第十四集 七夕
乙女たちが女神・七娘に願いを託す七夕の夜。
成書杏は二兄・成章桑、末妹・成妙杏と共に繁華街へと繰り出していた。本当は日が沈み切る前に出かけるつもりだったが、成章桑の帰宅を待っていたらこの時刻になってしまった。
けれど七夕は、夜こそ本当の華やぎを見せるものだ。
節句を祝う綾絹と灯籠で通りという通りが飾りつけられた京城は、まばゆいばかりの光と色彩に満ち満ちる。あまりの明るさにせっかくの七夕の星河が霞むほどだが、往来する人々にとっては自身をより華麗に見せることの方が重要だ。
夜店で足を止めつつ行き交う男女は皆、色鮮やかに装って運命の相手を求め、あるいは愛する者と寄り添い歩いている。
その間隙に、成書杏は成紅杏の姿を見つけた。
霜葉茶坊は祭日に相応しく房つきの灯籠で飾りつけられていた。その扉の前に売りものを並べる卓を置いて、成紅杏は集まる人々にせっせと紫蘇熟水を振る舞っていた。
紫蘇熟水を求める人の列が途切れるまで少し待ってから、成書杏は呼びかけた。
「紅杏」
振り返った成紅杏は、歩み寄る兄姉妹らの顔を見るなり息をつくように表情を緩めた。
「二兄上、三姉上。妙杏も」
異母の兄姉妹それぞれに、成紅杏は嬉しげに笑顔を向ける。
今にもどこかへ走っていってしまいそうな末妹の肩を押さえた成章桑が、感心げに首を巡らせた。
「ずいぶんと繁盛しているようだな」
二兄の評価する通り、茶坊の前に並べられた椅子は満席だった。座り切れず近くに立ってたむろする人々も皆、紫蘇熟水で満たされた椀を持って喉を潤している。椀は葫蘆を半分に切った簡易なもので、飲み終わって空になったものは茶坊で回収しているようだ。
はにかむような表情をして、成紅杏は手に持っている細口の銀瓶を軽く揺すってみせる。
「そうなの。あんなに焼いた巧果はもう売り切れてしまって、紫蘇熟水もこれが最後のひと瓶」
「それならいい時にきたのね。わたくしも一杯貰うわ」
成書杏が銅銭を差し出して言うと、成紅杏はちょっと目を瞠ってからその手を押し返した。
「三姉上からお代は貰えないわ。巧果を作るのも手伝わせちゃったし」
「手伝った分の巧果はもう貰ったわ。妹に集るほど卑しくないわよ」
成書杏は成紅杏の手をつかんで、銅銭をしっかりと握らせる。四妹は握らされた手へ困惑げに目をやっていたが、諦めたように肩をすくめて笑った。
「ありがとう、三姉上。それじゃあ、少し多めに入れておくわね」
成紅杏は紫蘇熟水を椀へなみなみと注いで、成書杏に手渡した。
三娘子と四娘子の二人がやりとりする横で、末妹の成妙杏が二兄の袖を引っ張った。
「兄上、兎の飴があるわ」
「兎?」
成章桑が反応した途端、成妙杏は茶坊正面の河沿いにぎっしり並ぶ屋台の方角へ駆け出した。人混みの隙間をすり抜けてあっという間に離れていく末妹の姿に、成章桑がぎょっとした声をあげる。
「こら、妙杏! 勝手に離れるな!」
成章桑は慌てて、同腹の妹のあとを追いかけていく。成書杏が状況に気づいて顔を振り向けたときには、二兄と末妹の姿はすっかり人混みの中に紛れてしまっていた。
「妙杏ったら、本当に自由なのだから」
紫蘇熟水の爽やかな風味を味わいつつ成書杏がぼやくと、成紅杏も苦笑した。
「父上も嫡母上も、妙杏には特別甘いものね」
「嫡末子の特権ね」
成書杏が棘を込めて言うと、成紅杏は困ったように眉尻を垂れた。
そうした二人の会話へ割り込むように、茶坊から出てきた孫女将が成紅杏の隣に立った。
「四娘子。あとはわたしに任せて、三娘子と夜店を見てきなさいな」
「でも、これから片づけが――」
「紅杏」
成紅杏の返事は、まったく別の方角から飛んできた男声の呼びかけで遮られた。弾かれたように彼女が振り向くと、人混みを掻き分けてくる蕭雨の姿があった。
「世子」
「よかった、まだここにいて」
驚いて呼び返した成紅杏の傍へ、浩国公世子・蕭雨は一直線に駆け寄る。彼の柔和な美貌は、安堵にほころんでいた。
「邸を出るのが遅くなってしまったから、もう茶坊が閉まったあとかと。間に合ってよかった」
