第三十四集 断章
この年の元宵節は雪が降った。
人々の願いを託された数多の天灯が星に代わって夜空に灯り、光の粒となった雪片が京城・展封に舞い落ちる。
新年最初の望の日を祝う元宵節は、鵬臨国でもっとも重要で盛大な祭日だ。京城に住む王侯や富豪が競うように贅と趣向を凝らし作らせた大灯籠があちこちに現れ、大街を明々と照らし出す。
成書杏も多くの民衆と同様に、元宵節の繁華街へと繰り出した。今宵は、二兄・成章桑とその妻が一緒だ。
集う人々の熱気はあれど、雪の展封は呼気が白く凍る寒さだった。
毛皮と手炉で防寒した一行は、大街の灯籠見物の前に、まずは河沿いの霜葉茶坊へと足を向ける。
灯籠で飾りつけられた茶坊の前では、成紅杏が孫女将と手分けして温かな飲料を振る舞っていた。
「紅杏」
成書杏が真っ先に声をかけると、成紅杏は持っている飲料を目の前の客に渡してから振り向いた。
「三姉上」
「紅杏ったら、どうしてそんなに薄着なのよ」
駆け寄った成書杏は四妹の簡素な身なりに気づいて、つい苦言を呈した。
成紅杏は給仕の装束の上に綿入れだけ羽織った自身の身なりを見下ろし、軽く首を傾げる。
「動いていれば、そんなに寒くないわ」
「嘘おっしゃい。こんなに頬を冷たくして」
手炉で温めた手を伸ばして成書杏が四妹の頬に触れると、あっという間に熱を吸いとられた。雪降る夜気にさらされ続けているせいか、顔色も心なしか白く見える。
「ずっと外に立っているのでしょう。ちゃんと温かくしないと。少しこれを持っていて」
手炉を成紅杏に持たせて両手を空け、成書杏は毛皮の襟巻きを素早くはずした。その襟巻きを四妹の首に巻いてやる。
成紅杏はされるがままになりつつも、遠慮がちな目で成書杏の手元を見やった。
「三姉上が寒いのではないの?」
「わたくしは外套の内側にも毛皮を縫いつけているし、手炉もあるから大丈夫よ」
成書杏は、寒気が入り込まぬようしっかりと襟巻きを留め終わると、成紅杏に預けてあった手炉を受けとった。
そこへ、遅れてのんびりと歩いていた二兄夫妻が追いついた。
「今日は生姜湯を配っているのか」
成章桑が茶坊の前に出された卓を眺めて言うと、成紅杏はすかさず竹杯に生姜湯を注いで差し出した。
「たくさん作ったから、みんなも飲んでいって。義姉上もどうぞ」
成章桑は二人分の生姜湯の竹杯を受けとって、一方を妻へと渡す。新婚の二兄らの睦まじいようすを見やってから、成書杏も自分の生姜湯を受けとった。
湯気の立つ生姜湯をひと口飲むと、すぐに体の中心から熱が広がった。ほのかな辛みと甘みが喉を潤し、清涼な香りを含んで鼻腔を抜けていく呼気さえも熱い。
寒空の下でありながら指先まで熱が巡っていくのを感じながら、成書杏は生姜湯をあっという間に飲み干した。
二兄たちも飲み終わるのを待ち、成書杏は空になった竹杯を三人分まとめて成紅杏に返却した。
「わたくしたちはそろそろ行くわね。忙しいのに邪魔をしたら悪いし。父上たちが先に千徳門の方へ行っているから、合流しないと」
竹杯を受けとって、成紅杏は笑顔で頷いた。
「ありがとう。襟巻きは明日返すわね」
「いつでもいいわ。風邪をひかないようにね。頑張って」
四妹に手を振り、成書杏はあまり邪魔にならぬよう足早にその場を離れた。
京城の中心を走る大街へ出ると、景色はいっそう明るく色彩を増した。獅子や白象の形をした大灯籠がいくつも並び、煌々と光を振りまいて躍動感ある姿を誇示している。お決まりの行事ではあっても、その迫力に圧倒されない年はない。
大きさばかりでなく精巧な職人技にも感嘆として大灯籠を眺め、また灯籠に書かれた謎面を楽しむ灯謎に頭をひねりながら、大街を進んでいくと、やがて高らかな鼓笛が聞こえてきた。
大街の突き当たり。皇城の正門たる千徳門の前に、この夜もっとも壮大な灯籠がある。今にも飛び立たんばかりの二羽の鳳凰が放つ輝きは、まさしく天子の威容を示すものだ。
その鳳凰を背景に舞台が組み上げられ、そこで朝廷お抱えの楽戸や芸人たちが優雅に入れ替わり立ち替わりして雑劇を上演していた。
