第二十九集 刑場
小窓から牢獄に差し込んだ秋の朝焼けは、淡い紅色をしていた。冷たく素っ気ない石壁が、この時間だけは明るく染め上げられる。その鮮やかな紅の色彩を、成書杏は蓆に座り込んでぼんやりと眺めた。
なんて、牢獄に不似合いな色だろう。
もっと深紅に近ければ、霜で鬱血するように濃さを増して散りゆく晩秋の霜葉の色と思えるし、時節にも合う。
今、牢獄に差している色は、厳冬を乗り越えた春の花に似た淡紅だ。乗り越えられる見込みのない厳しい現実に向き合わねばならない状況において、成書杏はその色に精神を削がれるのを感じた。
連想で、成姉妹の名に共通する杏も春を告げる花だと思い至る。枝先に儚く咲く花を見ることは、もう二度とない。
日が高くなり、朝焼けの色が褪せたころ、朝食が運ばれてきた。低い卓に置かれた料理に、成書杏は目を瞠る。
投獄されて何日が過ぎたか。これまでに出された食事といえば、薄い粥や冷めた饅頭といった素食ばかりだった。
ところが今、目の前に出されたのは、焼きたての湯気を立てる円形の焼餅だ。香ばしく焼かれた小麦と脂の匂いが胃を活発に刺激する。恐る恐るつかんで狐色の焦げ目を割れば、羊肉を炒めた餡がたっぷりとこぼれた。
昨日までの食事を思えば、肉料理というだけで明らかに豪華だと言っていい。そのことに、成書杏は嬉しさよりも不安と慄きを覚える。
きっとこれが、最後の食事だ。
指先が震えるのをこらえながら、成書杏は焼餅にかぶりついた。冷え切った胃の腑へ、数日ぶりに温かな食事が落ちる。正直あまり食欲はなかったが、これから起きるすべてを飲み込む覚悟として、脂ぎった焼餅を必死に噛んで喉へ押し込んだ。
口を動かす間、涙が止まらず、食事の味はまるで分からなかった。
次に獄吏が成書杏のところへやってきたのは、太陽が頂点に近い時刻だった。昨日までであれば昼食が運ばれてくる頃合いだが、今日の獄吏が持ってきたのは頑丈そうな縄だった。
「立て」
居丈高に命じられるまま成書杏が蓆から立ち上がれば、厳重に縄をかけて牢獄から連れ出された。
外は抜けるような青空だった。薄暗い牢獄に慣れた目が秋晴れの陽光で眩み、成書杏は目を細くする。屋外の明るさに感慨を覚える間もないまま肩を押され、頑丈な檻の護送馬車へ詰め込まれた。
軋みをあげて出発した馬車は側門から皇城を出て、人通りの絶えぬ大街を進んでいく。
馬車の歩みは荒っぽく、揺れがひどかった。往来する人々の好奇の目は気になるが、成書杏はとにかく無様にひっくり返らないよう檻の格子で体を支えるしかできなかった。
これからどこへ連れて行かれるのかは見当がついているので、抵抗する気はない。それにしても、護送馬車の乗り心地には閉口するばかりだ。
京城内をひと回りした護送馬車は、思った通り、成書杏を大理寺へと運んだ。
大理寺の門前広場は柵で囲われ、その外側に黒山の人だかりができていた。罪人の科刑を見物しに集まっているのだ。とりわけ重罪人への刑は衆人にさらされ、人々を戒める見せしめとなり、また娯楽となる。
興奮気味に噂話に花を咲かせる民衆を押し分け、成書杏を乗せた護送馬車は柵の前で止まった。檻から出され、人垣を掻き分けて柵の中へと引っ立てられる。
広場の奥にはすでに、大理寺の門を背にして何人もの罪人が石畳の上に居並んでいた。罪状の書かれた大きな木札が縛縄と背中の間に差し込まれていて、全員が茶密売と税の横領に関わった者だと分かる。その末席に成書杏は座らされた。
左右に長い脚のついた幞頭と紫の袍を身に着けた大理官が、刑場を見渡せる位置に用意された机の前に立った。金の軸に巻かれた詔書を開き、士民の前で聖詔を朗と読み上げる。