世子の笑顔を真っ直ぐに向けられて、成紅杏が若干のたじろぎを見せた。
「ごめんなさい、世子。紫蘇熟水はもう全部売れてしまって――」
「それはいいんだ。茶坊へ来れば、いつでも飲める」
蕭雨は焦ったように被せて気味に言ってから、口調を和らげて言い直した。
「間に合ってよかったと言ったのは、紅杏がまだいてくれてよかったということだ。君が茶坊を出てしまったあとだったら、今夜中に会うのは難しかったろうから」
蕭雨を見上げる成紅杏の目が大きくなった。灯籠にほの明るく照らされた頬が、暗がりでも変わるほど、にわかに血色を増す。
そのさまを横目に見た成書杏は、残りの紫蘇熟水を一気に飲み干して椀を置いた。
「わたくしは二兄上たちのところへ行くわ。紅杏は世子と楽しんで」
「あ、三姉上」
呼び止める声に気づかぬ振りをして、成書杏は早足にその場を離れた。そのまま二兄と末妹が向かったろう方角に目星をつけて、軒を連ねる屋台の前を歩いていく。
饅頭や干果といった飲食物ばかりでなく、男女対になった人形や、とりどり刺繍がされた香包、精巧な造花の飾りもの。河岸にひしめくように並ぶ屋台は実に多彩だ。
幻想的な灯籠の光の効果でより輝いて見える品々に目移りしながら、成書杏はようやく飴細工の屋台を見つけた。煮溶かした飴を串の上に垂らして作られた糖画が、琥珀色にきらめき並んでいる。龍や馬、蝶といった動物を描いた飴の中には、愛らしく跳ねる兎の絵もある。
末妹の言っていた兎の飴はこれに違いないと見当をつけ、辺りを見回す。しかし見える範囲に、二兄と末妹の姿は見つけられなかった。
しばらく周辺を歩いてみても人混みの中に二人の姿は見当たらず、成書杏はどうしたものかと考えた。茶坊へ引き返してもいいが、成紅杏と蕭雨の邪魔をするのも野暮だろう。こんなことならば離離を連れてきたらよかったと、少しばかりの後悔がよぎる。
かと言って、せっかくの七夕の夜を人捜しだけに費やすのも惜しいので、一人で夜店を回ってみることにした。兄妹が同じように夜店を見て回っているのなら、運がよければどこかで合流できるかもしれない。
成書杏は河沿いの盛り場を上流に向かって歩き、橋を渡って下流方面へ引き返す形で対岸の夜店も眺めて回った。灯籠の光を河面に投げかけている小舟へと目をやれば、風流な舟遊びに興じる人々の姿が見えて、こちらまで陽気な気分になってくる。
成書杏は通りがかりの屋台で蓮花を象った蝋の水上浮を一つ買い、繁華街の端まできたところで護岸の石段をくだって河辺へとおりた。
河はすでに多くの水上浮で彩られていた。誰かの願いを乗せた蝋の鴛鴦や亀が、河面を揺蕩い流れていく。水の打ち寄せる河辺にしゃがんだ成書杏は、下流を目指す水上浮の群れの中に、手中の蓮花をそっと加えた。
どうかこの命を永らえて、『霜葉紅』の恋の行方を最後まで見届けられるように。
願いを込めて、水上浮がゆっくり流れていくのを見届ける。河下へ目線をやったところで、繁華街からやや外れた対岸の河辺に組まれた、楼が視界に入った。
五彩の綾絹と灯籠で飾り立てられた楼は乞巧楼と呼ばれ、針仕事の女神・七娘に供えものをするための場所だ。夜に供えたものに、翌朝に蜘蛛の糸がかかっていれば、願いが聞き届けられた印だという。
煌々とした乞巧楼の上に、向き合う一組の男女の影を見つけ、成書杏は強く目を引きつけられた。
それは、成紅杏と蕭雨だった。睦まじく見える二人の姿に、成書杏は眼差しを細くする。
そのとき、間近で声がした。
「夜間の一人歩きは感心しない」
虚を衝かれて成書杏は息をのんだが、振り返らなかった。しゃがんだ姿勢のまま、護岸の石段をおりた足音がすぐ傍までくるのを待ってから口を開く。
「いいことでしょう? あなたは、わたくしに死んで欲しくてたまらないのだから」
「そこまで人でなしではないつもりだが……君には同じことか」
呆れたような吐息まじりの言い方が癪に障り、成書杏は睨むように相手を見上げた。隣に立った林墨燕は夜闇に溶け込む黒衣を着ていて、河面を見下ろす冷たい面差しだけが白く浮いて見えた。
