第二十六集 悪女
成書杏の尋問は、速やかにおこなわれた。厳めしい顔をした判院官の前で、成書杏は霜葉茶坊に関わる茶の密売について知る限りのことを残らず証言し尽くした。
成書杏の証言に矛盾点はなく、最終的には証文の内容と拇印の反転という、外部に出ていないはずの事実を詳細に知っていたことが決め手となった。
そのすべてを大兄・成章蒿と共謀し、侍女・離離へ指示しておこなったと、成書杏は天地に誓って認めた。
押し込められた牢の隅に、成書杏は膝を抱えて座り込んだ。重ねた両腕に顔を埋め、できるだけ小さく手足を縮める。身動きすると固い麻の囚服で肌が擦れて痛んだが、それよりも石床から這い上がってくる冷気が辛かった。粗い蓆は敷かれているが、秋も半ばの肌寒さに対してはないよりまし程度のものだ。
ふと、金属の擦れる音がした。億劫に顔を上げると、格子扉の向こうに立つ林墨燕の姿が目に飛び込んできた。瞬間、成書杏の感情が不穏に波立つ。
だが、扉を解錠した彼の後ろから成紅杏が現れると、成書杏の荒れた感情は途端に凪いだ。
ほんの数日前に見た成紅杏は囚服に乱れ髪を垂らしていたが、今は衣も髪も清潔に整えられて元の美しさをとり戻していた。頬だけは、いまだ青ざめているように見える。けれど隣に蕭雨が労りの表情で寄り添っているので、心配は無用そうだった。
成紅杏が恐々とした歩みで牢に入ってくるのを、成書杏は膝を抱えたまま見詰めた。蕭雨は、なにかあればすぐに成紅杏を庇える位置に立っている。
「三姉上」
成書杏の正面で足を止めて、成紅杏は崩れるように両膝をついた。咄嗟に手を出しかけた蕭雨を、成紅杏は押しとどめる。
浩国公世子が数歩後ろに下がったのを確かめてから、成紅杏は改めて成書杏の方を向く。
「三姉上、どうして……どうして、こんなこと」
成紅杏は両腕を伸ばし、同齢の姉の手をそっとつかむ。
「わたしを助けるためだったとしても、三姉上が罪を被る必要なんてなかったのに……どうしてやってもいないことを、認めたりしたの?」
真っ直ぐな成紅杏の眼差しを、成書杏は見詰め返した。四妹の瞳に悲哀の色はあっても、姉に対する疑いや怨恨は少しも宿っていなかった。
このような状況でなお姉を信じ続けられる四妹の篤実さに、成書杏は苦笑をこぼした。
「逆に聞きたいわ。わたくしがやっていない、なんて。どうして思えるの?」
「だって、三姉上はそんな人ではないもの。母さんが死んでから、家で一番わたしの傍にいて、ずっと助けてくれていたでしょう。三姉上がわたしを陥れようとするなんて、考えられない」
成書杏の手を握る力を、成紅杏は強めた。
「待っていて、三姉上。今度はわたしが、必ず三姉上を助け――」
「おめでたいのね」
成紅杏が言い募るのを、成書杏は強く遮った。つかんでいる手も振り払い、おもむろに立ち上がる。
顎を上げ、成書杏は高い位置から成紅杏を睥睨した。
「紅杏のそういうところ――虫酸が走るの」
こちらを見上げる成紅杏の顔が強張った。その後ろに立つ蕭雨も目を瞠っている。
二人の表情を眺めやり、成書杏は冷笑した。
「優しい姉だと思っていたとしたら残念ね。わたくしはずっと、あなたが嫌いだった」
元から青ざめていた成紅杏の顔から、さらに血の気が引いていく。成書杏は軽く背を曲げて、呆然としている四妹の肩に触れた。
「あなただけじゃない。成家の家族、みんな大嫌いよ。都合のいいときだけ長女だと持ち上げて、都合が悪ければ所詮は庶子だと見下して。わたくしがどうしたいのか、どう思っているのか、あの家の誰も興味がないのよ!」
