第二十四集 代替
「だって……三娘子は、四娘子がお嫌いですよね?」
戸惑いげに言った離離の声に確信がこもっていて、成書杏は絶句した。
「……わたくしのなにを見て、そう思ったの?」
「なにを見て、と言うか――少なくとも三娘子を差し置いて、四娘子が世子と親しくするのは許せません。世子のことを先に好きだったのは、三娘子なのに」
離離の言葉は、あまりに真っ直ぐでよどみがなかった。成書杏に口を挟む隙を与えずに、流れるように語り続ける。
「三娘子が子供の頃から世子のことをお好きなのを、わたしは一番知っています。四娘子が世子に好かれているのは、母親を亡くしたことに同情されているだけです。わたしがなにも言わなければ、四娘子は刑を受けて、世子は三娘子の方へ――」
「黙りなさい!」
堪えきれず、成書杏はわめいて離離を遮った。
ひどく動悸がした。冷や汗が止まらず、額が冷たい。
『霜葉紅』の成書杏はこうあるべきだという形を、侍女から見せつけられるなど思いもよるはずがなかった。
離離は怒鳴られたことに傷ついた色を見せたが、語るのをやめなかった。
「なぜ怒るんですか。わたしは、三娘子のためにしているんです。四娘子さえいなくなれば――」
「黙ってと言っているの!」
「嫌です」
初めて離離が反抗的な言葉を発した。いつも従順で大人しい侍女と同一人物とは思えないほどの気迫に、成書杏は息をのむ。
「わたしは、三娘子には誰よりも幸せになって欲しいんです。そのためなら、わたしはなんでもします。命だって捧げられます。三娘子への恩は、それでも返しきれません」
「それで成家が危うくなってもいいと言うの」
「構いません」
わずかの迷いもなく離離は言い放ち、成書杏は呆気にとられた。
「親は、わたしを五歳で売りました。そんなわたしに、三娘子はご自分の菓子を分けてくださいました。三娘子が一緒にと言ってくださったから、奴婢のわたしも文字を学ばせて貰えて、書を読めるようにもなりました。今だって、罰を受けるわたしに会いにきてくださったのは、三娘子だけです。成家も四娘子も関係ありません」
捲し立てる離離の表情には笑みさえあった。その瞳が、恍惚としてきらめく。
「成家で三娘子の味方なのは、わたしだけです。正房と嫡子に見下されて、雪柳閣にさえ三娘子のことを慈しむ人がいないような家なら、ないも同じです。結果的に成家がなくなったとしても、世子は可哀想な女性がお好きですから、四娘子さえいなければ必ず助けていただけ――」
「いい加減にして!」
ついに成書杏は手を上げた。パンっ、と頬をはたく音が夜闇に響く。手を叩きつけた勢いのままに立ち上がり、激昂する。
「わたくしがいつ、そんなことを望んだのよ! それでわたくしが喜ぶと、本気で思っているの? あなたの独りよがりが、わたくしを追い詰めていることが分からない?」
感情が高ぶるあまり、成書杏は涙が溢れてきた。目の前の侍女が心底から憎く、恐ろしい。
「あなたのしていることは間違っているの。全部、間違いなのよ! 妹のように思っていたけれど……こんなことになるのなら、卑しい奴婢になんか優しくするのではなかった」
責め立てている内に、なぜが笑いが込み上げてきた。成書杏は涙もそのままに、投げやり気味に口角を上げた。
「あなたのせいで、わたくしは死ぬわ」
仰天した顔で頬を押さえていた離離が、さらに目を大きくした。
「駄目です!」
必死の形相で、離離は成書杏の袖に縋る。
「それだけは駄目です! わたしはどうなっても、三娘子がいなければなんの意味もありません」
縋られた途端に、成書杏の感情は急速に醒め始めた。一瞬前まで激昂していたのが嘘のように、冷静さが戻ってきて思考が冴える。目の前で眼を潤ませている侍女に対する情けの感情は、もはや跡形もなかった。
表情を消した成書杏は、つかまれていない方の袖でぞんざいに涙を拭った。
「わたくしに生きていて欲しい?」
高飛車に顎を上げて、成書杏は言った。離離は忙しく何度も頷く。今さら焦っている侍女の姿が、成書杏の目にはあまりにも滑稽に映った。
「それなら、今の話をすべて二兄上に言うのよ。証文をどうやって偽造したのかも、なぜ紅杏を陥れたのかも、なに一つ隠さずに」
それで成書杏に向けられている疑惑のすべてが晴らせるわけではない。だが、すべて侍女の独断行動であった可能性を強められれば、たとえ無罪とはいかなかったとしても斟酌の余地が生まれるはずだ。
完全に切り捨てられたと、離離は察したようだった。縋る眼差しに、苦悶が浮かぶ。
「三娘子……」
「自分で犯した罪は、全部自分で始末をつけなさい」
縋る手を、成書杏は振り払った。離離は傷ついた表情をして、羅漢床に伏したまま項垂れる。
「……かしこまりました」
離離の返事を聞き、成書杏は無言で踵を返した。
納屋の閂をしっかりとかけ直し、行きと同様に夜闇を渡って、真っ直ぐ雪柳閣へと帰る。鞋と外套を脱ぎ捨てると、すぐに床榻へと潜り込んだ。
成書杏は疲れ切り、なにかを考える気力すらも残ってはいなかった。不安定な精神のままで眠るのは難しいように思えたが、目を閉じると意識はあっという間に沈み込んだ。
明日、離離がすべてを証言すれば再び状況は大きく動くはずだ。それまでは極力、体も思考も休めておきたい。ほとんど失神に近いものだったとしても、今の成書杏には深い睡眠が必要だった。
ところが不意に人の声がして、成書杏は目を覚ました。薄く目蓋を開いて見た寝房はほの明るい。夜が明けたのかと思い、身を起こす。
ぼんやりと眺めやった室内に、人の姿はなかった。目覚める切っかけになった声は誰かが起こしにきたわけでなく、外から聞こえてきたもののようだ。
起き抜けの頭でそう考えて、淡く光の差し込む窓の方へと顔を向ける。窓の紙を透かす光が赤く揺らいでいるのを見て、成書杏の眠気は瞬時に消え去った。慌てて鞋を履き、外へ飛び出す。
夜空が、赤く染まっていた。正房の向こうで煙が立ちのぼり、地上からの赤い光に照り映えている。
火災だ、とすぐに分かった。今いる場所から炎の姿は見えないが、影の塊となっている屋根の向こうで爆ぜる火の粉は視認できた。
「三娘子」
成書杏が振り向くと、二兄の侍女が血相を変えてこちらへ駆けてくるところだった。成書杏は侍女が傍へくるのを待たずに走り寄った。
「どこから火が? 皆は無事?」
「皆様ご無事なので安心してください。外院の納屋から出火して、現在、総出で消火に――」
侍女の言葉を最後まで聞く前に、成書杏は駆け出していた。
寝衣のまま右へ左へ駆け回る使用人たちを掻い潜って、游廊から内院へと走り出る。視界が開けると同時に景色が煌々と明るさを増し、塀の向こうに伸び上がる火柱が見えた。
竦むように腹の底が冷えるのを感じながら、成書杏は無我夢中で二門から外院へと飛び出す。
熱風が体を打った。叫び交わす使用人たちの声で鼓膜がキンと痛む。水を運ぶ人波の先で納屋が一棟、赤に金に燃え上がる炎に包まれていた。炎の明るさに、目が眩む。
「離離!」
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