第十九集 暗躍
「林墨燕」
成書杏が低く呼びかけると、先を歩く林墨燕は足を止めることなく、首を傾けてわずかだけ振り向く仕草を見せた。少しでも反応が返ってきただけでもよしとして、成書杏は歩きながら続けた。
「どういうつもり?」
「質問の意味が分からない」
今度は声が返ってきたが、素っ気のない口調に成書杏はかえってムっとした。
「霜葉紅の物語の通りに事件を起こしたいのは分かるけれど、証拠の捏造は皇城司として道義にもとるのではないかしら」
苛立ちを隠すことなく成書杏が当てこすると、林墨燕は軽く鼻を鳴らした。
「わたしの仕業と思うか?」
「わたくしがやっていない以上は、あなたしかいないでしょう」
「つまり、なにも気づいていないということだな」
せせら笑うような吐息と共に、林墨燕は呟く。その意味深長な言い方に成書杏は眉をひそめ、足を速めて彼の横顔が見える位置まで進み出た。
「なにに気づいていないと言うの」
問い詰める成書杏を、林墨燕は歩調を緩めず一瞥した。
「わたしは君の代わりに成章蒿の咎を上奏したが、それ以外は偽の証文も含めてすべて君の無自覚な行動が引き起こしたことだ。本来の霜葉紅とは少しずれるが、結果は変わらないし物語としても悪くない。わたしが先に考えつけなかったのが惜しいくらいだ」
聞き捨てならず、成書杏は黒衣の袖をつかんだ。
「待って、どういうこと。わたくしが引き起こした?」
成書杏に袖を引っ張られたことで、林墨燕はやっと足を止めて振り向いた。冷淡な目で睨みつけられても、成書杏は怯まなかった。
「林墨燕、教えて。一体、なにを知っているの?」
成書杏は頑として手を放さず、つかの間、睨み合いになる。絶対に逃さない心づもりで成書杏は相手を見据えていたが、意外にも早く、彼は呆れたような根負けしたようなため息をついた。
「霜葉紅で、成紅杏がどうやって陥れられたか忘れたか」
袖をつかむ手をたやすく振り払って、林墨燕は歩行を再開する。彼の態度を疑り深く見ながら、成書杏はまたすぐに隣へ追いついた。
「忘れてなんかいないわ。成書杏が証文を偽造して罪を被せたのよ。今まさに起きていることよ。わたくしがなにもしていない点が違うだけ」
「では、偽の証文がどうやって作られたかは覚えているか」
「それは……」
成書杏は言葉に詰まった。『霜葉紅』でおこなわれた証文偽造の方法を忘れたわけでは、決してない。ただ、その方向から深く掘り下げて検討するのに強い抵抗があった。
『霜葉紅』と同じ方法が使われたのだとしたら、成書杏以外で考えられる実行者は一人しかいなくなってしまう。
だが、林墨燕がその思考の逃げを許さなかった。
「忘れたか? それなら、わたしが――」
「忘れてない」
成書杏は強い口調で林墨燕を遮った。彼の口から現実を突きつけられるくらいなら、自分から言った方がましだ。
そうは思ってもやはり拒否感は拭えず、成書杏は立ち止まってうつむいた。
「忘れていないわ……巧果を、使ったのよ。七夕の巧果を一緒に作ったときに、紅杏の指の跡がついた生地を持ち帰って、それを版にして拇印を偽造した。だから、取引証文の拇印は左右が反転しているはず……そういうことでしょう?」
『霜葉紅』で描かれた内容そのままだ。実行した人物が違うだけで。
読み上げるように言葉を重ねるほどに、成書杏は食盒を握る指先が冷たくなっていくのを感じる。
証文の拇印が本当に反転しているかはまだ確かめられていないが、いずれ蕭雨たちが気づいて追及していくだろう――その果てに、成書杏へ辿り着くのだ。
「……林墨燕、本当にあなたはなにもしていないの? 大兄上の動向がわたくしに伝わらないように工作していたのは、あなたでしょう?」
最後の希望に縋る心地で、成書杏は林墨燕を見詰めた。成書杏に合わせて足を止めた彼は、少しも迷いない瞳で真っ直ぐに見詰め返した。