成書杏は父たちと合流することも忘れ、雪舞う五彩の舞台で繰り広げられる演技に耳目を奪われた。
「二兄上、今の見――」
感動を共有しようと成書杏が振り返ったところ、そこに二兄たちの姿はなかった。
慌てて首を巡らせて周囲を見回すが、押し合いへし合いして絶えず行き交う人々の中に、知っている顔を見つけられない。二兄夫妻とは茶坊からここまでずっと一緒に歩いてきたはずなのだが、成書杏が雑劇に気をとられている間にはぐれてしまったらしい。
そういえば、以前にも似たことがあった。そのときには成章桑が末妹の成妙杏を追っていったことで、成書杏だけがはぐれ自力では二人を見つけられなかった。
またしても一人ではぐれてしまったものの、成書杏は思い悩むことなく、記憶にあるできごとを再現するように歩き始めた。
灯籠の下に夜店がひしめくように並ぶのは祭日には恒例の景色だが、元宵節の夜にはさらに、流しの大道芸人がとりわけ多く展封に集まる。
複数本の刀を自在に投げて操る曲芸をハラハラと眺め、真っ赤な火を噴く芸に驚かされる。飛び跳ねる獅子舞の向こうで子供たちを夢中にさせているのは、鮮やかな衣を着た傀儡の繰り広げる人形芝居だ。
表通りから裏通りにいたるまで賑わいの絶えない元宵節の京城を、成書杏は誰にも水を差されることなく楽しんだ。
天灯を売る屋台を見つけ、蓮の絵が描かれたものを迷わず一つ買った。天灯の屋台の横には机と墨筆が用意されていて、この場で願いが書けるようになっている。
平らに潰した天灯を机に置き、成書杏は意気揚々と筆を走らせる。
最後の一文字というところで、急に手元に影が落ちた。成書杏が顔を上げてみれば、机を挟んだ正面に、黒衣の上からさらに黒い外套を着込んだ林墨燕が立っていた。
林墨燕の眉間には、不満げな縦線ができていた。
「なぜ性懲りもなく一人で歩き回る」
「婚約者がちゃんと見ていてくれるから一人ではないわ」
「…………」
林墨燕は驚いたような呆れたような微妙な表情を浮かべたが、成書杏の言葉を否定はしなかった。こうして姿を現した時点で、自ら肯定しているようなものでもある。
成書杏は願いごとの最後の一文字を書き上げると、筆を正面に差し出した。
「墨燕も願いを書いて。ここが空いているから」
面食らった顔をする林墨燕に筆を押しつけ、彼が書きやすいように天灯の向きも変えてやる。しばらく躊躇うようすを彼は見せたが、成書杏が期待の眼差しで見詰めていると、諦めたように筆を下ろした。
意外にも、林墨燕の筆運びは流麗だった。かつては進士を志す者たちに交じって学んでいただけのことはある。
興味津々で成書杏は彼の手元を覗き込んでいたが、書き上がるなりちょっと顔をしかめた。
「真似したわね」
「なにか問題か?」
「作家のくせに」
「こういう文章は単純なほどいい」
「ふぅん……いいわ。飛ばしに行きましょう」
悪びれない林墨燕に肩をすくめて、成書杏は二人分の願いが書き込まれた天灯を持ち上げた。
天灯を飛ばせる開けた場所を求めて二人は大街を逸れ、護岸から河辺へとおりた。ここならば頭上になにもないので、飛ばした天灯が引っかかってしまうこともない。同じように考えてか、他にも天灯を持った幾人かの士民の姿が河辺や桟橋にあった。
「火折子を持っている?」
成書杏が訊けば、林墨燕の懐から即座に竹筒の火折子が出てきた。成書杏が支えている天灯に、慎重に火が移される。
天灯は、逆さまの袋状になるよう薄紙を貼り合わせて作られている。下を向いた口の部分に火を灯すことで、熱せられた空気の上昇する力によって飛び上がるのだ。
天灯の中の空気が十分に熱くなるのを待っているときだった。河辺から見える橋の上を疾走する人物が、成書杏の目に留まった。林墨燕もほぼ同時に気づいて、同じ方角に顔を向ける。
人混みを押し分けて走るその人物は、蕭雨だった――成紅杏のもとへ、行こうとしているのだ。
雪の寒空の下にもかかわらず、蕭雨は外套を着ていない。一見して防寒具らしきものをなにも身に着けておらず、先ほどの成紅杏よりもずっと薄着だ。防寒など気にする余裕もなく飛び出してきたのだと分かる。
成紅杏と蕭雨の恋は今、新たな局面を迎えている。
