第十五集 急転
成書杏は林墨燕と卓を挟んで、甘い茶と干果を摘まみながら七夕の舟遊びを楽しんだ。舟を降りたあとには、はぐれた兄妹とすぐに合流することができた。
どういう情報網なのか、舟遊びをしている間に成書杏の居所が二兄・成章桑に伝わっていて、末妹・成妙杏と共に舟つき場で待っていたのだ。
三妹を保護したのが皇城司でよかったと、成章桑は林墨燕にずいぶんと感謝を向けていた。
はぐれたのは末妹の奔放さが原因であるのに、自分が悪いように言われたのが成書杏としては少々気に入らなかった。が、兄妹と一緒でなかったゆえに楽しめた部分もあるので文句は呑み込んだ。
成章桑、成妙杏との関係は、母親同士の確執に目をつぶれば兄妹として良好と言える。けれど嫡子二人の間に、一人だけ母の違う庶子として入り込んでいると、ときおり名状しがたい居心地の悪さを覚える瞬間があるのも事実なのだ。まるで自分が、異物となったような。
林墨燕と行動している間は、その種の感情は生じなかった。反目する関係にありながら意外にも気詰まりでなかったのは、互いに『霜葉紅』を知る無二の相手だったからだ。
七夕が過ぎたあとは、なにごともない日常が戻ってきた。
成紅杏と蕭雨の関係が明らかに進展し、ときおり大兄・成章蒿が成宅に顔を出す以外は、拍子抜けするほどつつがない。
成章蒿はいまだ客桟に身を置いていて、生母の白氏に会う以外は邸に居着かなかった。長く留守にしていた気兼ねからなのか、他に理由があるのか。雪柳閣での姿を見ているだけでは判断がつかない。
外での大兄のようすを離離を通じて奴婢らに見張らせているが、やはりと言うべきか、とり立てて怪しげな話は聞こえてこなかった。
林墨燕の動向も知りたいところではあるが、さすがに皇城司ともなると一介の令嬢ごときに探れるものではない。
気がかりなことは多いものの、できることもないので、成書杏はこの平穏が続くことを祈りつつ日々を過ごした。
立秋を過ぎ、朝夕の外出には団扇でなく薄手の外套が欠かせなくなってきた頃。
しばらくぶりに、成章桑と成姉妹に蕭雨を加えたいつもの面々が、霜葉茶坊に集まっていた。林墨燕だけは、皇城司の急な任務により不在だ。
官吏の休日はおおよそ十日に一度。今日のためにわざわざ調整までした貴重な休みに呼び出されたとあって、蕭雨と成章桑の二人は林墨燕にひどく同情した。
茶坊二階の個室に皆が揃ったところで、成紅杏が卓の中央に狐色の菓子の山を置いた。
「中秋節で出す月餅を色々と試作しているの。率直な味の感想を聞かせて」
成紅杏の言葉を聞き、蕭雨と成章桑がさっそく菓子へと手を伸ばす。
成書杏は紅果茶で口をさっぱりさせてから、幾何学的な花模様の月餅を摘まみ上げた。持ち上げるだけで、艶やかな狐色の薄皮の下にぎっしりと詰まった餡の重みを感じる。
旨い旨いと口をもごもごさせる二兄に倣って、成書杏も月餅をかじった。薄皮の下からこぼれ出た豆沙が、儚く溶けるように舌の上に広がる。甘やかな花の香を鼻腔に感じて、成書杏は幸福感に目を細くした。
「豆沙に桂花を入れたのね」
「甘みに桂花の蜜漬けを使っているの」
やや得意げに、成紅杏は声を弾ませて答える。そんな彼女の気を引くように、蕭雨も持っている月餅を目の高さまで掲げた。
「こちらの蓮蓉の餡も、とても香りがいい」
「蓮茶に使う花粉を混ぜてみたんです。ほんの少量ですけど」
「中の塩漬け卵黄もいい塩梅で、いくらでも食べられそうだ」
「わたしにも、その蓮蓉のをとってくれ」
一つ目の月餅を食べ終えた成章桑が、蕭雨の評価に興味をそそられたようすで反応する。
蓮蓉の月餅を皿ごと差し出しながら、蕭雨が小さく笑った。
