第二十五集 越訴
夜が明けた。真っ黒な柱と梁を残して全焼した納屋の前に、成書杏はいた。呆然と佇む彼女に寄り添う者はいない。体の中が空っぽになったようで、涙の一滴も出なかった。
火災の原因は成書杏が点した燭台だった。成書杏が去ったあと、なんらかの理由で燭台が倒れて、納屋に置かれた荷に引火した。炎は納屋を焼き尽くしたが、必死の消火で他へ延焼はどうにか食い止められた。閉じ込められていた離離に、逃げ場はなかった。
この世界は、よほど成書杏に死んで欲しいようだ。そうでなければ、ただ生きようと足掻くことが、これだけの目に遭うほど罪深いとは思えない――離離が死ぬ必要などなかったはずだ。
生母は家を追い出され、幼馴染みの侍女は死んだ。父はもはや庶子を疎み、嫡母には嫌われている。大兄は逃亡中で、二兄には疑われ、四妹は牢の中。幼い五妹は嫡母の手中だ。
もうどこにも、成書杏の味方もいなければ、居場所もない。
そう思った途端、ふっと、笑いが漏れた。込み上げる笑いが止まらなくなり、成書杏は自身でも自分の感情の向きが分からないまま声を張り上げて笑った。
近くで片づけをしていた使用人たちが異変に気づいて、ちらほらと手を止め顔を向ける。奇異の視線を向けられても、成書杏の笑いは一向に収まらなかった。
やがて、報告を受けたらしい成章桑が駆けつけてきた。疲れ切った顔をした二兄は、焼け落ちた納屋の前で哄笑する成書杏を見て肝をつぶした。
「書杏」
呼びながら成章桑が肩に置いた手を、成書杏は反射的にはね除けた。
「林墨燕よ！ 全部、林墨燕が謀ったのよ！」
笑いが引っ込むと同時に成書杏は叫んでいた。この身にこうむっている不条理を、とにかく誰かに訴えたかった。
「墨燕が？ なぜ突然、墨燕が出てくるんだ」
目を剥いて、成章桑は困惑げに言う。成書杏は勢いよく向き直って、二兄の衣をつかんで顔を寄せた。
「林墨燕は、鴇遠リンだもの。霜葉紅が鴇遠リンのものである以上、全部、彼のせいなのよ」
「とき……なんだって？ なにを言っているんだ」
「わたくしたちはみんな、鴇遠リンが書いた虚構なのよ！」
成書杏はまた笑った。自らの口で言いながら、死の運命にあらがってきたすべてが虚構だと思うと、猛烈にむなしさが湧き上がってきた。それでも、生きたいと願ってしまう自分の、なんと惨めなことか。
笑い続ける成書杏の手を成章桑はつかみ、気を引くように軽く甲を叩いた。
「書杏。落ち着きなさい、書杏。気が触れたか」
気が触れた――確かにそうかもしれない。そのように見えるだろう。彼らは、『霜葉紅』も、鴇遠リンも知らないのだから。
そんな当たり前のことを改めて悟り、成書杏の笑いは急に収まった。
唐突に黙り込んでうつむいた成書杏の肩を、成章桑がなだめる手つきで撫でた。
「色々なことが起き過ぎて混乱しているんだ。昨夜は眠れていないだろう。今からでも少し寝なさい。誰か、書杏を寝所へ連れていってくれ」
「一人で平気」
奴婢が駆け寄ってくる前に、成書杏は素早く言った。成章桑の気づかわしげな顔を見上げて、さらに繰り返す。
「一人で平気――一人にして」
宣言と共に、成書杏は二兄の脇をすり抜けた。鞋底が地面から浮いているような覚束なさを感じながらも、大股に雪柳閣を目指す。
感情は底をついたままで、いまだ恐れも悲しみも追いついてこない。それでも、逃げるような心地で早足に内院を歩く内に、凍結していた思考力が徐々に元の動きをとり戻し始める。
『霜葉紅』で、成書杏は離離にどのように接していただろうか。記憶を辿るも、分からない。離離の名は文中にあっても、深く描かれてはいなかった。だから、距離の近い歳下の同性として、思うまま気安く振る舞っていた。それが、違っていたのだろうか。
林墨燕は一昨日、成書杏に対し「優し過ぎる」と言った。その意味も考えてみたが、もう答えは導き出せそうになかった。