蕭雨の母である浩国公夫人が、成紅杏の身分が低いことを理由に二人の関係に強固な反対を示しているのだ。夫人は二人を別れさせるために脅しも厭わず、別の縁談を蕭雨にあてがおうとまでしている。
走り去った蕭雨の向かう先には、成紅杏だけでなく、二人の物語に用意された困難が待っているだろう。
世子の姿が見えなくなったので、成書杏は天灯へと目線を戻した。熱せられた天灯はすぐにでも飛びたがっているように、成書杏の手を強く引っ張っている。
共に天灯を支えている林墨燕の方へ顔を向けると、彼もこちらを見ていた。つかの間、灯籠が映り込んできらめく瞳を互いに見交わす。
二人は同時に、天灯から手を放した。
――『霜葉紅』を、林墨燕と一緒に最後まで見届けられますように 成書杏
――『霜葉紅』を、成書杏と一緒に最後まで見届けられますように 林墨燕
筆跡が違う以外は名前が入れ替わっているだけの二つの願いが、雪に負けることなく天高くのぼっていく。
その輝きが空に浮かぶ無数の光の一つになるのを、成書杏はじっと見送る。
そっと、隣から肩を抱き寄せられた。成書杏は天灯から目を逸らすことはせず、相手の胸に頭を寄り添わせた。
『霜葉紅』の主人公は成紅杏と、蕭雨だ。だから必ず、二人は今ある難局も切り抜けられる。
それを林墨燕と一緒に支え、見届けたい。その先に必ず、幸福な大団円が待っている。
もはやどれが自分たちのものか分からなくなった天灯の群れを成書杏が見上げ続けていると、無防備になっていた頤を不意にくすぐられた。反射的に高い声が飛び出る。
急な悪戯に文句を言うべく成書杏が振り向くと、待ち受けていた林墨燕の唇で唇を塞がれた。
「やめてったら。人のいるところで」
林墨燕の顎を押さえながら、成書杏は顔を赤くして苦情を申し立てた。しかしなぜか、林墨燕の目は笑みの形に細まる。懲りることなく、彼は額とこめかみにも唇を降らせた。
「考えていたのだが――」
耳元でそう呟いてから、林墨燕は空へと目をやった。成書杏も釣られるように、頭上へ視線を戻す。雪雲に覆われて星は見えない。だからこそ、高くのぼっていく灯光の流れが際立って見えて、自分が夜空に吸い込まれるような錯覚に陥る。
前置きから長い間を置いて、林墨燕はやっと続きを口にした。
「婚礼を、来月にするのはどうだろうか――杏の花が咲く頃に」
成書杏はゆっくりと息を吸い込んだ。同じ速度で息を吐く間に、林墨燕の提案に思いを巡らす。
霜葉の季節に彼からの申し出を受けたものの、具体的な輿入れの時期はまだ決めていなかった。家中で、嫡男である成章桑の婚礼の段取りと準備が優先されたからだ。それもほんの数日前に、ようやく落ち着いた。
杏の花が咲く頃、と林墨燕は言った。その頃には、成紅杏と蕭雨に降りかかっている試練も、乗り越える道が開けているはずだ。
『霜葉紅』の作者が考えて提案してきているのだから、間違いあるまい。
「とびきり鮮やかな衣裳を、急いで準備しなくてはね」
成書杏がそう答えると、外套で包み込むように抱きすくめられて再び口づけられた。慌てて顎を引いて、子供を叱るように軽く林墨燕の額を叩く。
「だから、気が早いったら」
「そんなことはない。自制はしている」
絶対に嘘だと成書杏は思ったが、またすぐに口を塞がれてしまったので反論は声にはならなかった。
彼が心を注ぐ物語にすっかり取り込まれた以上は、もう逃れる術はなさそうだ。そうなることを、彼女自身も望んでしまっている。
諦めの心地と、惜しみない愛情表現へのときめきとで、胸の中心からじわりと広がる温かさが灯る。その熱を分け合うように、成書杏は林墨燕と寄り添った。
冷たい雪が優しい甘雨に変わり、紅杏の花が枝先で春を告げる――その日の訪れが、ただただ待ち遠しい。
そんな季節に真紅の婚礼衣装を着られるのならば、これほど『霜葉紅』の読者冥利に尽きることはないのだから。
物語改変は許しません ―転生悪女は花より紅なり― 完
最後までお読みいただきありがとうございました!
ページ下部のフォームより、ブックマーク、☆評価、感想などいただけましたら幸いです♪