第四集 知己
透き通った生地の中に花弁が舞う玫瑰の水晶糕。
艶やかな露に輝く棗の蜜煮。
きな粉を纏った黄米餅の豆沙巻き。
一同の揃った円卓の上に、色彩豊かな菓子が並んだ。
「水晶糕は、とびきり鮮やかな玫瑰をとり寄せて作ってみたの。紅はおめでたい色だし」
円卓を囲む個々の前に茶盞を置きながら、成紅杏が自慢の手製菓子の説明をする。味わいにも造形にもこだわり抜かれた菓子もまた、霜葉茶坊が誇る逸品なのだ。
成紅杏の話を聞きながら、二兄・成章桑が一番に水晶糕を摘まみ上げた。小皿にとり、まずはその澄んだ色合いを目で楽しむ。
「我が四妹は、また腕を上げたようだ」
成章桑はいかにも感心した調子で評価してから、水晶糕を口へと運ぶ。彼の満足げな表情にうながされて、他の面々も茶と菓子へ手を伸ばした。
皆が舌鼓を打ち始める中で、蕭雨だけは軽く体を伸ばして成紅杏の方へ顔を向けた。
「紅杏も座りたまえよ」
言いながら、浩国公世子は自身の隣の空席を示す。成紅杏は振り向いて笑った。
「ありがとうございます。でも、わたしは動き回っていた方が落ち着くので」
「しかし君だけ働かせるわけには……」
「今日は世子と二兄上の科挙合格のお祝いですから。わたしのことは気にせず召し上がってください。お茶もお菓子も、お代わりはたくさんありますよ」
科挙は、官員登用のための国家試験だ。三年に一度おこなわれる試験にはいくつかの段階があるが、この度、その最終試験である殿試に成章桑と蕭雨が揃って合格したのだ。
たいへん難関な試験だ。当然、それぞれの家で盛大な祝宴はしている。それとは別にごく親しい仲間内でも改めて喜びを分かち合おうということで、こうして集まったのだった。
霜葉茶坊を使っているのは、成紅杏と孫女将からの好意だ。
成紅杏に椅子を断られて落胆する蕭雨に、成章桑が反対隣から軽く肘を当てた。
「蕭雨、本人がそうしたいと言うのだから、させてやったらいい。それに、紅杏の茶を好きなだけ飲めるのは役得だ」
「しかし――」
「紅杏の代わりに、わたくしがそちらに座ります」
言い募ろうとする蕭雨を遮り、成書杏は茶盞を持って席を移動した。
「姉妹だもの、そんなに違いはないでしょう?」
肩を寄せ、下から覗き込むように蕭雨の顔を見上げて、成書杏は蠱惑的にほほ笑んでみせる。
すぐさま、成章桑の窘める声が飛んできた。
「書杏。さすがに、はしたないぞ」
仕方なく成書杏が姿勢よく座り直すと、対面の席からやりとりを見ていた林墨燕が息を震わせるだけの軽い笑い声をたてた。
「国公世子が進士になったとなれば、誰も放っておくまい。脳天気にしていられるのも今の内だ。もてなされておけ」
科挙の合格者を、進士という。進士すなわち今後の国政を担う高官候補であり、それだけで前途洋々な郎君とみなされる。さらには爵位を継ぐことが確定している世子となれば、とり入ろうと考える者が現れるのは必然だ。
林墨燕の発言を受けて、成章桑が大粒の棗をかじりながらニヤリとした。
「そういえば合格発表の当日には、浩国公府の前に釣書を携えた仲人が行列していたな。世子となれば公主が相手でもおかしくないというのに、高望みな人間が多いものだ」
「彼らなら全員、母が追い返してしまったよ。わたしとしても、相手にする気はない」
肩をすくめて、蕭雨は茶を口元へと運ぶ。成章桑は眉を持ち上げて興味深げな顔つきをした。
「ほう。蕭雨が国公夫人に同調するとは珍しい」
「同調はしていない」
即座に否定して、蕭雨は親友を横目で見ながら続ける。
「母は、母自身の選んだ相手以外わたしに相応しくないと考えているが、わたしはそうは思わない。わたしは、自分が心から思える相手を自分で選ぶ」
蕭雨が生真面目に言い切るのを傍で聞き、成書杏は密かに胸をときめかせた。
高貴な出自に加え、柔和な美貌と気立てを持つ蕭雨は、やはり男性として魅力的だ。これから先の物語で、そんな君子も愛のためならば大胆にも残酷にも振る舞えると知っているだけに、四妹に明け渡してしまうのを惜しむ気持ちさえ芽生える。
しかし、彼が成紅杏と睦まじく寄り添う姿を見たい、という思いもまた、『霜葉紅』を知る成書杏の感情として存在していた。
成章桑が円卓に手をついて、蕭雨の目を間近に覗き込んだ。
「その口振りは、すでに心に決めた相手がいるな」
「それは……」
蕭雨がたじろいで言いよどむものだから、成章桑がますます面白がって前のめりになる。すかさず、成書杏は二人の会話に割り込んだ。
「世子に嫁げるなら、側妻でも構わないという女性は多いのではないかしら」
二兄と世子が同時に振り向いた。成章桑は前のめりな体勢のまま、顔をしかめる。
「やめた方がいいぞ、書杏。お前のような庶子が蕭家になんぞ嫁いだら、君姑にいびり倒されて泣いて帰ってくることになる」
先帝の姪でもある蕭雨の母、浩国公夫人は、厳格かつ気位が高いことで有名だ。
そのため成章桑の言うことは的外れでなかったが、成書杏はむっとした。嫡出である二兄から、庶出である点を言われるのが気に食わない。ただでさえ、庶子というのはなにかにつけて軽んじられやすいのだ。