「君は、成書杏にしては優し過ぎる」
林墨燕がなぜそんなことを言ったのかは分からなかった。だがその瞬間、燃え上がるような怒りが、冷えていた成書杏の体を熱くした。
「どうしてよ……わたくしは望んでないのに、どうして!」
両腕で食盒を振り上げた。磁器の茶器が中でがちゃりと音をたてる。食盒を地面に投げつけようとした寸前、林墨燕に腕をつかまれた。直後には食盒をあっさり奪われる。
行き場を失った両手を、成書杏は林墨燕の胸に叩きつけた。
「どうして、あなたじゃないのよ! どうして、こんなこと……どうしてっ」
二度、三度と、林墨燕の胸に拳を叩きつけた。けれど成書杏の力では、彼を足踏みさせることすらできなかった。
黒衣の胸に押し当てたまま震える成書杏の拳を、林墨燕は片手で包むようにつかんだ。
「それが知りたいなら、本人に訊くのだな」
突き放すようなその一言が、成書杏の胸を余計に深くえぐった。
傷つき意気を失った彼女の手を引き、林墨燕は再び歩き出した。
先ほどよりもずっと緩慢な歩調で、白壁がどこまでも続く皇城の道を並んで歩いた。林墨燕に食盒を持たせたままであることに成書杏は気づいたが、そこに感謝を抱ける心の余裕はなかった。彼に手を引いて貰うことで、すぐにでも立ち止まりそうな足をやっと前に出している。
ほどなくして皇城の内外を繋ぐ楼門が見えてくると、成書杏の足はますます重くなった。
門外には、成家の輿と侍女を待たせてある。それを思うだけで堪えようのない不安がもたげる。繋いでいる手に成書杏が無意識に力を込めると、しばらくの間があってから林墨燕も同じくらいの力で握り返してきた。
門を通るときに守門の皇城司がやや意表を突かれた顔をしていたが、林墨燕は気にする素振りを見せなかった。
「三娘子」
楼門を出たところで呼びかけられ、成書杏の肩が跳ねた。離離の軽い足音が、傍らまで駆け寄ってくる。
「お帰りなさいませ、三娘子。四娘子のごようすは、いかがでしたか」
離離は普段と変わらぬ、落ち着いた調子で語りかけてくる。そのことが言いようのないほど恐ろしく感じられて、成書杏は振り向けなかった。林墨燕と繋いだままの手に視線を落とし、ただじっと唇を引き結ぶ。
「三娘子?」
うつむいたままの成書杏を怪訝に思ったようすで、離離が顔を覗き込んできた。成書杏は慌てて顔を逸らし、繋いでいた手も素早く振り払って引っ込めた。その動作が離離をさらに不審に思わせると分かっていても、縺れた感情では彼女の顔を見ることさえ成書杏には負担だった。
すると、令嬢と侍女の間へ割って入るように、林墨燕が食盒を差し出した。
「成三娘子は初めて牢獄を見て気分が悪くなったらしい。早く連れ帰って休ませてやれ」
食盒を押しつけられた離離は、戸惑い顔で林墨燕を見上げる。それからもう一度だけ成書杏の方を見て、彼の言う通りらしいと判断したようすで食盒を受けとった。
「かしこまりました。お心づかい感謝いたします」
離離が礼儀に則った挨拶をする。その間に成書杏は彼女の脇をすり抜けて、門の脇で待っている輿へ向かった。離離がまた傍へくる前に素早く輿へ乗り込み、簾を下ろさせる。
「できるだけ急いで帰って」
成書杏の急かす声に応えて、慎重に担ぎ上げられた輿がすぐに進み出す。
「三娘子、お体は大丈夫ですか」
簾越しにまた離離が声をかけてきた。成書杏が返事をせずにいると、歳下の侍女はついに諦めたように黙り込んだ。
いつも通りに輿の横をつき従って歩く侍女の足音を聞きながら、成書杏は深く深く息を吐き出した。
自分の態度がよくないのは重々自覚している。それでも今は、感情と思考を整理する時間を置かなければ、離離になにを言ってしまうか分からなかった。
成紅杏を陥れた方法が『霜葉紅』の通りだとしたら、実行できるのは成書杏を除いて――共に巧果作りをした離離しかいないのだから。