第三集 茶坊
皇宮が中心に聳える鵬臨国の京城・展封は、水運の都市である。
四つもの河が城壁を穿って城内を流れ、これを通って穀物、絹、茶、塩を始めとしたあらゆるものが大陸各地からこの地に集まる。河はさらに水路へと枝分かれして無数の区画を作っており、小回りのきく喫水の浅い小舟が馬と同等に人々の主要な足だ。
十七歳の成書杏は、侍女・離離の手を借りて屋根つきの平舟から桟橋へと降りた。
桟橋を渡った先の通りでは、文人たちが屋外に出した卓を囲み、長閑に茶を喫していた。卓の向こうでは『霜葉茶坊』の扁額が掲げた楼館が、格子扉を大きく開いて訪れる人々を出迎えている。
成書杏は薄絹の褙子の裾と、両面刺繍の団扇をひらめかせ、迷いない足どりで茶坊の扉をくぐった。
茶坊の中も、多くの文人墨客や令嬢たちが集っていた。額を寄せて琴棋書画を論ずる声や、噂話に花咲かせる声が卓ごとに聞こえてくる。その賑わいの中であっても、茶坊を切り盛りする女将は成書杏の訪れにすぐさま気づいた。
「三娘子、ようこそお越しを」
卓の間を縫ってきた孫女将は、重ねた年齢は窺えても衰えを感じさせない立ち姿で客を出迎え、すんなりとした動作で入口左手の階段を示した。
「四娘子は奥にいますから、すぐに声をかけてきますね。どうぞ先に二階でお待ちください」
「そうするわ。ありがとう」
最低限のやりとりだけで、成書杏は階段へと足を向けた。
霜葉茶坊の二階は、より上等客に向けたいくつかの個室になっている。階段を上りきると一階の喧噪はやや遠のき、代わりに楽戸の奏でる琵琶の音が耳を涼ませる。
今日の楽戸はとりわけ調子がいいようだ、などと思いながら、成書杏は吹き抜けの回廊から角の個室へと入った。
河に面して大きく窓がとられた個室は、たいそう明るかった。中央に七人がけの円卓があるほか、窓横の隅にこまごまとした道具の並んだ机と、小振りの炉が据えられている。ここで茶を点てられるようになっているのだ。
室内にまだ誰もいないのを確認した成書杏は、離離を扉の外に待機させて窓辺へと歩み寄った。
団扇で軽くあおげば河面を渡った春の風が顔に触れて、たいへん心地がいい。窓の手摺りに軽くもたれ、小舟が水音をたてて行き交うのを眼下に眺めながら、目的の人物がくるのをのんびり待つことにした。
ほどなく、扉の開く音が静けさを割った。装飾を控えた上品な身なりの若い娘が、四角い茶器籠を抱えて慌ただしく入ってくる。
「三姉上、待たせてごめんなさい。すぐに用意するわね」
そう早口に言って、娘は茶道具の置かれた机へと一直線に向かう。三ヶ月違いの四妹の忙しいようすに、成書杏は苦笑して窓辺から離れた。
「焦らなくていいわよ、紅杏。わたくしも手伝うわ」
「三姉上はお客様なのだから座っていて。すぐにできるから」
茶器籠を置いた成紅杏は、よどみない動作で炉に炭火を熾し、水で満たされた銀瓶をのせる。
四妹の手際のよさに、成書杏は自分の出る幕はなさそうだと判断して円卓の椅子へと腰を下ろした。
姉妹といえども、腹違いの二人の顔はあまり似ていなかった。彫りのくっきりとした目鼻が妖艶さを醸す三娘子・成書杏に対し、四娘子・成紅杏は痩躯のわりに頬が丸く年齢より幼げな愛らしさがある。さらに下に嫡出の五娘子がいるが、こちらは本当にまだ幼く茶坊に通う年齢ではない。
成家の三姉妹は顔立ちも母親も違っているが、それぞれに美しさと聡明さを備えていて仲もよい、と近辺ではそれなりに評判だった。
「ちょうど雲州の貴重な団茶が手に入ったの。せっかくだから、他の皆がくる前に味わってみて」
茶器籠からとり出した円形の紙包みを軽く掲げて見せ、成紅杏が声を弾ませた。
雲州は皇室の献上茶を生産する御茶園があることで知られ、この地の銘茶は貿易においては軍馬と取引される一級品だ。薄紙に産地と銘の印が捺された団茶は確かに、とりわけ上等そうだった。
