第一集 葬礼
【訃報】『霜葉紅』の作家・鴇遠リンさん死去。
マンションの外階段をくだる途中で、桃蕊明日実はぴたりと足を止めた。まばゆいスマホ画面に映し出されたネットニュースの見出しに、瞳も意識も釘づけられる。
『霜葉紅』とは、中華風ロマンス小説『霜葉紅―さやけき恋は花より紅なり―』のことだ。官僚の庶子と公爵家の嫡男による身分差の恋を描いたシリーズは、数年前から女性を中心に人気を博し、少し前には映像化決定が報じられた。
その『霜葉紅』の作者、鴇遠リンが亡くなったという。
血の気が失せて震える指先で、ニュース見出しを恐る恐るタップする。
鴇遠リンの脳腫瘍が報じられたのは、半年ほど前のことだ。
『霜葉紅』はまだ完結していない。だから、鴇遠リンは必ず病魔に打ち勝って、この先も美しい作品世界を見せてくれるはず。そう信じて、ページが黄ばんでへたるほど既刊を読み返し、ファンレターも絶えず書いては送り続けた。
鴇遠リンの作品を待っている読者はいるのだと伝え、わずかでも力になればと――願いは、届かなかった。
訃報記事の内容は、さっぱり頭に入ってこなかった。思考も感情も動きを止めている。無意味にスマホに見入ったまま、階段から靴を引き剥がすように足を前へ出した。
ゆっくりと次の段差を踏む――踏み損ない、段差の角が靴底を削った。
「あっ」
驚いて声を出したときには、コンクリートに後頭部を打った。視界が白く弾けて消える。
なすすべもなく、桃蕊明日実は冷たい外階段を転がり落ちていった。
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突然、体を投げ出される感覚に見舞われ、成書杏はびっくりして目を上げた。慌てて左右を見回し、足もとへ目線を落とす。
九歳の彼女の体は、板床に敷いた円座にしっかり膝を揃えて座っていた。それでも、高所から落っこちたときの冷えた感触が、背筋にはっきりと残っているようだった。
改めて、成書杏は顔を上げた。
梁から垂らした白幕で囲われた堂内に、同じ白の喪衣を纏った成家の人々が、こちらに背を向けて並び座っている。疲れ果てたようすでうつむく彼らの体の向く先を見やれば、線香が煙る祭壇の上に、真新しい位牌と棺が安置されている。それらは、白で覆われた堂内でそこだけ穴を空けたように黒かった。
不謹慎にも、葬礼の最中にうたた寝をしてしまったらしい。やや決まり悪く、成書杏は喪衣の頭巾を深く被り直した。
棺の傍では妹の成紅杏が、痩せた体を弱った虫のごとく縮めてうずくまっていた。妹とは言っても、生まれた日は成書杏と三ヶ月しか違わない。母親が別なのだ。そしてこの葬礼は成紅杏の母、秋氏のものである。
秋氏の死因は、出産だった。予定より一ヶ月半も早く産気づきながら、胎児が大きくなり過ぎていて産道を通れなかった。秋氏は身を裂かれる痛みに三日三晩苦しみ、血の海で力尽きるように、赤子と共に息を引きとった。
母親同士の確執により成書杏は秋氏とさほど親しくしていなかったので、死んだと聞いても大した悲哀はなかった。けれど昼夜を問わず邸に響き渡っていた悲鳴と呻きは、出産というものに対する恐怖心を未熟な少女へ植えつけるには十分だった。
秋氏は、商家から嫁いできた側妻に過ぎない。彼女の死によって、成紅杏は成家での後ろ盾を失った。
これから先、妹を待ち受ける困難がどんなものであるか。ぞっとするほど鮮明に想像ができて、同じ庶子として成書杏の胸にも多少の同情心が湧く。
「三娘子」
生まれ順を示す呼称で呼ばれ、成書杏は振り返った。歳下の幼い侍女が、年齢に似合わない恭しさで背後に跪いていた。成書杏が軽く首を傾けると、侍女はいざり寄って耳打ちした。
「雨世子がお見えです」
途端に、成書杏の気持ちは明るくなった。感情の高揚するままに立ち上がり、駆け足にならない程度の速歩で正房を出る。
内院の先にある門のところに、ひと足先に客人を迎えに立った二番目の兄――この二兄も成書杏とは腹違いだ――の後ろ姿があった。二兄・成章桑が挨拶をしている相手こそ、お目当ての世子だ。
成書杏は海棠の咲く内院の小径を駆け抜けると、二兄を押しのけるように世子の正面に立った。
「雨世子にご挨拶いたします」
最大限に上品にみえるよう、成書杏は礼をする。十五歳の浩国公世子が、涼しい目元を苦笑気味に細めた。
浩国公爵の世子・蕭雨は、成書杏の知る郎君の中でもっとも高貴で美しい君子だ。学友の妹である成書杏にも、彼はまるで大人の女性に対するのと変わらぬ丁寧さで接してくれる。やや目尻の垂れた柔和な美貌は、質素な喪衣を着ていようと、わずかも魅力が目減りしない。
蕭雨は重ねた両手を胸の前に押し出し、成書杏に向けてうっとりするほど優雅な拱手をした。
「成三娘子。このたびは、お悔やみを申し上げます」
自分の親が死んだわけではないので、成書杏としては少しも悔やむ感情はない。ただ蕭雨が自分に話しかけてくれたことが嬉しく、彼女は好意を少しも隠さない眼差しで彼を見上げた。
そんな彼女の肩を、先ほど押しのけられた成章桑が軽く叩いた。
