第十七集 鞭打
成宅に帰り着くと、真昼にもかかわらず門が閉まっていた。首をかしげつつ門扉を押してみると、内側の閂がかけられていてビクともしない。ざわつくような嫌な予感を覚え、成書杏は門を叩いた。
「門を開けて。書杏よ。誰かいないの?」
声をかけながら何度も叩いて、やっと門扉の向こうから物音がした。ゆっくりと門扉が開き、顔を覗かせたのは離離だった。歳下の侍女はちょっと目を瞠ってから、すぐに成書杏に道を空けた。
「お帰りなさいませ、三娘子……お一人ですか?」
成書杏の後ろに誰もいないのを見て、離離が怪訝な表情をする。成書杏は構わず門檻をまたいで、すぐに門を閉めさせた。
さっさと外院を先に歩き出す成書杏の後ろを、離離は早足に追いかける。
「二公子とご一緒ではなかったのですか」
半歩後ろの位置へ追いついたところで、離離がやや切羽詰まったような早口で言った。成書杏は正面を向いたまま歩調を緩めずに答える。
「緊急事態があって、二兄上は世子と一緒に皇城へ行ったの。それより、父上はまだいる?」
時刻的に、そろそろ昼食を終えて午後の出仕に向かっていてもおかしくない。まだ出発する前であれ、という期待を込めて成書杏が問うと、離離は弱々しく答えた。
「旦那様はいらっしゃいます。ただ……」
急に歯切れが悪くなったのが気になり、成書杏は足を止めて侍女を振り返った。
「なにかあったの?」
離離は成書杏にぶつかりそうになって慌てて立ち止まると、なぜか怯えたように顔を強張らせる。
侍女と邸のようすに違和感を覚えた成書杏は、急いで正房へ行くべきだろうと判断して進行方向へ素早く向き直った。瞬間、離離が手をつかんで引き止めた。
「今、正房へ行かれない方がいいです」
離離の余裕ない態度に、成書杏はますます訝しんだ。
「どうしたの? なにかあったのなら、はっきり――」
内院の方から悲鳴が聞こえて、成書杏は飛び上がるほどびっくりした。続いて、なにごとか喚く男声まで聞こえてくる。成書杏は弾かれるように駆け出した。
二門をくぐったところで、正面にある正房の前に父・成元の姿が見えた。緋の公服のままで、開け放された正房の入口に立ち、しきりに身振りしながら喚き散らしている。
成元が大きく振り上げた手に、体罰用の竹鞭が握られているのが見えた。直後、振り下ろされる。竹鞭の向く先に白氏がうずくまっているのに気づいて、成書杏は戦慄した。
高く響く鞭打の音と、悲鳴があがった。
追い打ちをかけるように、成元は白氏を内院に向かって蹴り出す。白氏の体が地面をのたうち転がった。
「母さん!」
成書杏は夢中で内院を駆け抜けて白氏に掻いついた。生母を背に庇って、成元の前へと身を割り込ませる。白氏が褙子に縋りついてくるのを感じながら、成書杏は父を鋭く睨みつけた。
「父上、なにをなさっているのですか!」
叫んだ成書杏を、成元が血走った目で睨み返した。
「なにをしているかだと? 自分の母親に聞け!」
竹鞭を振り回しながら怒鳴られ、成書杏は思わず怯む。成元がこれほどまでに怒り狂ったことは、過去に遡っても記憶にない。
今日はなんという日だ、と思いつつ、成書杏は背後で震えている白氏へそっと目をやった。
「母さん、なにがあったの」
白氏は、我が子の褙子にしがみついて嗚咽した。
「わたくしは、ただ……ただ、阿蒿の力になってあげただけで……書杏、助けて。阿蒿はあなたの兄なのよ。助けてやって」
「お前はまだ章蒿を庇うのか!」
成元がまた叫んで竹鞭を振り上げた。白氏が怯えて悲鳴をあげる。成書杏は慌てて両手を伸ばして、父が腕を振り下ろすのを留まらせた。
「待ってください、父上! お願いだから待って!」
成書杏の制止で、成元の動きに一瞬だけ躊躇いが生じた。いくら激怒していても、自身の娘を打つのは心苦しいのだろう。
その隙に、成書杏は急いで言葉を継ぐ。
「父上、まったく話が見えません。一体なにがあったのですか。大兄上になにか?」
成元は鞭打する代わりに、竹鞭の先端を成書杏の鼻先に突きつけた。
「いいだろう。教えてやる。章蒿はお前の兄だからな」
一呼吸置き、成元は一語一語を強調するように続ける。
「章蒿が逃亡した」
成書杏は眉をひそめた。
「大兄上が逃亡? それで、なぜ母さんを打つのですか」
