第二十集 疑惑
成宅の雪柳閣に帰り着くと、成書杏は崩れるように羅漢床へ腰を下ろした。横向きに倒れ込み、肘かけの枕に頭を預ける。そのまま、食盒を片づけに厨房へ向かう侍女の姿をぼんやりと眺めやった。
いつもならすぐにようすを見にくるだろう生母・白氏は現れない――父・成元の命令により、郊外の別宅へ送られて禁足中なのだ。
成章蒿に渡す銭を作るために白氏が売った荘園の中には、成元が与えたものが含まれていた。それが、成元の怒りにさらに油を注いだ。
家主が白氏を外へ追いやったということは、衙門が彼女を捕縛しようと尋問しようと干渉しないという姿勢でもある。この先、白氏が成家へ戻ってくるの難しいだろう。
我が子が二人も関わっている茶の密売について、成元は無関係をとり繕い、子よりも家を守ることに必死だ。この機に乗じて、嫡母・呉氏がなにを仕かけてくるかも分かったものではない。
成家の兄妹の内、大兄・成章蒿はお尋ね者で、四妹・成紅杏は投獄されている。末妹の成妙杏は、呉氏が今回の件に関わらせまいとして正房から出さない。
家中で味方と思えるのは二兄・成章桑だけだが、父と対立しながら四妹の救出に奔走しており三妹にまで目を配れる状態にない。
現状あまりに覚束ない自分の身を守ることも、成書杏は考えねばならなかった。
眠るように目を閉じて成書杏が思索にふけっていると、侍女の声が降ってきた。
「三娘子。お水をお持ちしました。ご気分はいかがですか」
成書杏は羅漢床に横たわったまま、薄く目を開いた。湯飲みを持った離離が、気づかわしげな表情で羅漢床の傍らに屈み込んでいた。
「寝所を整えますので、着替えてそちらでお休みになってください」
成書杏は返事の代わりに息をついて、ゆっくりと身を起こした。皇城から帰宅するまでの間で、どうにか感情の整理をつけて、離離と向き合う心づもりはできていた。
受けとった湯飲みの水を、成書杏は一息に飲み干した。
「心配しないで、離離。もう大丈夫よ」
言いながら、空の湯飲みを離離に渡す。すぐに湯飲みをさげようとした侍女の手を、成書杏は素早くつかんだ。
「ねえ、離離。聞きたいことがあるの」
「いかがなさいましたか」
離離はびっくりした顔をしながらも、呼びかけにはいつも通りの口調で応える。成書杏は相手の心の動きを少しも見逃すまいと、侍女の目を間近に覗き込んだ。
「わたくしに、なにか隠していることはない？」
問うた直後、離離の瞳孔が広がったように見えた。しかし一度まばたきしたあとには普段となんら変わらぬ瞳があった。
「長年お仕えしているわたくしが、三娘子に隠しごとするとお思いですか？」
「主人に問い返すのは礼儀違反よ」
常であれば流してしまう点を咎められ、離離の顔が強張る。
「……申しわけございません」
「謝罪はいいわ。質問にだけ答えて。わたくしに、隠しごとはしていない？」
一拍置いて、歳下の侍女は成書杏の目を真正面から見返した。
「ございません」
心臓を締め上げられたように胸が痛むのを、成書杏は感じた。つかんでいた離離の手を放し、顔を背ける。
「……そう。それならいいわ。少し休むから、二兄上が帰ってきたら教えて」
「かしこまりました」
なにごともなかったかのように、離離は湯飲みを捧げ持ってさがっていく。侍女の姿が見えなくなると、成書杏は再び羅漢床に身を横たえた。
離離の言葉は本当なのか、それとも嘘なのか――やはり嘘をついているのだろう。
林墨燕の言葉を鵜呑みにするつもりはないし、根拠が『霜葉紅』の記憶だけなので目に見える証拠があるわけでもない――否、証拠はあるのかもしれない。
すでに証拠が林墨燕の手の内にあり、あとはそれを表に出す機を窺っていると考えるべきか。
侍女のおこないは主人の意思とみなされる。離離が成書杏の侍女であることが知られている以上、最後に裁かれるのは成書杏だ。
茶賊と通じた罪。証文を偽造した罪。妹の名誉を毀損した罪。いくつもの罪状が重なり、刑罰として杖で打たれて命を落とす。その結末は、『霜葉紅』と変わらない。
物語が元に戻ろうとする力の、なんと強いことか。おそらく林墨燕の存在がなかったとしても、必死にあらがわなければ、あっという間にあるべき運命へ引きずり込まれてしまう。
