も立ち上がって丁寧に拱手を返した。
「成三娘子にご挨拶を。お噂は兼々」
互いに一礼から顔を上げたところで、初めて両者の目が合う。
成書杏が軽くほほ笑みかけてみると、欧陽意の目元にほのかな朱が差した。
二人の挨拶が済むなり、呉氏が間髪入れずに口を開いた。
「さあさ、二人ともおかけなさい。書杏のお茶も早く持ってきて」
呉氏は穏やかな口調で、侍女にもてきぱきと指示を出す。
成書杏は欧陽意の向かいの椅子へ腰を下ろしつつ、末妹が事前にもたらした情報の正しさを認識した。
嫡母の呉氏は、成書杏の生母を目の敵にしている。その影響で、普段の呉氏は成書杏に対して、隠しきれないよそよそしさがある。
それが今は、まるで実子に接するときのような穏やかさなのだ。呉氏が成書杏の前でこんなに機嫌がいいなど、あまりにも珍しい――目障りな側妻の子をようやく家から追い出せる、とでも考えているのだろう。成書杏の不在中に縁談相手と会っていたのも、わざとに違いない。
「書杏、欧陽公子は家こそ農民ではあるけど学問所でとても優秀でいらっしゃってね――」
呉氏は上機嫌のまま、欧陽意の紹介を始めた。成書杏は侍女の淹れた茶で気を紛らわしながら、ただニコニコとしてそれを聞き流した。
『霜葉紅』の登場人物として、欧陽意のことは知っている。呉氏の口から改めて説明を聞く必要性は感じない。
欧陽意は今の状況の通り、成書杏の縁談相手として登場する。
しかし成書杏が好きなのは蕭雨だ。それ以外の郎君、ましてや格下の農民に嫁ぐなど当人はもとより生母が承知しない。そのため、欧陽意との縁談を成紅杏へ押しつけようと、成書杏は画策する――というのが、この先に待っている筋書きだ。
こっそりと、成書杏は向かいに座る郎君の姿を窺い見た。
欧陽意は呉氏の話にときおり相槌は打ってはいるが、あまり口数が多い方ではないようだった。真っ直ぐな眉と幅広い顎をした容貌は凡庸だが醜くはない。青鼠色が上品な衣を着こなす姿は、いかにも秀才といった風情だ。身形を見れば、富貴とは言えずとも貧しい家ではないとも分かる。
今は農民の身分とはいえ学問所に通っている以上は、目指す先は科挙合格からの官僚だろう。それが実現すれば、少なくとも今の暮らしから大きく格が下がることもないと思われる。
この縁談を受ければ、死に怯えずに済む道が手っとり早く開けるのではないか。
談笑につき合いつつ、成書杏はこれから先の算段を始めた。
そのとき、茶を飲みきった欧陽意がおもむろに立ち上がった。
「成殿、成夫人。わたしは、そろそろ失礼しようかと思います」
始めに挨拶を交わしたときと変わらぬ丁寧さで、欧陽意は家主夫妻へ拱手をする。公子の礼儀正しさに吊られるように、成元と夫人の呉氏もすぐに立ち上がって礼を返した。
「こちらこそ足を運んでいただいた上に、長話につき合わせてしまったようで」
「欧陽公子がよろしければ、またいつでもお越しください。書杏、お見送りして」
呉氏が袖を振って急かすので、成書杏も茶盞を置いて立ち上がる。仲人の女性はまだ話があるらしく、帰り支度をするようすがない。仕方がないので、欧陽意が再度、退出の礼をするのを待ってから、仲人を中堂に残して二人で正房を出た。
外は茜色に染まりつつあった。春といえど暮れ方ともなると風が肌を冷やし、散り始めの海棠が美しくもどこか侘びしさを醸す。
門へ続く内院の小径を並んで歩きながら、成書杏は改めて欧陽意に話しかけてみた。
「今日はわたくしも兄も出かけていて、あまりおもてなしできず失礼いたしました」
「いいえ。成二公子が科挙で探花になられたそうで。わたしからも、お祝い申し上げます」
振り向いて足を止めた欧陽意が、また心のこもった動作で礼をした。それに対し、成書杏は微笑を返す。
「二兄に変わってお礼申し上げます」
成書杏を見る欧陽意の頬が照れくさげに染まる。その赤みを隠すように、彼は進行方向に向き直って再び歩を進めた。
「わたしも三年後の科挙に向けて勉学に励んでいます。ぜひ、成三娘子の兄君と働きたいものです」
「欧陽公子ならきっと合格できますわ。陰ながら応援いたします」
「感謝いたします。精一杯、力を尽くします」
応えた欧陽意の声は、この日一番の力強さがあった。
二人は当たり障りのない会話を続けながら、ゆったりとした歩みで表門へ向かった。途中で仲人の女性が追いついてくるかと思っていたが、一向にそのようすはない。待っていては日が暮れてしまうということで、欧陽意は表門の前で成書杏の方を向いて拱手で一礼した。
「それでは、わたしはこれで」
欧陽意は笑顔で挨拶をして、目抜き通りの方向へと足を踏み出す。だが、すぐになにか思い出したようにもう一度、成書杏に向き直った。
「あの……」
なにか言いかけたところで、欧陽意は躊躇いを見せた。成書杏が軽く首を傾けて先をうながすと、意を決した表情で彼は続けた。
「また、お会いできますでしょうか」
欧陽意の顔は、耳まで赤かった。彼の純情さに噴き出しそうになった笑いを微笑に変えて、成書杏は頷いた。
「ええ。いつでもご連絡ください」
強張っていた欧陽意の顔がほころんだ。あからさまな表情に、成書杏は再び笑い出しそうになるのを堪えるのに苦労した。
公子は相好を崩したまま深々と頭を下げ、跳ね出しそうな足どりで改めて目抜き通りの方へと歩み去る。その背中を、成書杏はまんざらでもない気分で見送った。
欧陽意は初対面なのもあってか始終ぎこちない態度だったが、それが悪いことと成書杏は思わなかった。下手に主張が強く無礼な態度をされるよりは、純朴で従順なくらいが人畜無害でちょうどいい。
会話した時間はほんのわずかではあるが、飛び抜けた長所は見られなかったものの、少々内気そうである以外に特筆すべき欠点もなさそうだ。将来性まで評価基準に含めるならば、そう悪い縁談ではなく見える――円満にとなると、いくつか解決せねばならない問題点はあるが。
とりあえずは問題点の一つをなんとかしてみようと、成書杏は邸の中へと引き返した。
お読みいただきありがとうございます。
ページ下部のフォームより、ブックマーク、☆評価、感想などいただけましたら励みになります。
ぜひ引き続きお楽しみ下さいませ!