「これなる罪臣たちは茶賊と結託して密貿易をおこない、税を横領し不当に私腹を肥やした。民の労と財を奪うに等しいその罪は重く、許されざるなり。よって法に照らし、極刑に処して戒めとする」
大理官が椅子に座ると、罪人の一人が刑場へと引き出された。群集の喧噪がいよいよ興奮の色を帯びてくる。丸太のごとき腕をした死刑執行人が、大刀を担いで罪人の横に立った。大刀の峰には鉄の輪がいくつも連ねられ、重量が足されている。
どうやら順番に斬首されるようだ、と。妙に冷静に、成書杏は思った。
本来の『霜葉紅』の成書杏は、数十回もの杖刑に耐えられず命を落とした。けれど一太刀で首を斬られるのならば、皮膚が裂けてもさらに打ち据えられるような激痛を耐えずに済みそうだ。名もなき官僚の庶子が高官と同列で処刑されるならば、考え方次第では大した出世だ。
この世界が、成書杏へ最後にかけてくれた情けやもしれない。
正午の太鼓が鳴った。大理官が机上に置かれた木板の令牌を投げる。令牌が石畳に落ちる音に呼応するように、死刑執行人が大刀を振り上げた。
反射的に、成書杏は目をつむった。重いものが落ちる音と、悲鳴が聞こえた。ぷん、と血腥さが漂ってきて、うなじの産毛が逆立つ。
一瞬前まで、死の覚悟さえできてしまえば意外と平気なものだと思っていた。それは間違っていた。
やはり死は怖い。ずっと逃げ続けてきた死の運命が、ついに成書杏を捕まえた。心の臓まで凍えるように竦み、目蓋を開けて死を直視することもできない。
血に興奮する民衆の声と、斟酌を請うて泣きわめく罪臣たちの声が、一緒くたに鼓膜から流れ込んできて頭に響き目が回った。合間に、首の落ちる音が繰り返し聞こえる。
目は閉じていられても、縛られていては耳はふさぐことができない。わめき声がぷつりと途切れる瞬間が一番、成書杏を震えさせる。
突然、両側から腕をつかまれた。成書杏はびっくりして、ついに目を開けた。途端に石畳の上の血だまりが視野に飛び込んできて、喉が引きつった音をたてる。
刑吏によって刑場の中央まで引きずり出された。跪いた膝先に、先に斬首された者の血が染みる。罪状の板が背から引き抜かれ、前屈みの体勢に押さえつけられる。血だまりに映った自分の顔と目が合った。
大刀の鉄輪がじゃらりと鳴るのが聞こえて、成書杏は目蓋と顎をきつく閉じた。
「待て!」
誰かの叫ぶ声と同時に鋭い金属音が鳴り響いた。直後、引っ張り上げられるように成書杏の体が浮き上がる。
胴を力強い腕で支えられるのを感じ、恐る恐る薄目を開く。間近に林墨燕の冷たい横顔が見え、成書杏はぽかんとした。
恐怖で強張った成書杏の体を、林墨燕は左腕だけで抱えるように支えていた。もう一方の腕は鞘のまま掲げた剣で、首斬りの大刀を受け止めている。林墨燕よりも二回りは腕の太い死刑執行人は、唖然とした表情で動きを止めていた。
交差する刀剣を睨んでいた林墨燕の瞳が、横目に成書杏の方へ向けられた。
「なんとか間に合ったな」
驚愕のあまり成書杏は声を出すのに苦労して、口を開け閉めした。
「林墨燕、なんで――」
「何者だ! 誰が通した!」
大理官がわめく。振り向こうとした成書杏の視野の端を、青の袍を着た官人が走り抜けた。それは、公服姿の蕭雨だった。
蕭雨は瞠目する成書杏の横を通り過ぎ、大理官の正面に立った。手には、金軸の詔書を捧げ持っている。
走ったせいであがった息と、傾いた幞頭を軽く整えてから、世子は大理官に向かい詔書を両手で掲げた。
「浩国公世子、蕭雨が天子のお言葉を伝えに参った。聖詔を受けられよ」