証人だった離離がいなくなってしまった以上、成書杏に向けられている疑惑を晴らす手段は失われたと言っていい。
さりとて、生き延びる道が潰えたわけではない。このまま気が触れた振りをして口を閉ざしてしまえばいい。そうすれば……どうなる？
游廊の真ん中で、成書杏はぴたりと足を止めた。
不審点が多かろうと、離離と成章蒿の間で行き来があった以上のことは表向きはっきりしておらず、証文を偽造した証拠は残っていないのだ。
生きるだけなら、黙ってさえいればいい。黙っていれば――
成書杏は歩行を再開した。居所である雪柳閣の前を素通りし、さらに奥にある裏門から成宅の外へ出た。
邸の裏は細い運河に沿った柳並木になっている。黄金色に紅葉する柳と白い塀とが連なる道を見回して方向を定め、歩き出す。
普段の移動は輿か小舟を使うことがほとんどなので、長い距離を歩くことはあまりない。そのせいで正直なところ、この年齢まで暮らしていながら京城の道に詳しいとは言いがたい。
それでも、見えている目的地に向かう分には迷いはしない。京城の中心を走る大街へ出たら、ひたすらに真っ直ぐ北へと向かえばいい。
成書杏は一人で黙々と歩き続けた。橋を渡り、馬車とすれ違い、名店の前を通り過ぎる。どこもかしこも中秋節の黄色い灯籠が飾りつけられ、昼間から祭日の華やぎに溢れている。
そうした景色に目もくれず無心に歩き、やがて大街の突き当たり、京城の中心である皇城の正門・千徳門へとたどり着く。
朱塗りに金の鋲が打たれた門扉が、皇帝の権威を示すように、五彩の欄干を持つ門楼を有して聳えていた。展封に住む士民の暮らしを見下ろすその威容をしばし眺めてから、成書杏の改めて歩みを進める。
千徳門には、登聞鼓という大太鼓が置かれている。
聳える門扉のすぐ横。鳳凰の姿が彫刻された城壁の前に置かれたその太鼓は、直訴の太鼓とも呼ばれ、叩けば庶民であっても切なる訴えを皇帝へ直接届けることができる。
ただし、順序を踏まずに訴えを起こす越訴は、杖刑に処される罪でもある。すなわち、天子への直訴はそれだけの覚悟を持ってせよということだ。
成書杏は迷いない足どりで登聞鼓の前に立った。背の高い太鼓台に備えつけられている撥子へと手を伸ばす。成書杏の手でやっと握れるほど太さのあるそれは、思っていた以上にずしりと重かった。
一本の撥子を両手でしっかりと持ち、力いっぱい振りかぶる。
どんっ、という音と共に一帯の空気が大きく震えた。
叩いた反動が思いがけず大きく、跳ね返った撥子に体を持って行かれそうになり、たたらを踏む。
体勢を立て直し、今度はしっかりと両脚を開いて腰を入れて、成書杏は撥子を振った。
どん、どん、どん、と。鼓面が震えるたび、行き交う人々が足を止め、振り返る。噂の種を求める人の群れは徐々に膨らみ、あれは誰だ、前に登聞鼓が鳴ったのは何年前だったかと、額を寄せて囁き合う。
そんな好奇の視線など歯牙にもかけず、成書杏は登聞鼓を叩き続けた。
重い撥子を振るう内、肩が痛み始め、少しずつ腕が上がらなくなってくる。それでもなんとか鼓面を叩き、弱々しくとも太鼓を鳴らし続ける。ついにはもう二度と腕が上がらなくなるのではと思えるほど肩が熱を持った頃、ようやく千徳門が低い音をたてた。
朱塗り門扉がごくゆっくりと、一人分の幅だけ開く。出てきたのは、特徴的な縦長い黒帽を被った宦官だ。年嵩と思しき宦官は鹿の毛の払子を抱えるように持って、成書杏の方へ静々と歩み寄ってくる。
「登聞鼓院の韓と申します。太鼓を叩いたのは、あなたですか」
見た目にそぐわぬほど高く澄んだ声で、宦官は問うた。成書杏は撥子を置き、丁寧に一礼する。
「成書杏と申します」
「この度は、どのような訴えで」
宦官からの静かな伺いに、成書杏はさっと両膝をついた。重ねた両手の平を額にかざして体を折り、深く深く叩頭する。
「どうか、妹の成紅杏を牢から出してください。茶賊と通じたのは紅杏ではなく――わたくしです」