そんな内心は隠しつつ、成書杏はむしろ顎を上げて鼻で笑ってみせる。
「二兄上だって栄えある探花なのだから、放っては置かれないわよ。中書侍郎のご令嬢との縁談はどうなっていて」
科挙合格者の内、上位三名には特別な肩書きが与えられる。探花は、第三位の称号だ。
蕭雨が目を剥き、再び成章桑の方を向いた。
「中書侍郎の令嬢? 初耳だぞ。いつの話だ」
世子が驚くのも無理はなかった。中書侍郎といえば、皇帝を補佐する宰相二名の内の一方の肩書きだ。科挙で上位の成績を収めれば高官から声がけがあるのは常だが、最高官が首位と二位を差し置いて、三位の探花にとなると、なんらかの意図を邪推したくもなる。
成章桑は卓に突っ伏してうめいた。
「その話題は勘弁してくれ。そういう話があるというだけで、なにも進んでいないし、わたしも乗り気でない」
「嫡母上は、そうではないみたいですけれど」
成書杏が畳みかけると、成章桑は異母妹を上目に睨みつけた。
「母上は、中書侍郎と姻戚になるのがどれだけの面倒ごとか分かっていないだけだ。巻き込まれなくていい政争に巻き込まれることになる」
「しかし中書侍郎は皇帝に次ぐほどの権威だろう。断れるのか? 下手を打ったら、栄えある探花が左遷の憂き目だ」
親友を案じて、蕭雨の眉間までが曇る。成章桑は卓に突っ伏したまま、長々と息を吐いてぼやいた。
「殿試以上の難題だ」
主賓の二名が揃って思い悩む。その向かいで、林墨燕が豆沙巻きへ手を伸ばしながらぼそりと呟いた。
「どうやら、これからはわたしが一番お気楽でいられそうだ」
成章桑はそれを聞き逃さず、片眉と上体を同時に跳ね上げる。
「墨燕はなんでまた武官になったのだか。君の実力なら十分、科挙も合格できたろうに」
鵬臨国は、武より文が重んじられる国だ。より上位の官職を望んだとしても、武官では早い段階で限界が訪れてしまう。堅実な出世を目指すならば、科挙を受験して文官を志すのが一番の早道だ。
成章桑から指摘されても、林墨燕はもう聞き飽きたとばかりの表情で豆沙巻きを咀嚼した。
「家は兄が継ぐし、わたしが進士になったところで、父の金儲けのために働かされるだけだ。武官でいた方が、父や兄と距離を置けて好きにしていられる。それに、皇城司の仕事は案外と気に入っている」
皇城司は、展封の中央にある皇宮および諸官庁の建造物群・皇城の、城内と門の警備を主な任務とする衙門、すなわち国の機関だ。禁軍とは独立して設置された監察機関という顔も持つ、天子直属の精鋭である。
三年前に林墨燕は科挙受験を放棄して皇城司の司卒となり、学友らに先んじて仕官を始めていた。
林墨燕のもの言いに対し、今度は蕭雨が苦言を呈した。
「皇城司に入れたのは兄君の伝手があってだろう。父君との確執は分かるが、それで兄君まで毛嫌いするものではないのではないか」
「…………」
反論するのさえ厭うように、林墨燕は黙りこくった。ふてくされたように顔を逸らす彼の仕草が子供じみていて、成章桑と蕭雨は目配せして苦笑した。
林墨燕の父は無位無冠の地主ながら、農地の他に何軒もの塩店を所有する富豪だ。塩は、酒や茶葉と並んで国による専売の対象になっている。専売品は榷貨務と呼ばれる衙門から仕入れるものであり、より多く融通して貰うには高官との縁も欠かせない。
林家の長男は父の思惑に乗り官僚となって家業のために働いている。一方、二男の林墨燕は駒となるのを嫌って反発していた。
知己が集っての会話は以降もあちこちに飛躍し、とりとめもなく広がっていった。肩を並べて切磋琢磨した若者たちが、各々の進む道を前に浮き足立ち、普段以上に饒舌になる。
このまま際限なく会話が続いていくと思われた矢先だった。急に蕭雨が席を立った。
「少し失礼。すぐに戻る」
蕭雨が扉を開閉する音を聞きながら、成書杏は卓上に目をやった。菓子の皿はほとんど空になっていた。いつの間にか、成紅杏の姿も室内にない。
新しい菓子をとりに成紅杏が個室を出ていき、それに気づいた蕭雨があとを追っていったのだ。
次になにが起こるか。成書杏が思い巡らせたところで、不意に林墨燕と目があった。
分かっているな――と。眼差しだけで、釘を刺される。
ここで成書杏が『霜葉紅』に逆らったら、やはり彼に殺されるのだろう。いずれにせよ、表立った反抗が得策でないことくらいは分かる。
林墨燕から目線をはずして、成書杏は立ち上がった。
「わたくしも、少し出てきます」
口の止まらない成章桑に一言だけ言い置いて、個室を出る。するとすぐに、扉横で待機させていた離離が声をかけてきた。
「三娘子、もうお戻りですか」
成書杏は反射的に否と答えかけたが、即座に思い直して頷いた。
「紅杏と孫さんに挨拶をしてから出るから、あなたは先に行って舟の準備をしていて」
「かしこまりました」
離離は品よく礼をして、茶坊一階へと下りていく。歳下の侍女の姿が見えなくなるのを待ってから成書杏も階段を下りて、一階奥にある厨房へ足を向けた。