第三十二集 紅於 一
後日、成書杏は改めて大理寺へ出頭した。
茶賊と通じた罪については赦免されたが、登聞鼓を叩いた越訴の罪と、妹を陥れたのは自分であると偽証した罪の審理はおこなわねばならない。
驚いたことに、審理の証人としていつもの知己の面々に加え、成紅杏と孫女将が普段の成姉妹のようすを知る霜葉茶坊の常連客たちを大勢引き連れてきた。
最低でも杖刑は免れまいと、成書杏は覚悟していた。ところが、集まった証人たちが口を揃えて成姉妹の仲のよさ、互いを思いやる情の深さを訴え、成書杏の行動はそれゆえであると情状酌量を強く求めた。
加えて越訴と偽証によって不利益を被ったのが成書杏のみであることも考慮され、最終的にはいくらかの罰金が科されたのみで放免となった。
多数の官吏が処罰されることとなった一連の茶密売に関わる案件は、まだ一部の審理が残ってはいるものの、表向きにはおおむね決着がついたことになる。
成書杏が放免となった翌日、成兄妹と蕭雨、林墨燕ら馴染みの一同が久方ぶりに、一人も欠けることなく霜葉茶坊に顔を揃えた。成姉妹の無事と、霜葉茶坊の営業再開を祝すために。
成紅杏以外の四人で囲む卓上には、霜葉茶坊が誇る色鮮やかな菓子と、華の豊かな茶が並ぶ。
相変わらず成章桑が一番に甘い菓子をぱくつき、そんな二兄の姿をくさす成書杏の横で、林墨燕が黙々と口を動かす。
生き生きと立ち働く成紅杏には蕭雨が声をかけているが、営業再開の初日とあって茶坊は満席で待ち列もできており、いつにも増して忙しい様相でとても座る余裕などなさそうだ。
優雅と言うには少しばかり騒々しい中でなお味の変わらぬ茶と菓子に舌鼓を打っていると、途中で林墨燕が黙然としたまま席を立った。彼が個室を出ていくのを見た成書杏も、遅れて立ち上がる。
果物の蜜煮を咀嚼していた成章桑が、怪訝そうに目線を上げた。
「書杏、どこへ――」
問いかけた成章桑の袖を、蕭雨が隣から引っ張った。世子が目配せしたことで、成章桑も意図を察して口を閉じる。
成書杏は二人のやりとりに気づきつつも、そちらには意識を向けず、褙子の裾を翻して個室を出た。
すぐに林墨燕を探して回廊を見渡すと、階段をくだる丈高い姿を見つけた。茶坊一階へと降りた彼は、風雅を競う文人たちが集う卓の間を縫って、厨房に繋がる奥の外廊へと姿を消す。
成書杏も、急いであとを追いかけて外廊へと出た。
外廊に面した裏庭は、燃え立つような楓の紅に覆われていた。霜葉茶坊の屋号の由来であるその深紅の景色の中央に、林墨燕の姿はあった。
今の林墨燕は皇城司の黒衣でなく灰色の私服だが、動きやすさの重視された窄袖の衣はやはり彩りも飾り気もない。けれどそれがかえって霜葉の紅を背景に色の対比を生み、均整のとれた佇まいを際立たせるのに一役買っている。
給仕が往来する外廊から裏庭に降りてみて、成書杏はなぜ林墨燕がここへ来たかを理解した。
秋の裏庭には、喧噪の火照りを冷ます静寂が満ちていた。少し建物から離れるだけで、茶坊の客たちの声や給仕の足音が急速に遠くなり、葉擦れの音に紛れていく。
そうした穏やかなざわめきは、普段の霜葉茶坊に流れているものに近く思われ、鼓膜と気持ちを安らげる。林墨燕は気疲れする騒々しさを厭い、一時でも静けさを求めてこの裏庭にきたに違いなかった。
「林墨燕」
成書杏が林墨燕の横顔に呼びかけると、彼は瞳だけをこちらに向けた。声をかける前から、成書杏が追ってきていたことに気づいていたようだ。
林墨燕の眼差しには冷たい鋭さがあったが、それが彼の素の表情であると知っている成書杏は、構わず隣に立った。
「騒がしいのは落ち着かない？」
下から覗き込むように成書杏が問うと、林墨燕はかすかに片眉を上げた。
「なんの用だ」
「どうしても、聞いておきたいことがあって」
最初の問いを林墨燕に無視されたものの、特に意味のあったものではないので、成書杏も気にせずにすぐさま本題へ移った。
「今回の茶密売の件、本当にこれで解決なの？」
林墨燕がやっと、顔ごと成書杏の方を向いた。
「納得いかないか？」
