表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/35

第十九集 暗躍

(リン)墨燕(モーイェン)


 (チョン)書杏(シューシン)が低く呼びかけると、先を歩く(リン)墨燕(モーイェン)は足を止めることなく、首を傾けてわずかだけ振り向く仕草を見せた。少しでも反応が返ってきただけでもよしとして、(チョン)書杏(シューシン)は歩きながら続けた。


「どういうつもり?」

「質問の意味が分からない」


 今度は声が返ってきたが、素っ気のない口調に(チョン)書杏(シューシン)はかえってムっとした。


霜葉紅(そうようこう)の物語の通りに事件を起こしたいのは分かるけれど、証拠の捏造(ねつぞう)は皇城司として道義にもとるのではないかしら」


 苛立ちを隠すことなく(チョン)書杏(シューシン)が当てこすると、(リン)墨燕(モーイェン)は軽く鼻を鳴らした。


「わたしの仕業と思うか?」

「わたくしがやっていない以上は、あなたしかいないでしょう」

「つまり、なにも気づいていないということだな」


 せせら笑うような吐息と共に、(リン)墨燕(モーイェン)は呟く。その意味深長な言い方に(チョン)書杏(シューシン)は眉をひそめ、足を速めて彼の横顔が見える位置まで進み出た。


「なにに気づいていないと言うの」


 問い詰める(チョン)書杏(シューシン)を、(リン)墨燕(モーイェン)は歩調を緩めず一瞥した。


「わたしは君の代わりに(チョン)章蒿(チャンハオ)(とが)を上奏したが、それ以外は偽の証文も含めてすべて君の無自覚な行動が引き起こしたことだ。本来の霜葉紅とは少しずれるが、結果は変わらないし物語としても悪くない。わたしが先に考えつけなかったのが惜しいくらいだ」


 聞き捨てならず、(チョン)書杏(シューシン)は黒衣の袖をつかんだ。


「待って、どういうこと。わたくしが引き起こした?」


 (チョン)書杏(シューシン)に袖を引っ張られたことで、(リン)墨燕(モーイェン)はやっと足を止めて振り向いた。冷淡な目で睨みつけられても、(チョン)書杏(シューシン)(ひる)まなかった。


(リン)墨燕(モーイェン)、教えて。一体、なにを知っているの?」


 (チョン)書杏(シューシン)は頑として手を放さず、つかの間、睨み合いになる。絶対に逃さない心づもりで(チョン)書杏(シューシン)は相手を見据えていたが、意外にも早く、彼は呆れたような根負けしたようなため息をついた。


「霜葉紅で、(チョン)紅杏(ホンシン)がどうやって陥れられたか忘れたか」


 袖をつかむ手をたやすく振り払って、(リン)墨燕(モーイェン)は歩行を再開する。彼の態度を疑り深く見ながら、(チョン)書杏(シューシン)はまたすぐに隣へ追いついた。


「忘れてなんかいないわ。(チョン)書杏(シューシン)が証文を偽造して罪を被せたのよ。今まさに起きていることよ。わたくしがなにもしていない点が違うだけ」

「では、偽の証文がどうやって作られたかは覚えているか」

「それは……」


 (チョン)書杏(シューシン)は言葉に詰まった。『霜葉紅』でおこなわれた証文偽造の方法を忘れたわけでは、決してない。ただ、その方向から深く掘り下げて検討するのに強い抵抗があった。


 『霜葉紅』と同じ方法が使われたのだとしたら、(チョン)書杏(シューシン)以外で考えられる実行者は一人しかいなくなってしまう。

 だが、(リン)墨燕(モーイェン)がその思考の逃げを許さなかった。


「忘れたか? それなら、わたしが――」

「忘れてない」


 (チョン)書杏(シューシン)は強い口調で(リン)墨燕(モーイェン)を遮った。彼の口から現実を突きつけられるくらいなら、自分から言った方がましだ。


 そうは思ってもやはり拒否感は拭えず、(チョン)書杏(シューシン)は立ち止まってうつむいた。


「忘れていないわ……巧果(こうか)を、使ったのよ。七夕(しちせき)の巧果を一緒に作ったときに、紅杏(ホンシン)の指の跡がついた生地を持ち帰って、それを(はん)にして拇印を偽造した。だから、取引証文の拇印は左右が反転しているはず……そういうことでしょう?」


 『霜葉紅』で描かれた内容そのままだ。実行した人物が違うだけで。


 読み上げるように言葉を重ねるほどに、(チョン)書杏(シューシン)食盒(おかもち)を握る指先が冷たくなっていくのを感じる。


 証文の拇印が本当に反転しているかはまだ確かめられていないが、いずれ(シャオ)(ユー)たちが気づいて追及していくだろう――その果てに、(チョン)書杏(シューシン)へ辿り着くのだ。


「……(リン)墨燕(モーイェン)、本当にあなたはなにもしていないの? 大兄上の動向がわたくしに伝わらないように工作していたのは、あなたでしょう?」


 最後の希望に縋る心地で、(チョン)書杏(シューシン)(リン)墨燕(モーイェン)を見詰めた。(チョン)書杏(シューシン)に合わせて足を止めた彼は、少しも迷いない瞳で真っ直ぐに見詰め返した。


「君は、(チョン)書杏(シューシン)にしては優し過ぎる」


 (リン)墨燕(モーイェン)がなぜそんなことを言ったのかは分からなかった。だがその瞬間、燃え上がるような怒りが、冷えていた(チョン)書杏(シューシン)の体を熱くした。


