第十六集 閉鎖
やはり、と思った途端に足の力が抜けて、成書杏はその場に座り込んだ。手摺りにしがみついてやっと上体を支えながら、目は皇城司の腰牌に釘づけられて離れない。
成書杏と同じように、蕭雨も腰牌を凝視して立ち尽くしている。武官が腰牌を帯に戻すと同時に我に返った彼は、眉をひときわ厳しくそびやかした。
「なぜ天子直属の衙門がこのような横暴をっ――」
勢いに任せた蕭雨の詰問が唐突に途切れた。一階におりた成章桑が、背後から思い切り襟を引っ張ったのだ。
「君は前へ出るな」
蕭雨は仰け反ってたたらを踏んだ。
「章桑、なにをする」
「自分の立場を考えろ。君が出ては、事が大きくなり過ぎる」
公爵家の世子が、天子の息のかかる皇城司の公務を妨害したとなれば、大問題となるのは必至だ。成章桑はさらに強く襟を引っ張って、蕭雨を力尽くで皇城司から離れさせる。
後ろへ追いやった世子と場所を入れ替わるかたちで、成家の二公子は進み出た。先ほど腰牌を見せた司卒に向かって、彼はきっちりとした拱手をする。
「わたしは翰林院編修の成章桑。その女子はわたしの妹です。皇城司はなにゆえ彼女を捕らえるのでしょうか」
わざとらしいほどの丁寧な仕草で、しかし決して謙るでなく成章桑は問うた。
この場での指揮官とみられる司卒は、成章桑の名乗りに応える形で拱手を返す。
「成編修。成紅杏はある事案の重要参考人のため、皇城司で身柄を預かります。捜査が終わるまでは茶坊も閉鎖しますので、すみやかに立ち退き願います」
「茶坊まで閉鎖を? 一体なにが起きて――」
「捜査に関わることはお伝えしかねる」
成章桑の問いを冷たく遮り、皇城司の指揮官は片手を挙げて周囲へ合図する。すると他の司卒らが一斉に散り、茶坊にいる人々を追い立て始めた。
二階へ駆け上がってきた司卒によって、成書杏も手荒く腕をつかまれ立たされた。引っ立てられるかたちで階段をおりると、成章桑がすっ飛んできて、司卒から奪い返すように成書杏の肩を抱き寄せた。
「言う通りに出ていくから、乱暴はよしたまえ」
成章桑は目の前の司卒を睨みつけてから、成書杏を庇うように肩へ手を置いたまま歩き出す。彼はさらに、気色ばんでいる蕭雨もつかまえて、茶坊の外へ急き立てた。
出口へ向かう途中で、成書杏は不安を抑えられず、ちらとだけ成紅杏の姿を窺った。四妹はさっきまで捻じり上げられていた腕を解放されていたが、四方を司卒に囲まれていて、逃げようなどと考えるのも無理な状態だ。丈高い司卒らの隙間から見えた顔は、今にも倒れそうなほど血の気がなかった。
霜葉茶坊にいた人々は、客も給仕も関係なく、あっという間に残らず追い出された。わけも分からず慄く人々の前で、茶坊の扉が音をたてて閉まる。すみやかに、立ち入りを禁ずる張り紙がされ、扉の前に見張りの司卒が立った。
一体なにごとかと集まった人垣を割って、河沿いの通りを成紅杏が連行されていく。そのあとを蕭雨が追いかけようとしたが、成章桑が強く腕をつかんで放さなかった。
もどかしい思いで見送るしかできないでいる彼らのもとへ、孫女将が人垣を掻き分けて駆け寄ってきた。
「世子、二公子! 四娘子は……紅杏は、どうして」
狼狽えて二人の前に膝をついた孫女将に、蕭雨が慌てて両手を差し伸べた。
「孫さん、立ってください。きっとなにかの間違いです。紅杏が罪を犯すなど絶対にありえない」
蕭雨は咄嗟に励ますように言ったが、声には明らかに動揺と焦りがあった。そんな彼の手へ、さらに動揺が露わな孫女将が縋りついた。
「紅杏は絶対に悪いことなどしません! 世子と二公子のお力で助けてください!」
