第二十八集 岐路
林墨燕が外に出ると、蕭雨と共に先に出ていた成紅杏が、待ち構えていたように駆け寄ってきた。
「林墨燕。三姉上は、なにか言っていましたか」
問われたことが意外で、林墨燕は少しだけ眉を上げて成紅杏を見返した。
「書杏とは十分に話せたと思っていたが、まだ聞きたいことがあっただろうか」
「三姉上が、あなたにしか話さないことがあるはずです。そうでしょう?」
林墨燕は今度こそ息をのんだ。成紅杏の表情は真剣で、声も確信に満ちている。思いつきで言っているようには見えない。
傍目から分かるほど振る舞いに違いがあったろうかと、林墨燕は過去の自身を顧みる。
「――霜葉紅を知っているか?」
思わず、林墨燕は訊いていた。成紅杏の中にも、別の人格がいるのではと疑ったのだ。
成紅杏は怪訝そうに眉根を寄せた。
「霜葉……? 茶坊と、なにか関係のあることですか」
「いや。なんでもない。忘れてくれ」
反応を見るに、やはり成紅杏は『霜葉紅』の読者ではない。おそらく林墨燕と成書杏の間で張り詰めるものを、ある種の違和感として繊細に感じとっていたのだろう。
遅れて歩み寄ってきた蕭雨が、成紅杏の肩に手を置いた。
「紅杏。墨燕をあまり困らせない方がいい。皇城司はとりわけ機密を扱っている。捜査に障っては元も子もない」
「そんなことは分かってるわ、阿雨。だけど、やっぱりおかしいもの」
成紅杏は苛立たしげに、蕭雨の方へ向き直って言い募った。そのとき世子をごく自然に愛称で呼んだことに、二人の仲が窺い知れる。
「三姉上がわたしを嫌っていたとして、それならなぜ自分がやったと名乗り出たの? 本当にわたしが目障りなら、黙っていればよかったのに」
「わたしと章桑に問い詰められて、逃げられないと思ったのかもしれない。侍女もあんなことに――」
「阿雨、それ以上言ったら怒るわよ」
「……申しわけない。失言だった」
成紅杏の眉はすでに吊り上がっていて、蕭雨は口をつぐんだ。浩国公世子を黙らせる彼女の気勢に、林墨燕も舌を巻く。
蕭雨を黙らせた成紅杏は一歩下がって両膝をつき、世子と林墨燕の両方に向かって拱手した。
「世子、林公子。これまでも無理を通してくれているのは百も承知の上でのお願いです。どうかもう少しだけ力を貸してください。三姉上が犠牲になって終わりなんて、絶対に納得できない」
林墨燕は蕭雨と顔を見合わせた。目線だけのやりとりのあと、林墨燕が軽くため息をつくと、蕭雨は苦笑を返して肩をすくめた。
蕭雨が背を屈めて、成紅杏の手をとる。
「紅杏、立って。わたしたちも、このままでいいとは思っていない」
「霜葉茶坊の封鎖はまだ解けないが、二人が中を見られるよう手配しよう。茶坊の所有者である紅杏なら、新しい手がかりが見つけられることもあるかもしれない」
林墨燕から提案すると、成紅杏が表情を輝かせてさらに深く頭を下げた。
「世子と林公子に感謝します」
さすがに叩頭までされては居心地が悪く、林墨燕は蕭雨に向かって、早く立たせろと身振りする。
成紅杏が世子に支えられて立ち上がったのを見届けてから、さらに話を進めた。
「茶坊の方は二人に任せる。わたしは成章蒿の捜索を急ぐ。茶賊と書杏が無関係である証言が得られれば、それが一番いい」
「墨燕。わたしたちは助かるが、あまり無茶はするな。君が皇城司にいられなくなっては意味がない」
蕭雨の気づかいに、林墨燕は口角を少しだけ上げた。
「大丈夫だ。蕭雨は自分の心配をしていろ。君が勝手をするから、浩国公夫人はすっかり怒り心頭と聞いているぞ」
「問題ない。母上の説得くらい、いくらでもする。この件が解決すれば収まることだ」
蕭雨はなんでもない調子で言ったが、それが気づかいさせないための嘘だと林墨燕にはすぐに分かった。
成書杏の件が解決したあとには、世子と成紅杏との仲を巡って浩国公府が大いに荒れるのは火を見るよりも明らかだ。
そういうものとして蕭雨の身の上を設定して描いたのは鴇遠リンではあるが、知己としての同情心を林墨燕は少しばかり抱いた。
「紅杏を邸へ送るのは、蕭雨がいればいいな。わたしは一旦、情報の確認に衙門へ戻る。茶坊の方の手配ができたら、また伝達する」