「どうしてよ……わたくしは望んでないのに、どうして!」


 両腕で食盒(おかもち)を振り上げた。磁器の茶器が中でがちゃりと音をたてる。食盒(おかもち)を地面に投げつけようとした寸前、(リン)墨燕(モーイェン)に腕をつかまれた。直後には食盒(おかもち)をあっさり奪われる。


 行き場を失った両手を、(チョン)書杏(シューシン)(リン)墨燕(モーイェン)の胸に叩きつけた。


「どうして、あなたじゃないのよ! どうして、こんなこと……どうしてっ」


 二度、三度と、(リン)墨燕(モーイェン)の胸に拳を叩きつけた。けれど(チョン)書杏(シューシン)の力では、彼を足踏みさせることすらできなかった。

 黒衣の胸に押し当てたまま震える(チョン)書杏(シューシン)の拳を、(リン)墨燕(モーイェン)は片手で包むようにつかんだ。


「それが知りたいなら、本人に訊くのだな」


 突き放すようなその一言が、(チョン)書杏(シューシン)の胸を余計に深くえぐった。

 傷つき意気を失った彼女の手を引き、(リン)墨燕(モーイェン)は再び歩き出した。


 先ほどよりもずっと緩慢な歩調で、白壁がどこまでも続く皇城の道を並んで歩いた。(リン)墨燕(モーイェン)食盒(おかもち)を持たせたままであることに(チョン)書杏(シューシン)は気づいたが、そこに感謝を抱ける心の余裕はなかった。彼に手を引いて貰うことで、すぐにでも立ち止まりそうな足をやっと前に出している。


 ほどなくして皇城の内外を繋ぐ楼門が見えてくると、(チョン)書杏(シューシン)の足はますます重くなった。


 門外には、(チョン)家の輿(こし)と侍女を待たせてある。それを思うだけで堪えようのない不安がもたげる。繋いでいる手に(チョン)書杏(シューシン)が無意識に力を込めると、しばらくの間があってから(リン)墨燕(モーイェン)も同じくらいの力で握り返してきた。


 門を通るときに守門の皇城司がやや意表を突かれた顔をしていたが、(リン)墨燕(モーイェン)は気にする素振(そぶ)りを見せなかった。


三娘子(さんじょうし)


 楼門を出たところで呼びかけられ、(チョン)書杏(シューシン)の肩が跳ねた。離離(リーリー)の軽い足音が、(かたわ)らまで駆け寄ってくる。


「お帰りなさいませ、三娘子。四娘子(しじょうし)のごようすは、いかがでしたか」


 離離(リーリー)は普段と変わらぬ、落ち着いた調子で語りかけてくる。そのことが言いようのないほど恐ろしく感じられて、(チョン)書杏(シューシン)は振り向けなかった。(リン)墨燕(モーイェン)と繋いだままの手に視線を落とし、ただじっと唇を引き結ぶ。


「三娘子?」


 うつむいたままの(チョン)書杏(シューシン)を怪訝に思ったようすで、離離(リーリー)が顔を覗き込んできた。(チョン)書杏(シューシン)は慌てて顔を逸らし、繋いでいた手も素早く振り払って引っ込めた。その動作が離離(リーリー)をさらに不審に思わせると分かっていても、(もつ)れた感情では彼女の顔を見ることさえ(チョン)書杏(シューシン)には負担だった。


 すると、令嬢と侍女の間へ割って入るように、(リン)墨燕(モーイェン)食盒(おかもち)を差し出した。


(チョン)三娘子(さんじょうし)は初めて牢獄を見て気分が悪くなったらしい。早く連れ帰って休ませてやれ」


 食盒(おかもち)を押しつけられた離離(リーリー)は、戸惑い顔で(リン)墨燕(モーイェン)を見上げる。それからもう一度だけ(チョン)書杏(シューシン)の方を見て、彼の言う通りらしいと判断したようすで食盒(おかもち)を受けとった。


「かしこまりました。お心づかい感謝いたします」


 離離(リーリー)が礼儀に(のっと)った挨拶をする。その間に(チョン)書杏(シューシン)は彼女の脇をすり抜けて、門の脇で待っている輿へ向かった。離離(リーリー)がまた傍へくる前に素早く輿へ乗り込み、(すだれ)を下ろさせる。


「できるだけ急いで帰って」


 (チョン)書杏(シューシン)の急かす声に応えて、慎重に担ぎ上げられた輿がすぐに進み出す。


「三娘子、お体は大丈夫ですか」


 (すだれ)越しにまた離離(リーリー)が声をかけてきた。(チョン)書杏(シューシン)が返事をせずにいると、歳下の侍女はついに諦めたように黙り込んだ。


 いつも通りに輿の横をつき従って歩く侍女の足音を聞きながら、(チョン)書杏(シューシン)は深く深く息を吐き出した。

 自分の態度がよくないのは重々自覚している。それでも今は、感情と思考を整理する時間を置かなければ、離離(リーリー)になにを言ってしまうか分からなかった。


 (チョン)紅杏(ホンシン)を陥れた方法が『霜葉紅』の通りだとしたら、実行できるのは(チョン)書杏(シューシン)を除いて――共に巧果作りをした離離(リーリー)しかいないのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

★ 前作 ★

狡猾な男女による、華麗なる策略ロマンス群像劇。

『わたくしが溺愛されるのは当然です ― 薔薇たちの純愛革命 ―』
『わたくしが溺愛されるのは当然です ― 薔薇たちの純愛革命 ―』PR画像

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