第五集 情節
「茶坊から手を引けということですか」
厨房へ繋がる外廊に出たところで、成紅杏の声が耳に届いた。らしくなく苛立った調子の四妹の声色に、成書杏はすぐさま状況を察知してほくそ笑む。
見当通り、すぐに蕭雨の声も聞こえてきた。
「そういうことではない。茶坊が君のものであることは変わらない。知っての通り、わたしは間もなく官職を給わる。君さえ了承してくれれば、わたしの力ですぐにでも君を救えるのだ。君が商人の真似事を強いられるような苦労をする必要はもう――」
「わたしの母は商人です。なに一つ強いられてもいません。世子まで、商人は卑しいと見下すんですか」
「違う。そんなことは思っていない。そうでなく、わたしは――」
二人の口論に耳をそばだてながら、成書杏は慎重に石敷きの外廊を進んだ。
今の蕭雨は、まだまだ経験が浅く未熟だ。自身の発言のなにが成紅杏の逆鱗に触れているのか分かっていない。
鵬臨国には、厳然とした身分が存在する。奴婢や賤民と呼ばれる奴隷階級を除けば、士農工商の身分制度においてもっとも低く扱われるのは商人だ。
商人の戸籍では、受験者の貧富を問わないはずの科挙を受ける資格さえない。巨万の富を築こうとも、所詮は商人と蔑まれる。それが、身分というものだ。
庶出といえども官僚の娘である成紅杏の戸籍は、支配者階級の士族だ。士族は財産として荘園や店舗を所有しても、自ら耕作したり客前に顔を出して商いをしたりはしない。
そのような価値観の中心で育った蕭雨にとって、成紅杏の今のありようは見過ごせないのだろう。
しかし、成紅杏にとって秋氏から受け継いだ霜葉茶坊は誇りであるし、孫女将が世話を焼かなければ、おそらく大人になるのも難しかった。
成紅杏を困難な身の上から救いたいという蕭雨の思いは立派だが、その善意が彼女の誇りと亡き生母を貶めていることに気づけないのが彼の若さと言える。
とはいえ二人の恋路に待っている試練を思えば、この口論は本当の恋が始まる前の些細なできごとだ。
楓が青々と枝を茂らせている裏庭を左手に見ながら、外廊を進む。突き当たりにあるのが、茶坊の厨房だ。その出入り口の横で、成紅杏と蕭雨は向き合っていた。
成書杏は二人に気づかれぬよう裏庭に下りて、低木の茂みに身をひそめた。かつて夢中で読みふけったそのままの情景を目前に、高鳴る胸を強く押さえる。
口論の末、ついに成紅杏が蕭雨に背中を向けた。
「もう戻ってください。いつまでもここにいたら、二兄上たちに変に思われますよ」
成紅杏は厨房へと戻ろうとする。その右手を、蕭雨が素早くつかんで引き止めた。
「紅杏、わたしは――」
「放してください、人を呼びますよ！」
成紅杏からの強い拒絶に、蕭雨の顔が悲痛に歪んだ。睨み合いにも似た沈黙が生じる。一瞬あとに、なにか堪えるように蕭雨は顔を伏せた。
「分かった。今日はひとまず、これだけ受けとってくれたらいい」
蕭雨は成紅杏の手へ押しつけるようになにかを握らせて、さっと両手を引いた。
「世子、これは――」
「また話そう」
突き返そうとする成紅杏にその隙を与えず、蕭雨は身を翻す。咄嗟に呼び止める声にさえ耳を貸すことなく、彼は大股に外廊を引き返して茶坊の中へ戻っていった。
世子が風のように歩み去った外廊を、成紅杏は立ち尽くして見詰めていた。やがて自身の右手に視線を落とし、昏い瞳でため息をつく。
成紅杏が厨房へ戻っていくのを確認すると、成書杏は音をたてぬよう注意して裏庭の茂みからすべり出た。
すべて『霜葉紅』の筋書き通りに進んでいる。いよいよ、成書杏が動き始める番だ。
次にとるべき行動に思い巡らせつつ、いくらか時を置いてから成書杏は厨房の出入り口へと立った。
「紅杏」
呼びかけると、調理台の前に佇んでいた成紅杏が肩を跳ねさせて振り返った。成書杏の顔を見た途端にたじろぐ仕草を見せ、右手を体の後ろへと回す。
「三姉上、なにかあった？」
成紅杏の返事にはまだ焦った響きが残っていた。その声色にも背中に隠したものにも気づいていないふりをして、成書杏は四妹へ歩み寄った。
「わたくしはそろそろお暇しようと思うから、声をかけにきたの。仕事の邪魔をしてしまった？」
