第三十一集 本心
成書杏の赦免を勝ちとるにあたり重要な足がかりとなったのは、やはり、成家の長子・成章蒿の捕縛と、侍女・離離の証言だった。
暗殺されるすんでのところを皇城司に救われ、身柄を確保された成章蒿は、すっかり怖じ気づいて意外なほど簡単に洗いざらい供述した。
離離の証言は、成章桑が抜かりなく日付と共に供述者の署名と拇印と添えて詳細に記録を残していた。悲運にも離離は故人となったが、だからこそ、離離本人が内容を認める拇印を捺した供述書はあとから偽造のしようがなく、重要な証拠となった。
成章蒿の供述は、離離の供述書の内容と矛盾せず、成書杏を巻き込まないという約束が確かにとり交わされていたことも認められた。
そうした証人や証拠にさらなる説得力を持たせたのは、登聞鼓を叩いた成書杏自身の行動だった。
他人を陥れようという人物が、越訴の罪にも怯まず妹の無実を訴え、あまつさえ自らの罪を暴露することがあろうかと――誰かを庇っているとみるのが自然だ。
だが、こうして証拠が整ったのは、極刑の詔勅が下ったあとだ。
聖詔は、聖詔でしか覆せない。時間との勝負の中で、世子らが苦労を重ねて皇帝への直訴に漕ぎ着け、成書杏の赦免の詔書を賜るのに成功したのがまさに、処刑が執行される当日だった。
九死に一生を得た成書杏が帰宅すると、成紅杏が真っ先に沐浴の用意をしてくれた。香りよい花弁を浮かべた熱い湯に身を沈めるだけで、牢獄で纏いついた疲労と臭気が剥がれ落ちて溶けいくようだった。
風呂桶に浸かる成書杏の髪に、後ろからそっと湯をかけられた。皮脂でべたついていた髪を綺麗に洗い流し終えると、やっと人心地ついた気持ちになれる。
続いて項から肩にかけて丹念にこすられる心地よさと微睡みにひたっていると、背後から洟をすする音が聞こえて、成書杏は軽く噴き出した。
「また泣いているの?」
「だって……」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、成紅杏は風呂桶の外から腕を伸ばして湯をかける。後ろから肩に触れた四妹の右手の甲に、成書杏は左手を重ねてさすった。
「わたくしも紅杏も、こうして無事に帰ってこられたのだから、もう泣かないで」
成書杏の慰める手を、成紅杏は両手で挟んで強く握る。
「でも……だって……わたし、なにもできなかった」
声を震わせる成紅杏の額が、成書杏の後頭部にこつりと当たる。
「林墨燕が大兄上を見つけてくれて、阿雨が縁戚に頼み込んで皇帝陛下へ直訴できるように渡りをつけてくれて、二兄上も婚約者を通じて中書侍郎に根回しをしてくれたのに……わたしだけ、なにもできなかった」
すっかり落ち込んでいる成紅杏の声色に、成書杏は息を吐いて苦笑する。風呂桶の中で体を反転させ、涙で濡れた四妹の頬を、湯で濡れた両手で挟んだ。
「そんなの、当たり前でしょう」
泣き顔のまま、成紅杏が目を丸くした。成書杏は不敵に笑って続ける。
「林墨燕は皇城司よ。捜査能力は一番でなくてはならないし、大兄上を捕らえるのも職務の内。雨世子のいる浩国公府は皇室の外戚だから、皇帝と繋がる一番の早道を持っているわ。二兄上はここでうまくやれないようでは、中書侍郎に見込み違いと思われてご令嬢との縁談は今頃なくなっていたかも。必死になって当然よ」
じっと聞き入る成紅杏の目元を拭ってやりつつ、成書杏は瞳を間近に覗き込んだ。
「なにより紅杏の頼みだから、世子も二兄上も、林墨燕も動いてくれた。わたくしたち、昔から一緒にいたから分からないかもしれないけれど、それってとても大変なことよ」
成書杏は、成紅杏の頬を拭い終わると、さらに両腕を投げ出すように伸ばした。裸身も気にせず身を乗り出し、成紅杏の肩を抱き締める。
「こんなにすごい三人の力を借りられたのは、紅杏のお陰よ。ありがとう」
感謝を告げてから、救われた側が救った側を慰めていることに成書杏は思い至ったが、少しも嫌な気持ちはなかった。
これから成紅杏は今回のように周囲に支えられながら、どんどん自ら思考して動く力をつけ、強さを手にしていく。『霜葉紅』を読んでこの先の困難を知っているからこそ、成紅杏を支える人物の中に加われることに喜びを覚える。