成書杏は勢いをつけて起き上がった。雪柳閣から飛び出したところで、離離と鉢合わせてたたらを踏んだ。歳下の侍女も仰天したようすで身を仰け反らせる。
「三娘子、もうお体は大丈夫なのですか」
目を丸くして言う離離に、成書杏は頷いた。
「平気よ。それより、孫さんのところへ行くから輿を出して」
「かしこまりました」
離離は戸惑い気味に承って身を翻す。成書杏もそのあとを追うように、表門の方へと足を向けた。
まだ諦める段階ではない。立ち向かうべき相手が、林墨燕だけではなかったと判明しただけだ。今からできることは、いくらでもある。
まずは離離に罪を認めさせ、なぜこのようなことをしたか聞き出さねばならない。
離離に留守番を頼み、改めて準備させた輿に乗り込んだ成書杏は、孫女将の家へと急いだ。早くしなければ、日が暮れてしまう。
孫女将が夫と暮らしている家は、霜葉茶坊のある河沿いの繁華街から少しはずれた、庶民の家が肩を寄せる閑静な区画にあった。
輿の担ぎ手に共をさせて訪ねた成書杏を、孫女将は大いに歓迎した。あまり時間もないので茶や菓子などのもてなしは辞退して、成書杏は牢獄での成紅杏のようすを報告し、最低限の用件を伝える。女将は、四娘子のためになるならば、と頼みごとを快く聞いてくれた。
茶坊でも今のところ大きな動きはないことも確認した成書杏は、女将にまた訪問する約束だけして、成宅へとんぼ返りした。
成宅に帰り着いたときには青い夜闇がおり始めていたが、どうにか閉門には間に合った。輿の担ぎ手に少々の謝礼を渡してやってから、早足に門をくぐる。
邸の灯をともして回っている使用人らの横を通り、成書杏は雪柳閣でなく、二兄・成章桑の居所へと向かった。
二門をくぐった先の内院の東側、東廂房と呼ばれる房屋が嫡男の居所だ。紙貼りの格子窓に灯りが見えるので、すでに帰宅していると分かる。扉の前にいる侍従にとり次ぎを頼めば、すぐに東廂房の中へと通された。
成章桑は、入って左手の文房にいた。書の詰め込まれた棚を背にして、筆墨硯紙が整えられた書卓に難しい顔で向かっている。
「二兄上。お帰りが早かったのね」
声をかけながら文房へ足を踏み入れたところで、窓辺の美人榻に人が腰かけていることに、成書杏は気づいた。それが蕭雨であると見てとり、慌てて礼をする。
「世子。いらしていたのですね」
成書杏が明るく言うと、浩国公世子はごく淡い笑みを返した。その瞳には陰が落ちていて、濃い疲弊の色が見える。
成紅杏のために奔走するにあたり、蕭雨は公爵家であれこれと厳しく言われていることだろう。今の成家に関わることも、認められているとはとても思えない。
蕭雨の傍へ行こうと成書杏が足を踏み出すと、成章桑が窓とは反対の壁際の肘かけ椅子を指し示した。
「書杏はそちらに座りなさい」
二兄から指示されたことに成書杏はちらとだけ不満が過ったが、逆らわず蕭雨と向かい合わせの位置の肘かけ椅子に身を収めた。
「紅杏のようすはどうだった」
さっそくとばかりに、成章桑は切り出した。成書杏は昼間に訪れた牢獄のようすを思い出しながら、慎重に答えた。
「少し痩せたようではあったけれど、思ったより元気そうだったわ。乱暴なこともされていないようだし。差し入れもしっかり食べてくれて。林墨燕が色々と気を回してくれているのね」
「墨燕にすっかり恩ができたな。このことで立場を悪くしてなければいいが」
確かに、林墨燕がいなければ、成紅杏と面会はできなかったし、成章桑と蕭雨も身動きがままならなかったろう。
ただ、彼の行動の動機は成紅杏の救出ではなく、『霜葉紅』を守ることではあるが。
「危ない橋を渡っているのは二兄上と世子も同じでしょう。そちらの調べは進んでいて？」
「そのことだが……」
問いかけに、成章桑はなぜか言葉を濁らせた。
二兄が蕭雨と目配せをするのを見て不穏さを感じとり、成書杏は怪訝に眉をひそめる。そういえば蕭雨は、始めに軽く笑みを交わしただけで、まだ一言も声を発していない。
なにか深刻な問題が起きたのだろうかと、成書杏は二の句を待った。
「実は、書杏に聞きたいことがある」
そう前置きして、成章桑は改まった態度で成書杏を見た。
「大兄上は、今どこにいる」
「……え？」