「だって、成章蒿を殺そうとしたのが誰なのか、分からなかったもの。その人のせいで、わたくしも処刑されかけたのでしょう？ 霜葉紅でもそのあたりが書かれていた記憶もなくて。あなたなら、知っているのではないの？」
期待を込めた眼差しで成書杏が見上げると、林墨燕は視線を避けるように顔を正面へ戻した。
「ネタバレはしかねる」
「読者は大人しく待っていろということ？」
問いを重ねて、成書杏は食い下がる。林墨燕はなにか考えるような刹那の間をおいてから、ため息交じりで答えた。
「そう思ってくれていい。いずれ分かることではあるが、機密にも関わるので今はおいそれとは口にできない。皇城司であっても手出ししがたい、あまりに厄介な相手だ」
「わたくしは死ななかったたけれど、霜葉紅の物語はまだ繋がっているのね」
染み入るような感慨を覚えて、成書杏は林墨燕が見ているのと同じ方向へ顔を向けた。
目の前では楓の梢が、裏庭を抜けるわずかな秋風で揺れていた。赤くかじかむ手に似た葉が上下に揺れるさまは、まるで誰かを忙しく手招きしているようでもある。
不意に、林墨燕が呟いた。
「確かに物語は問題なく繋がっているように見えるが、成書杏が生き延びたことでこの先どんな影響が出るか、正直わたしにも読めていない」
成書杏は再び林墨燕の顔を見上げた。彼は楓の梢から目を逸らさぬまま、独り言のような声音で続ける。
「そもそもかなり以前から、とっくに物語はわずかずつ軌道を変えていた。鴇遠リンの作品として読者の手に渡っている本そのものに、なんらかの影響が出ていてもおかしくはない。この世界がまだ存在している以上は、出版がなかったことにはなっていないだろうが……部数が減るか、映像化の話がなくなるくらいは起きているかもしれないな」
林墨燕の言及によって、成書杏は初めて、物語の外側のできごとに思い馳せることになった。そして自身のおこないが、世に出回った『霜葉紅』という作品そのものに影響を与えている可能性に、過去に一度も思い至らなかったことに驚く。
物語の外側から見た作品のありさまを、それを読む者の目を、林墨燕がずっと意識し続けていたのだとしたら――運命に抵抗する成書杏の姿は、さぞ不条理で無責任に映ったことだろう。
気づいてしまうと、途端に罪悪感が胸を侵食し始める。
成書杏が決まり悪い思いをしている前で、林墨燕は梢を見詰める目を細くした。
「もっとも、どれも物語の内側にいては分からないことだから、ここで気にするだけ無駄だ」
言い切ると同時に林墨燕が振り向いた。不意打ちのように間近で視線がかち合い、成書杏の心臓が小さく跳ねる。一方で、林墨燕の眼差しには、静謐さが湛えられていた。
けれどその揺らがない瞳の奥に透ける感情が、成書杏には窺い見える気がした。
「無駄だって言いながら、気にしている言い方よね。それなのにどうして、わたくしを助けたの？」
成書杏の指摘が意外だったのか、静謐だった林墨燕の瞳の表面に驚きの色がうっすらと浮いた。
「成紅杏たちが必死になっている横で、わたしだけなにもしないではおかしいだろう」
「でも、あなたの霜葉紅ではわたくしは死ぬべきだったのでしょう？ 成章蒿を逃がすか見殺しにするだけで、おそらくそうなったわ。でも、あなたはその選択をしなかった。なぜ気が変わったの？」
「…………」
ふつりと、林墨燕は口をつぐんだ。瞳の中にあった驚きの色にわずかな狼狽の揺らぎが生じる。成書杏としては当然の疑問だったが、彼は答えを用意していなかったらしい。
なにか迷っていると分かる長い沈黙を経て、林墨燕は深い吐息に紛れさせるような囁き声で言った。
「……手紙を、書いただろう」
成書杏は目をぱちくりして、気まずそうな表情の林墨燕を見詰めた。
「手紙？ あなたが、わたくしに？」
「違う。君が、わたしに」
「いつの話をしているの？ わたくしがあなたに手紙を書いた記憶はないのだけれど」
心当たりを探して、成書杏は何度も首をひねった。林墨燕と手紙をやりとりするようなできごとなど、まるで覚えがない。
成書杏がいつまでも考え込んでいると、やがて林墨燕が焦れて言い足した。