四妹の得意げな表情と仕草を、成書杏は頬杖をついてほほ笑ましく見やる。
「それは楽しみね」
「今季最高の品よ。期待して」
成紅杏は道具の支度を終えて机の椅子に腰を落ち着けると、これまでのお転婆な仕草とは裏腹な繊細な手つきで団茶の薄紙を剥がした。艶が出るほど密に押し固められた黒褐色の茶葉を、湯でほぐし、とろ火で炙り乾かす。それを槌で砕いてから、丁寧に粉へと碾いていく。
淡く立ち始めた茶香の芳しさは、成書杏をより寛いだ心地にさせた。成紅杏の熟練した所作も、見ていて楽しいものだった。
この霜葉茶坊は、秋氏から成紅杏へ引き継がれた、唯一にしてもっとも大きな財産だ。
秋氏が嫁荷として持参した財産のほとんどは、彼女が亡くなった時点で婚家と実家に奪われてしまった。しかし茶坊の証文だけは、誠実な孫女将とその夫に預けられていたために守り切ることができたのだ。
それがはたして、秋氏が娘の将来を見越してのことであったのか。今となっては、この筋書きを考えた者にしか分からない。
とはいえ、九歳で庇護者を失った成紅杏にとって、霜葉茶坊が大きな拠りどころとなったのは確かだ――でなければ、この小説の題名が『霜葉紅』にはならないのだから。
成書杏が物語にあらがうと決めた葬礼の日から、ちょうど八年が経つ。
『霜葉紅』は成紅杏が十七歳になったあとから始まる。まさしく今、すべてが動き始めている。
そのことを意識すると、軽やかに茶を点てる茶筅の音が、成書杏には自分の死期までの時を刻む音のようにも聞こえてきた。さざめき出す不安をなだめるように、手元の団扇で頬をあおぐ。
問題ない。『霜葉紅』の成書杏も、始めから表立って主人公と対立していたわけではない。現時点ではまだ物語に反することは起きておらず、今の成書杏の密やかな動きは、彼から見えてはいないはずだ。
成書杏がそうして感情を落ち着かせていると、茶托にのった黒の茶盞が目の前に置かれた。
「どうぞ」
成紅杏の声で我に返る。成書杏は、隣に立つ四妹を咄嗟に見上げて微笑した。
「ありがとう」
礼を言えば、成紅杏は嬉しげに笑い返して、茶道具を置いた机へと戻っていく。
気をとり直して、成書杏は団扇を置き、人肌に温かな茶盞を持ち上げた。
茶盞を覗き込むと、見事な華が茶の表面を覆っていた。
茶の華は、雲霧のごとく白く、豊かできめ細かく、長く消えないのがよいとされる。香りは澄み、口に含めば甘みと渋みの調和した風味が舌を包み込み、繻子のなめらかさで喉に落ちていく。ほっと息をつけば、茶香の余韻が鼻腔を抜けていく。
成紅杏の茶芸は、他の誰のものより美しい。物語の主役に相応しき、天賦の才だ。
四妹の才能を少々羨む気持ちも抱きつつ、成書杏は極上の茶の風味がもたらす寛ぎに浸った。
そのとき、再び個室の扉が開いた。
「申しわけない。遅くなった」
詫びの言葉と共に入ってきたのは、二兄の成章桑だ。その後ろから、浩国公世子・蕭雨も顔を覗かせた。
「林墨燕を叩き起こしていたら遅れてしまった」
「仕方ないだろう。夜勤のあとだ」
蕭雨の説明に対しやや被せ気味に、彼のさらに後ろから不満げな声が飛んでくる。蕭雨は片眉を上げて、顔だけを背後へ振り向ける。
「そうは言っても、朝から午前いっぱい寝ていただろう。これ以上は寝過ぎだ。かえって体を損ねる」
「分かっている。子供ではないんだ。言われずとも自分の体調くらいは自分で管理できる」
広袖を翻す蕭雨に少し遅れて、林墨燕がぶつぶつと言いながら姿を見せる。その表情は声音と同様に不機嫌そうだが、彼の場合はそれが平常だと言っていい。親しい者ほど、彼の仏頂面を気に留めない。
個室へと入ってきた林墨燕の視線が、一瞬だけ成書杏で止まり、逸らされる。
成書杏はあえて彼の顔から目を離さず、長年の知己の一人として明るく笑いかけた。
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