成書杏はわめいて、成紅杏の肩を強く打って突き飛ばした。短く悲鳴をあげて倒れた成紅杏を、蕭雨が血相を変えて抱き起こす。
世子が批難の目を向けてきたが、成書杏は彼が口を開く前に四妹の方へと指を突きつけた。
「中でも、あなたが一番嫌い。同じ家の同じ庶子で、生まれた日も三ヶ月しか違わないのに、どうしてあなたはそんなに自由なの。どうしてみんな、わたくしばかりを思い通りに動かそうとするのよ!」
蕭雨に支えられて立ち上がった成紅杏の顔が、みるみる泣きそうに歪んでいく。
「三姉上……誰も、そんなこと――」
「目障りなのよ!」
成書杏は、成紅杏に喋らせなかった。
「あなたさえいなければ、世子がわたくしを見てくれて、皆を見返せるはずだった。あなたさえいなければ、わたくしはこんな思いをしなかった!」
迫るように、成書杏は距離を詰めた。成紅杏は蕭雨に庇われる形で、牢の中央まで後ずさる。
成書杏はさらに前へ出て、怯える四妹の肩越しに牢の出口を指差した。
「出ていって。あなたがいると、わたくしはおかしくなるの。もう二度と、わたくしの前に現れないで」
「三姉上……」
「行ってったら!」
成書杏は傍の卓上にあった茶盞をつかんで、足もとに叩きつけた。割れた破片が跳ね、蕭雨が慌てて成紅杏を引き離す。
世子は敵意の宿った目を成書杏へと向けた――それでこそ、成紅杏を守る貴公子として正しい仕草だ。
成書杏の胸に、震えるほどの苦みと愉悦が同時に広がる。
「紅杏、行こう」
労りのこもった声で言いながら、蕭雨は成紅杏の背を押す。成紅杏はまだ後ろ髪を引かれるようすを見せるも、うながされるまま覚束ない足どりで牢を出ていった。
二人の姿が見えなくなるなり、成書杏は肺が空になるまで深く深く息を吐いた。体の強張りが抜けると立っているのも辛くなり、その場に膝をついて座り込む。
床に散った茶盞の欠片に視線を落とし、自身の振る舞いを思い返して自嘲した。
『霜葉紅』を読み込んでいてよかった。成書杏として完璧な台詞が、少しも閊えずにすらすらと出てきた。
あとは悪女らしく、華麗に散るばかりだ。意外にも、今の気分はそれほど悪くはない。
成書杏がうつむいたままでいると、視界の端に黒い長靴の先が見えた。不審に思って顔を上げれば、黒衣の林墨燕が目の前に立っていた。
「……いたの。紅杏たちは?」
「二人は先に外へ送らせた」
「ふうん。それで、なんの用?」
成書杏が胡乱に首を傾けると、林墨燕は少しの抑揚もない声音で答えた。
「なぜ君が、自分から罪を引き受ける気になったのか不可解でな」
「なにを企んでいるのか、ってこと? 安心して。もう、あなたの邪魔はしない」
林墨燕の冷淡な眼差しが細まった。成書杏の些細な仕草から本音を見出そうとしていると、分かる表情だった。
「あれほど死を拒んでいたのに、どういう心変わりだ」
言われてみればそうか、と成書杏は少し笑ってしまった。成書杏にとっては理屈が通っていても、林墨燕には分かるはずがない。
「前から言っているでしょう。わたくしは、鴇遠リンの霜葉紅が好きなの」
背の高い林墨燕を真っ直ぐに見上げて、成書杏は微笑した。
「白を切り通せば、助かっただろうことくらい分かっているわ。今だって、死にたくない気持ちは変わっていない。でも――」
急に鼻の奥がつんとするのを感じて、成書杏は言葉を切った。何度かの呼吸で気持ちを落ち着かせてから、続きを口にする。
「紅杏がいなくなったら、霜葉紅ではなくなってしまうでしょう?」