「世話をかける」
「よろしくお願いします」
軽く拱手する蕭雨と成紅杏に、林墨燕が頷き返して、この場は解散した。
皇城司の官署への道すがら、林墨燕は我ながら調子がいいものだと自嘲した。
本来の『霜葉紅』では、成書杏を救おうと尽力する者などいない。ところが今は、成紅杏が三姉のために一心に頭をさげ、蕭雨のみならず林墨燕までも惜しみなく協力している。
どういう心変わりか、と牢獄で成書杏に向けた問いを、今度は自身に投げかける。
最初に心動いたのは、七夕の夜だったように思う。
作者としての記憶を持つ自分の他に、『霜葉紅』を思い入れ深く語れる者がこの世界にいることに、言いようのない感動を覚えた。もっと彼女の話を聞きたいと強く思ったからこそ、舟遊びにもつき合うことにした。
紅杏がいなくなったら『霜葉紅』ではなくなってしまう、と牢の中で訴えられて、彼女も物語を壊すことは望んでいないのだとようやく気づいた。
もちろん、林墨燕がいる限りは成紅杏を死なせるはずもない。けれども自身の命よりも『霜葉紅』を守ることを優先する選択肢を彼女が持っていたことに驚き、ひどく胸を打たれた。
それほどまで作品を愛してくれている人物の名前を知りたくなった。
そして、彼女が桃蕊明日実であることを知ってしまった。
きっと、もうずっと以前から成書杏の運命は、『霜葉紅』とは別の方向へ走り始めていた。林墨燕の悪あがきなど、およばないほど力強く。
物語が、新しい道筋を辿っている。
かつて書き上げられなかった『霜葉紅』への執着は変わっていない。だが今や、あるべき筋書きを歪められることへの嫌悪よりも、成書杏を救いたい感情が勝った。
死に向かっていくばかりの病床で、心まで死なずにいられたのは、顔も知らぬ彼女の存在に救われたからだ。今度は自分が彼女を救う側になるのも、悪くはない――手の平返しを罵られそうではあるが、それは甘んじて受け入れることにする。
皇城司の衙門へと帰り着いた林墨燕は、すぐさま新たな情報を求めて書架を巡った。続々と届く密書の内、雲州からのものを中心に、わずかの手がかりも見逃すまいと素早くかつ念入りに目を通していく。
そうして林墨燕が新しい情報を頭に叩き込んでいると、書架の間から声がかかった。
「老林、ここにいたか。まずいことになったぞ」
集中していたところから急に現実へ引き戻されて林墨燕が振り向くと、同組の方帆が厳しい顔つきで駆け寄ってくるところだった。
方帆は傍までくるなり声を落として早口に囁いた。
「今回の茶密売の関係者を一律極刑とする詔勅が下った」
林墨燕は眉を跳ね上げた。
「捜査はまだ途中だぞ」
「圧力がかかったんだ。大勢の高官が、今こそ茶賊の一掃の機会だと朝堂で口を揃えて奏上した。一刻も早く罪臣の口を封じたい人物が上の方にいる」
忌々しそうに方帆が言い、林墨燕も舌打ちしたいのを堪えた。
「甘い蜜を吸うだけ吸って、分が悪くなったらまとめて切り捨てか。碌なものではないな」
「天子直属の皇城司が形なしだ。やりにくいったらない」
「獄中で自害させずに処刑の手順をとらせるだけ、抑止力にはなっていると思おう」
慰めにもならない林墨燕の言い種に、方帆が小さく肩をすくめる。
「まあ確かに、全部が全部、悪い話でもない――使者が展封を発った。十中八九、刺客だな」
林墨燕はハッとして、さらに口調を早めた。
「行き先は成章蒿か」
「おそらく」
「追跡は」
「当然」
方帆が心得顔で言うのを見て、林墨燕は身を翻して官舎の外へ足を向けた。
「すぐに動ける者を集めろ。勾當官の承認はわたしが貰ってくる。成章蒿の所在がつかめ次第、刺客の手にかかる前に身柄をおさえる。重要な証人だ。絶対に死なせるな」
「承知した」
別方向へと方帆は身軽に駆けていく。林墨燕も後れをとることなく、成すべきことを成すために皇城を駆け抜けた。
物語は少しずつ軌道をずらしている。この先なにが起きるか、もう林墨燕にも正確なところは見通せない。
間違いないのは、成書杏を救えるか否かは林墨燕の働きにかかっている、ということだ。