成紅杏は大きくかぶりを振った。
「いいえ、大丈夫。帰るのなら、妙杏の分のお菓子があるから持っていって」
成三姉妹の末妹の名が、成妙杏だ。邸で待っている末妹は、お土産がないとあとで煩いのである。
末妹に用意した菓子をとりに、成紅杏が背中を向けた。体の後ろに隠されていた手が、成書杏の視野に入る。握られているのは、紅珊瑚の飾られた金の簪だった。
成書杏はその簪を素早くとり上げた。
「あっ」
驚く声と共に伸ばされた成紅杏の手をかわして、成書杏は簪を顔の前にかざした。
「素敵な簪じゃない。どうしたの、これ」
簪を軽く振って見せながら問えば、成紅杏は半端に手を伸ばした姿勢のまま目を泳がせた。
四妹の狼狽えを意に介さずに成書杏が見詰め続けていると、つかの間の躊躇いのあとで成紅杏はおずおずと答えた。
「貰ったの……お客さんに」
成紅杏の瞳が、再び落ち着きなく泳ぐ――蕭雨は茶坊の常連だ。客であることに間違いはない。
「ふうん、お客さんねぇ」
胡乱に返して、成書杏は手の中の簪をじっくりと眺め回した。
金軸の先に飾られた紅珊瑚は自然の形のまま、ごく小さな枝を伸ばしていた。輝くまで磨き上げられた真紅の枝には、小粒の真珠が実っている。
金に珊瑚に真珠。精巧に施された細工。意匠に毳々しさはなく上品だ。ひと目で値打ちある逸品と分かる。これが、ただの贈りものであるはずがない。
蕭雨はどんな思いでこれを選んだろう。思い馳せるだけで、成書杏の口元は自然と緩んだ。
「三姉上、気に入ったのならあげるわ」
成紅杏が唐突に言った。簪に見入っていた成書杏は、目を瞠って四妹へ視線を移す。同齢の妹は、笑っていた。
「この簪に合うほど着飾ることが、わたしにはないから。三姉上の方が使い道があると思うの。だから、よかったら貰って」
こともなげに言った成紅杏の笑みには、陰があった。
さて、と。成書杏は顔に出さず思案した。
『霜葉紅』の筋書きに従うならば、簪が蕭雨から贈られたものと知った上で、このまま貰うのが正解だ。そして後日、成書杏がこの簪を挿しているのを蕭雨が目撃し、再び成紅杏との口論の種となる――成書杏の思惑通りに。
善良な顔をして妹思いな姉を演じながら、内心で成紅杏を見下し、劣等感につけ入って蕭雨との離間を謀る。本来の成書杏は、そういう人物なのだ。
この陰険さがやがて身を滅ぼすことは分かっている。ならば、狡猾に生き延びる方向へ頭を使えばいい。
まばたき二回で思考を終え、成書杏は四妹へ笑いかけた。
「使うかどうかなんて考えなくてもいいのよ。こういうものは自分を飾るだけでなくて、いざというときの蓄えだと思って持っていたらいいわ」
柔らかい声音で言いながら一歩距離を詰め、成紅杏の髪へと両手を伸ばす。後ろ髪を残して結われた飾り気ない髷へ、簪を挿してやる。豊かな黒髪に、真紅と金が鮮やかに灯った。
「ほら、よく似合う。大事になさいな」
成書杏が軽く後れ毛を撫でてやると、成紅杏は戸惑い顔で見詰め返してきた。腕を持ち上げ、自分の髪に飾られた簪に慎重な手つきで触れる。ややあってから、幼さの残る顔が柔くほころんだ。その笑みには、ついさっきのような陰はなかった。
四妹が深く頷くのを、成書杏は満足して眺めやった。
「それで、妙杏のお菓子はどれ？」
「すぐに詰めるから、少しだけ待って」
成紅杏は常の明るさをとり戻して答え、菓子をとりに身を翻す。
竹編みの食盒に詰められた菓子を受けとると、成書杏はすぐに厨房をあとにした。
相変わらず繁盛している茶坊を出て、小舟を待たせている桟橋を歩きながら、再び忙しく思索にふける。
はたして、林墨燕は簪の件に気づいて行動を起こすだろうか。
いきなり殺されはしないだろう。あの葬礼の日から八年、彼が鴇遠リンの顔で明らかな干渉をしてきたことはない。
林墨燕が物語に関わる変化を察知したとき、まずは成書杏への接触と警告をするに違いないとみている。
待ち受ける死を回避するには、必ずどこかで筋書きを歪めねばならない。ならば大きな変化を生む前に、彼が動く境界を見極めておきたかった。
彼がどのような形で警告をしてくるか。あらゆる予想を頭の中で立てながら、成書杏は帰りの小舟へと乗り込んだ。