成紅杏も成書杏の背中に手を回した。濡れるのも構わず力を込め、肩口に顎をうめる。
「みんな、三姉上のために必死だったのよ。わたしの力じゃないわ。お願いだからもう二度と、誰かのために自分を犠牲になんてしないで」
鷹揚に、成書杏は頷いた。
「ええ。今回みたいなことは、もう二度とないわ」
足掻き続けた末に力及ばす諦めたつもりだった命が、こうして繋がったのだ。ならばこれまで以上に命を惜しんで惜しんで、誰よりも長生きしてやろうと、成書杏は心に誓う。
成紅杏の腕が緩んだので、成書杏も抱擁を解いた。
もう一度肩まで湯に浸かった成書杏の顔を、成紅杏が風呂桶の縁越しに見詰めてくる。四妹はもう泣いてはいなかったが、なにか覚悟を決めたように唇が強張っていた。
「三姉上。一つだけ、訊きたいことがあるの」
「ん?」
軽く首を傾けて、成書杏は二の句をうながす。
「その……牢で言ったことは本当? わたしのこと……嫌いだって」
成紅杏がつっかえながら言った内容に、成書杏はちょっと目を瞠った。けれど驚いて口を開いた成書杏が声を発する前に、成紅杏が畳みかける。
「もし本当に、わたしのことが嫌いだって言うのなら、それでもいいの。きっと、わたしが三姉上の優しさに甘え過ぎた結果だから。わたしはずっと茶坊のことばかりで、家のことをあまりよく分かっていなくて。それで三姉上に負担がかかっているのなら、父上や嫡母上にも相談して、わたしがもっと家の色々なことを引き受けるように――」
「紅杏」
成書杏は強めに名を呼んで、成紅杏が言い募るのをやめさせた。素直に口を閉ざした四妹の表情が悲しげで、成書杏は呆れ気味に軽いため息をつく。
「牢で言ったことが本当かどうか、そちらから訊いておいて、わたくしが答える前に結論を出さないで貰えるかしら」
「……ごめんなさい」
萎れてうつむく成紅杏に、成書杏は苦笑する。
どのように答えたものかと考えながら、成書杏は湯の中で向きを変えて風呂桶の縁に背中をもたせかけた。
「少しだけ本当よ」
背後で息をのむのが聞こえた。成書杏はさらに深く湯に沈み、天井を仰ぐ。
「そういう風に考えたことが、ないとは言わないわ。色々なことに追い込まれて、周りを責めて、自暴自棄にもなってた。でも感情ある人間なら、そういう気持ちになってしまうことくらいあるわ。だから、ただ一つ揺るがないことだけ分かっていて欲しいの。わたくしは――紅杏のいる霜葉茶坊が好きなのよ」
また成紅杏が息をのんだのが聞こえた。顔は見えなくても、どんな表情をしているかありありと分かる気がして、成書杏は微笑する。
「だから、家のことは気にしなくていいのよ。二兄上や妙杏もいるし。父上や嫡母上には、絶対に茶坊のことに手も口も出させない。あとは紅杏が茶坊をしっかりと守って、わたくしに美味しいお茶を点ててくれたら、幸せでいられるわ」
霜葉茶坊に成紅杏がいて、その隣に蕭雨さえいれば、『霜葉紅』が終わることはない。紡がれていく物語を見届けることが、成書杏――それから桃蕊明日実――の、一番の願いだ。
この願いを叶えるためには、やはり長生きが絶対的に必要そうだと、成書杏は改めて思いを強めた。
不意に、仰向く成書杏の視界がやや陰った。風呂桶の縁に手をついた成紅杏が湯の上へ身を乗り出し、真上から覗き込んできたのだ。
「わたし、ずっと心配だったの。白氏は荘園に送られてしまったし、大兄上は少なくとも流刑を避けられないと聞いて、じゃあこれから成家での三姉上の居場所はどこなんだろうって。わたしには霜葉茶坊があったから、母さんがいなくなったあともなんとかなったけれど、三姉上にはそういうものがなかったから……」
成書杏を頭上から覗き込む成紅杏の目が、笑みの弧を描く。
「でも、今の話でよく分かった。霜葉茶坊が三姉上の居場所になるのなら、わたしがこれまで以上に全力で守っていくことにする。わたしの母さんも生きていれば、同じようにしたはず。三姉上自身のことは林墨燕が、茶坊はわたしが守るから、きっとこれからは、なにも心配いらないわ」
明るく言う成紅杏に同意しかけて、成書杏は途中の一言に意表を突かれた。聞き間違えたかと疑い、風呂桶の中で湯を跳ね上げて体を起こす。
「林墨燕が、なんですって?」