「書杏。林墨燕にも挨拶を」
二兄に言われてようやく、成書杏は蕭雨の後ろにもう一人、郎君がいることに気づいた。
林墨燕はどこか気が進まなそうな、退屈そうな表情で、数歩遠くに佇んでいた。切れ長い目元が冷たい印象なせいで、余計に不機嫌に見える。おそらく蕭雨に呼び出されて、仕方なくついてきたのだろう。
正直、まるで愛想のない林墨燕が、成書杏はあまり好きでない。同じ私塾で学ぶ仲間とはいえ、二兄と世子がなぜ彼と特別親しくしているのか、理解できなかった。
しかし目の前にいるからには、無視をするのは名家の子女として礼儀にもとる。
「林公子にご挨拶します」
公子とは、他家の子弟に対する尊称である。
成書杏がおざなりに挨拶をすれば、林墨燕も無言のまま気のない拱手をした。
二人のやりとりを見届けた蕭雨が、成章桑へ向き直った。
「章桑、紅杏は」
「こちらだ。ひどくとり乱しているから、少し声をかけてやって欲しい」
成章桑が道を空けて正房の方を示し、蕭雨はうながされるまま門檻をまたぐ。
成書杏は咄嗟に手を伸ばして、蕭雨を引き止めようとした。挨拶をしただけで、彼とまだなにも話せていない。それにどうせ今の成紅杏は、まともに会話できる状態ではないのだ。ならば成書杏が世子の相手をする方がずっといいはずだ。
なにより、どんな場面でも他人に蕭雨を譲るのは嫌だった。特に、妹には。
ところが、それは駄目だ、という考えが急に成書杏の頭をよぎった。
蕭雨を止めてはいけない。彼は、成紅杏の隣にいるべき男性なのだから――と。
思考に従うように、世子の袖をつかもうとしていた手がすんでのところで止まった。それに気づかないまま早足で離れていった蕭雨が、成紅杏の待つ正房へ入っていく。その後ろ姿を、成書杏は門の前から黙って見送った。
世子と二兄の背中が見えなくなった瞬間、成書杏はハッとして自身の手を見た。
なぜ、引き止める手を途中で引いてしまったのか。なぜ、妹のもとへ彼を行かせてしまったのか。
降って湧いた思考と、それに伴った行動が、まるで自分のものと思えない。混乱をきたして、蕭雨の歩み去った春の院子へ呆然と目をやる。
ふと、傍らから視線を感じて、成書杏は顔を振り向けた。林墨燕の鋭い眼差しと間近にかち合い、思いがけずぎょっとする。そういえば、正房に入っていった郎君は二人だけだった。
成書杏がつい足を一歩引くと、林墨燕の眉間にかすかな皺が寄った。
「君は、本当に成書杏か?」
「……は?」
答えが一つしかない問いを唐突に投げられ、成書杏は真抜けた声が出てしまった。こちらを観察していると分かる林墨燕の目つきも不躾で、なにやら腹が立ってくる。
「質問の意味が分かりません。もう何度もお会いしているのに、なにを言い出すの」
唇を尖らせて、成書杏は林墨燕を睨み返した。彼は少しも動じずに、やや考えるようすで口元に手を当てた。
「よく素直に、蕭雨を行かせたな」
先ほどとは別種の驚きで、成書杏は目を瞠った。確かにらしくない行動だったが、他人から指摘されるほどのことではあるまい。それをあえて口にした彼への警戒心が、首をもたげる。
「だって、紅杏は母親が死んだのよ。世子が傍にいた方がきっと早く元気に――」
「やはり成書杏の思考ではないな」
咄嗟の言いわけを、林墨燕が遮った。成書杏はますます苛立った。
年齢では成書杏の方が下であるが、無位無冠の地主に過ぎない林家よりも、官位ある成家の方が家格は上だ。その成家の三娘子に対して、彼の態度はあまりに無礼だ。
「まったく意味不明です。あなた、わたくしのなにを分かって……」
「霜葉紅――」
脈絡なく発せられた単語に、成書杏は息をのんだ。驚きのせいで、再び発言を遮られたことへの怒りさえ沸かなかった。脳髄に針を刺されたように、頭の中心に痺れが走る。
続く言葉を確かめたくて、成書杏は目を大きくして林墨燕の唇の動きに見入った。
「――さやけき恋は花より紅なり」
思った通りの言葉が紡がれて、成書杏は一時、呼吸を忘れた。
知っている言葉だと、断言できた。林墨燕の口から聞くまで少しも意識に上らなかったのが不思議なほど深く、身の内に刻みつけられている言葉だ。
だが、なぜ知っているかの記憶は朧気だった。必死に考えるほど、痺れた頭の中心が熱を持ち、視界で白い光がチカチカと弾けて足もとが揺らぐ感覚に襲われる。
凍ったように立ち尽くす成書杏を見下ろし、林墨燕が息をこぼして笑った。
「顔色が変わったな。どうやら君は、わたしと同じみたいだ」
「同じって……あなた、誰?」
顔見知りの相手にする質問でないことは、成書杏もよく分かっていた。それでも、そう問わねばならない気がした。
林墨燕の薄い唇から、笑みが消える。
「鴇遠リン」
刹那、海棠の枝がざわめいた。紅い花弁の舞に煽られて、記憶の蓋が開いていく。
『霜葉紅―さやけき恋は花より紅なり―』
一字一句覚えるほど読み返した本の題名を、忘れるはずがない。その作者の名前も。
高鳴る鼓動が眠る記憶を叩き起こし、思い出させる。
成書杏も、林墨燕も――小説『霜葉紅』の登場人物の名である、と。