「皇城司の任務中ではないの」
「京城の治安維持も、皇城司の職掌の内だ」
「ふうん……」
胡乱に返して、成書杏は対岸へと視線を戻した。
乞巧楼の上では、蕭雨が成紅杏へ、双頭蓮の飾りものを贈っているところだった。
「蓮」は、「憐」と同音であることから、慈しみ合う恋人の愛憐の意味に通じる花だ。とりわけ、一つの茎に二つの花を咲かせる双頭蓮は相愛を象徴する。
遠目にも、成紅杏の顔がさっと紅潮したのが分かった。躊躇いがちな仕草で双頭蓮を受けとったあとには、真っ赤な顔が笑み崩れる。
成書杏の場所からでは二人の声は聞こえないが、どんな言葉が交わされているかはよく知っていた。彼らの唇の動きを追うだけで、鼻の奥に込み上げるものを感じる。
やがて成紅杏が蕭雨の胸元に額を当て、蕭雨が成紅杏の肩を包み込む。
成書杏は、深く深く息を吐き出した。
「霜葉紅で、七夕の場面が一番好きなの」
ぽつりと、成書杏は呟いた。
林墨燕も同じ情景を見ているという確信のもとでの呟きだったが、彼からはなんの言葉も返ってこなかった。気にせず、成書杏は乞巧楼の二人を見詰めたまま自身の真情を吐露する。
「境遇に劣等感を抱えていた紅杏が、蕭雨の不器用な思いを受け止めて、ようやく恋へと踏み出すの。本当に素敵。二人にとって試練はこれからだけれど、この七夕の夜を思えば、辛い試練も絶対に乗り越えられる――そう信じられて、何度も何度も読み返してた」
しゃがんだまま話している内に、成書杏は足が痺れて爪先が痛んでくるのを感じた。膝に手を置いて、ゆっくりと体を伸ばす。膝から手を離した瞬間、痺れた足がふらついた。
あわや河に落ちるかと思われた成書杏の腕を、林墨燕がつかんだ。強い力で引かれ、河から離れる方向へ体が傾ぐ。
転ぶまいとして反射的に彼の胴へ縋りついた拍子に黒衣の胸に鼻がぶつかり、成書杏は慌てて両手を引っ込めた。
一連の動作で、成書杏が体重をかけたくらいではビクともしない林墨燕の肉体の強靱さと大きさに気づいてしまい、どぎまぎとする――武官なのだから鍛えていて当然であるし、精鋭たる皇城司の採用基準を満たせている時点で背が低いはずもないのだが。
気にしたことのなかった彼との体格差を意識してしまうと、成書杏はなにやら急に落ち着かなさを覚えた。
「……ありがとう」
「気をつけろ」
お礼に対する返事は簡潔だったが、冷淡には聞こえなかった。
動揺をなだめるために、成書杏は改めて河の方へと体を向けて清浄な空気を吸い込む。その際に自然と目をやった対岸の乞巧楼の上に、もう人影はなかった。
落ち着きをとり戻した成書杏は、乞巧楼をおりた二人のその後に思いを馳せた。成紅杏はこれから、蕭雨のことを世子という肩書きではなく、名で呼ぶようになるはずだ。その光景を思い浮かべるだけで、ときめきと喜びに数滴の嫉妬が混じる高揚感が胸に満ちる。
「わたくしは、霜葉紅が大好きよ。だから、物語を守ろうとするあなたの気持ちが、分からないわけではないの。でも……死ぬのは嫌」
成書杏は体ごと林墨燕に向き直った。彼は先ほど成書杏を助けたときのまま、こちらを向いて立っていた。
「林墨燕」
名を呼び、彼の静謐な黒の瞳を真っ直ぐに見据える。
「死なないわよ、わたくしは」
静かに、成書杏は宣言した。
林墨燕の表情は動かなかった。成書杏を見下ろす眼差しはゆっくりとまばたきするだけで、感情を映さない。
河のせせらぎが耳につく沈黙のあと、林墨燕が不意に目線を逸らした。
「夢想するだけなら自由だ」
いつも通りの冷めた声音で言ってから、彼は再び成書杏を見て、おもむろに右手を差し出した。
「邸まで送ろう」
剣ダコのある公子の手の平を、成書杏はしばし眺めた。
繁華街の光も喧噪も、まだまだ衰えるようすはない。このまま帰るのは少々惜しい。成書杏はいたずらっぽい上目づかいで、林墨燕を見上げた。
「その前に少しだけ、舟遊びにつき合わない?」
これまで動かなかった林墨燕の片眉が跳ね上がった。歪んだ口元から、呆れを含んだ息が吐き出される。
「……飲酒はなしだ」
返答に満足して、成書杏は林墨燕の手をとった。