「最近、甘いものが過ぎるのではないか。顎が丸くなってきている」
成章桑は眉を跳ね上げて、自身の顎をさする。
「そんなことはない……と思うが」
「鏡を見るべきだな。翰林院の仕事がきついのか?」
翰林院は、天子のお言葉となる詔書の作成を主な職掌としている衙門だ。進士の中でも科挙の成績がとりわけよい、文才のある者が特に選ばれて配属される。
成章桑は順調に出世の正道を歩んでいる。その栄光の裏に当然ついて回る気苦労を、蕭雨は気づかった。
ところが、成書杏はそこへ水を差した。
「違うわ。ただの幸せ太りよ」
成書杏は月餅の最後のひと口を紅果茶と一緒に飲み込んでから、さらに続ける。
「中書侍郎のご令嬢との仲が順調なのよ。あんなに縁談を嫌がっていたのに、実際に本人を前にしたらすっかりのぼせ上がって。本当に美人に弱いのだから」
「兄に向かって、そんな言い種はないだろう。書杏は彼女の半分でも奥ゆかしさを見習うべきだな」
不満げに口を曲げて、成章桑は言い返す。むっとした成書杏は、二兄でなく蕭雨の方へ身を乗り出した。
「世子も思います? 女子は奥ゆかしくあるべきだって」
「理想とするところは人それぞれなのだから、流儀を曲げてまで特定の価値観に合わせる必要はないだろう」
端然として、蕭雨は述べる。その目線がちらと成紅杏の方を窺ったのを、成書杏は見逃さなかった――確かに成紅杏は、奥ゆかしいとは少し違った女子ではある。
成紅杏と蕭雨の関係はまだ表立っていないが、気心の知れた仲間内では言われずとも二人の雰囲気だけで周知のことだった。
そのとき、室の外でなにかがぶつかるような大きな音がした。続いて、いくつかの悲鳴。びっくりして、室内の全員の顔が扉の方へ向く。
「少し見てくる」
成紅杏が素早く言い置いて、室を走り出ていく。室内に残った三人が不安に顔を見合わせると、すぐに成紅杏が叫ぶのが聞こえた。
「なんなの、あなた達!」
直後、ばたばたと暴れる足音が聞こえ、成紅杏の声が悲鳴に変わる。
蕭雨が弾かれるように立ち上がった。
「紅杏!」
扉に体当たりする勢いで蕭雨が飛び出し、成書杏と成章桑も慌ててあとに続いた。
回廊の吹き抜けから茶坊一階を見下ろし、成書杏は凍りついた。黒衣の集団に、茶坊が占拠されていた。
賊の類いではない。武官の幞頭を被っている。ことごとく上背があるので、黒い壁がそそり立っているような威圧感だ。彼らが着ている揃いの黒衣に、成書杏は見覚えがあった。
誰も剣を抜いてはいないが、力ない人々に脅威を感じさせるには十分だ。茶坊の客も給仕も息をのむばかりで、誰一人として身動きできずにいる。その中心で、成紅杏が腕を背中に捻じり上げられ拘束されていた。
蕭雨が階段を駆け下りた。そのあとに続こうとした成章桑の袖を、成書杏は思わずつかんだ。
「二兄上」
「わたしに任せて、お前はここにいなさい」
成章桑は怯える成書杏のなだめるように言って、袖から手を放させる。その間に、階下から蕭雨の怒声が響いてきた。
「彼女を放せ! どこの衙門の指示だ!」
初めて聞く蕭雨の荒らげた声に、成書杏はますます肝を縮ませた。手摺りに縋って再び吹き抜けを見下ろすと、成紅杏を拘束している武官へ食ってかかるように詰め寄る蕭雨が見えた。
今にもつかみかからんばかりの浩国公世子の行く手を阻むように、別の武官が素早く前へ出てくる。その武官が帯に提げていたものをはずして突きつけると、蕭雨は瞠目して立ち止まった。
武官が見せたのは、所属を証明する腰牌だ。
獅子紋が意匠された金の腰牌の中央には、「皇城司」と文字が刻まれていた。
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