なにが起きているか、成書杏にはもう分かっていた。それでもつい、生母を庇う言葉が出てしまう。改めて現状を確認するように、成書杏は父と生母の間で視線を行き来させる。
娘の当惑をせせら笑うように、成元が鼻を鳴らした。
「奴は元々、家から逃げているからな。そこはそう驚くところでもないだろう。問題は、茶の密売の嫌疑をかけられていることだ!」
ひょうと音をたてて、威嚇するように成元が竹鞭を振った。それだけで白氏は喉を甲高く鳴らして体を縮ませる。
成元は成書杏を通り越して、白氏に向かって竹鞭を突き出した。
「近頃わたしの留守中に、章蒿が雪柳閣に出入りしていたのは知っている。それを黙認してやっていたらこれだ! これから成家はどうなる! わたしが身を削って、ここまで盛り立ててきた家だぞ! 長子が罪人になるなぞ、どう見られると思う! 我が家はおしまいだ!」
竹鞭の先を揺らして、成元はがなり立てる。反射的に首をすくめながら成書杏は、やはり、と状況のすべてを理解した。
茶の密売が露見し、関わっていた成章蒿が逃げた。公務中にその報せを受けた成元は、慌てて帰宅したに違いない。
白氏は出資しているのだから、当然、無関係とはいかない。
だが成書杏の中でより気がかりなのは、成章蒿の逃亡と、成紅杏の逮捕がほぼ同時に起きていることだ――『霜葉紅』の筋書き通りに。
成元の持つ竹鞭の先端が、また成書杏の方へ向けられた。
「帰ってきたならちょうどいい。書杏にも聞こう。章蒿がどこにいるか言いなさい。今、突き出せば、まだ家の破滅まではまぬがれる」
やはり、成元が心配するのは、自分と家の世間体ばかりだ。そんな父の態度への嫌悪と反発を込めて、成書杏は睨む眼差しを強くした。
「客桟にいないのなら、それ以上はわたくしも知りません。母さんを打っても分かるはずありません。それに父上、問題が起きているのは大兄上だけではないのです。さっき、紅杏が捕らえられました」
「なに?」
意表を突かれたように、成元が顔をしかめた。意味の浸透に時間がかかっているようすで、口を開けたまま言葉を失う。その一瞬で成書杏は竹鞭をよけて、両手を体の前についた。
「皇城司に紅杏が連れて行かれて、茶坊も閉鎖されました。理由は分かっていませんが、なにが起きているか確かめるために二兄上と雨世子が皇城へ行っています。わたくしはそれを報せるために、急いで帰ってきたのです」
成元に口を挟まれる前に、成書杏は一息で捲し立てた。絶句してそれを聞いた成元の腕が、次第に震え出す。
成元が竹鞭を地面に叩きつけた。凄まじい音をたてて、竹鞭が真っ二つに折れる。
「我が家には罪人しかおらんのか!」
「違います!」
成書杏は咄嗟に叫び返した。
「大兄上はともかく、紅杏がそんな娘ではないことくらい、父上にも分かるでしょう? なにかの誤解に決まってます。今は、二兄上が帰ってくるまで待ってください。紅杏のことも、大兄上のことも、そのあとで話し合っても遅くありません」
ただただ必死に、成書杏は言い募った。怒りのあまり我を忘れている成元を今だけでも抑えられねば、それこそ家族がばらばらになり、とり返しがつかなくなる。
成元は顔を真っ赤にして、しばらく体を戦慄かせていた。それでも成書杏の訴えはどうにか届いたようで、なにも言わないまま鼻を鳴らし、足音も荒く正房へと入っていった。
成元が歩み去ったとみるや、成書杏はすぐさま振り返って白氏の肩を支えた。
「母さん。雪柳閣に戻りましょう」
立たせるために成書杏が背中に触れると、白氏の肩がびくりと跳ねた。竹鞭で打たれて傷ができているのだ。早く手当てをせねばならない。成書杏も何度か手の平を打たれたことがあるので、痛みは分かる。
なりゆきを見守っていた離離が駆け寄ってきた。すっかり憔悴している白氏を二人で支えて、慎重に歩き出す。
正房を回り込んで裏にある雪柳閣に向かいながら、成書杏は立て続く事態に今にも足もとがふらつきそうだった。
本当に『霜葉紅』の通りであるならば、成章蒿の逃亡と成紅杏の逮捕は無関係ではない。
逃げた成章蒿が残したもの中に、成紅杏との繋がりを示す証拠があったのだ――本来なら、成書杏が偽造して仕込むはずの証拠が。
成書杏に代わって、成紅杏を陥れている者がいる。
そんなことをする人物はやはり、『霜葉紅』を知る林墨燕しかありえない。
成書杏は怒りに震え、奥歯を強く噛み締めた。