「林墨燕でなく、鴇遠リン宛てだ。桃蕊明日実から、鴇遠リンへ」
なぜ分からない、とでも言いたげな苛立ちが林墨燕の声に滲む。
つかの間、成書杏の思考に空白が生じた。仕舞い込まれていた記憶が飛び出して脳内を巡り始めると、みるみる顔に熱が集まった。
「あ、あれを、読んだの！」
成書杏の叫びに、林墨燕は不可解そうに眉をひそめた。
「わたし宛てなら、当然読むだろう」
「そ、それはそうだけど……全部、読んだの？」
しどろもどろになって、成書杏は相手の顔を上目に窺い見た。林墨燕は眉間の溝を深くして、ますます理解に苦しむ顔をした。
「君が書いたもの全部を読めているかは分からないが、遡って数えればおそらく数十通は――」
「数十通！」
叫びは悲鳴じみた甲高さになった。成書杏は羞恥で熱くなった両頬を押さえて、今にもひっくり返りそうだった。
「わたくし、そんなに出していたの？」
こちらを見る林墨燕の表情が、訝しげなものから呆れを含んだものに変化した。
「……覚えていないのか？」
「いつも思い立った勢いで書いていたから、数なんて数えてない」
かつての自分のおこないを、成書杏は確かめずにいられなくなった。
「わたくし、なんて書いていた？ おかしなこと、書いてなかったわよね？ 作者に覚えられてたなんて、そんなつもりではなくて……わたくし、そんなに？」
恐る恐る、成書杏は問いかけた。
好きが高じてのこととはいえ、いち読者としてあまりに度が過ぎたことをしでかしていやしないかと不安が膨らむ――成書杏として事態を掻き回したあとでは、今さらにもほどがあるが。
林墨燕が口を押さえて顔を背けた。気を悪くさせたかと成書杏が懸念すると、顔を戻した彼は唇の端を痙攣したよう波打たせていた。
「おかしな内容かどうかはわたしには判断がつかないが、一番の推しは林墨燕だとは書いて――」
「やめて！ 言わないで！」
今度は成書杏が慌てて伸ばした両手で、林墨燕の口を押さえた。
「違う、違うの！ いえ、違ってないけれど、それはあなたではなくて――」
言いわけじみた言葉を並べながら、成書杏の顔は火を噴かないのが不思議なほど真っ赤になった。
口を塞がれた林墨燕はしばらく驚いた目をしていたが、成書杏が言葉に詰まるや、眼差しを細くする。
彼は重ねて押しつけられた成書杏の指先をつかみ、そっと引き剥がして唇との間に隙間を作った。
「分かっている。君の言いたいことが理解できないほど、わたしは馬鹿ではない。わたしはただ、そうした君の手紙に救われたと言いたかっただけだ」
ゆっくりと話す林墨燕の吐息が、成書杏の指先を撫でた。驚いて成書杏が自身の胸元まで両手を引っ込めると、今度はやたらに早鐘を打つ心拍が手の平に触れた。
覆いのなくなった林墨燕の唇にあるのは、これまで彼が見せたことのない種類の笑顔だった。
「わたしは君に、心を救われた。だから、今度はわたしが救いたいと思った。それに――君とこうして話すのは、案外と心地がいい」
そう言った林墨燕の声にも、普段の冷淡さとは違う温かな熱がこもって聞こえた。
先ほどまでとはまた違った頬の火照りを、成書杏は意識する。いつもと雰囲気が違って見える林墨燕に対しどう反応を返したものか分からなくなり、結局は眉間に力を入れて睨みつけるくらいしかできなかった。
「ずっとわたくしを殺そうとしていたくせに、よくそんな台詞が吐けたものね」
成書杏がつい憎まれ口を叩くと、笑みの形をしていた林墨燕の口角が少しだけ下がった。
「君がわたしを嫌うのを否定はしない。そういう扱いをしてきたのはわたしだ。君がもう関わりたくないと考えるのなら、大人しく距離をとる」
抑えた声音で言って、林墨燕は始めのように顔を背けた。
目を逸らされた瞬間、成書杏はわずかな安堵と物寂しさで感情が不安定に波立った。すぐに物寂しさが勝って、安堵がかすかな苛立ちに置き換わる。
なぜ彼は、そんなに簡単に自ら身を引くようなことを言えるのか。
もう一度こちらへ気を引くために、成書杏は林墨燕の袖をつかんだ。彼の正面へと立ち位置を変えて、切れ長い目を下から覗き込む。
「わたくしの考えを、勝手に決めつけないで」