「紅杏は必ずわたしが助けます。ですから孫さん、とにかく跪かないで」
そうした彼らのやりとりを数歩後ろから見ながら、成書杏はなにが起きているのか理解をしようと懸命に思考を巡らせた。
『霜葉紅』には、成紅杏が投獄される場面が確かに存在している。嫉妬を募らせた成書杏に陥れられ、罪を被せられたことで起きる事件だ。
だが、今の成書杏はなにもしていない。にもかかわらず成紅杏は捕らえられた。
善良な成紅杏が罪を犯すなど、蕭雨らの言う通りまずありえない。陥れられたのだとしたら、一体、誰の仕業なのか。
「……林墨燕に会わないと」
思考が口をついて出た。ごく小さな呟きだったので、誰も反応は示さない。
隣に立つ成章桑の袖をつかみ、成書杏はもう一度、声を大きくして訴えた。
「二兄上。林墨燕に会わないと」
すぐに振り向いた成章桑は、厳しい表情で頷いた。
「そうだな。墨燕なら、なにが起きているか把握しているはずだ」
顔を正面に戻した成章桑は、孫女将をなだめている蕭雨の肩を叩いて注意を引いた。
「蕭雨。わたしはすぐに墨燕のところへ行って、なにが起きているか聞きだしてくる」
「わたしも行こう」
間髪をいれず、蕭雨は前のめりに言う。成章桑の表情に渋い色がよぎった。
「しかし、成家のことに浩国公府を巻き込んでは――」
「紅杏が連れて行かれて、関わらないでいられるものか。わたしが紅杏を救わなくては」
蕭雨が切実な響きで言い募り、成章桑は困ったように耳の後ろを掻いた。
「まったく、君は……分かった。国公世子のお力を借りるとしよう」
成章桑が諦め気味に受け入れたことで、二人の間で話が決まった。そこへ、成書杏は咄嗟に割り込んで声をあげた。
「わたくしも行くわ」
ところが成章桑は、これにはきっぱりと首を横に振った。
「駄目だ。書杏は皇城に入れない」
「でも……」
「墨燕には、わたしと蕭雨で話を聞きに行く。書杏は先に邸に帰りなさい。皇城司が動いているとなると、少なくとも罪状に官吏が関わっている。紅杏が捕らえられた以上は、家にも影響があるはずだ。急いで父上と母上にこのことを報告して、しっかりと邸の門を閉ざすんだ。墨燕から事情を聞き出せたら、わたしもすぐに帰る」
冷静さを保って今後の事態を想定する成章桑に、本来なら頼もしさを覚えるべきだろう。しかし、林墨燕に成書杏が会うのと、それ以外の者が会うのでは、まるで意味が異なる。
もどかしさで成書杏が顔を歪めると、それを怯えと思ったらしい成章桑に頭を撫でられた。
「安心しろとは言ってやれないが、なにがなんでも墨燕に洗いざらい吐かせてくる。機密よりも紅杏の潔白を確かめることの方が重要だ」
成章桑は言い切り、もう一度だけ成書杏の頭を撫でてから蕭雨の肩を押した。
「急ぐぞ、蕭雨。書杏は気をつけて帰れ」
もう一度だけ念押しするように言って、成章桑は蕭雨と共に駆け出した。
その場に残された成書杏は、あっという間に遠ざかる二人の背中を呆然と見送った。
胸の内は炙られるような焦燥感で息苦しいほどなのに、林墨燕と会えないのではなにもできない。成書杏の意思などお構いなしに、『霜葉紅』の物語は進んでいく。
運命にあらがう困難さに成書杏は唇を噛み締めるも、塞ぐ感情を振り切るように足を踏み出した。
たとえ『霜葉紅』の通りに見えても、成書杏が罪を犯していない以上は本来の形ではない。まだ、あらがう道はいくらでもあるはずだ。
孫女将は、浩国公世子と成二公子が動いてくれると分かったことで、落ち着きをとり戻していた。
霜葉茶坊でなにか変化があれば報せるよう女将に頼んで、成書杏は二兄の言う通り帰宅するべく、桟橋を駆けて小舟に飛び乗った。