第十三集 巧果
たすき掛けをした成書杏は、小麦粉に卵、猪油、糖蜜を捏ね合わせて小さく丸めた生地を、打ち粉をした木型に押し込んだ。板一枚に四つ彫られた型すべてに生地を押し込んだら、調理台の上でひっくり返し、軽く叩いてとり出す。花籠、小鳥、柘榴といった縁起物の柄が浮かび上がった淡黄色の生地が、可愛らしく並んだ。
「どうかしら」
成書杏が呟くと、向かい合う位置で生地を捏ねていた成紅杏が首を伸ばして覗き込んだ。
「とってもいい感じ。まとめて焼くから、そちらへ一緒に並べて」
成紅杏が指差した調理台の隅には鉄の平底鍋が置かれていて、その上に先に型抜きした生地が円を描いて並んでいた。
さらに成紅杏は隣で生地を等分に切り分けている離離へ、捏ね上げた生地を預けた。
「離離。その生地を全部分け終わったら、これも切って貰える？」
「はい」
「そっちに色粉と抹茶があるから、よかったら使ってみて。ひと摘まみでしっかり色がつくから、少しずつね」
「分かりました」
てきぱきと指示を出し、成紅杏は成書杏の分の生地も並んだ平底鍋を竈へ運ぶ。鍋が温まって生地が焼け始めると、食欲をそそる甘く芳ばしい香りが厨房に広がった。
成姉妹に離離を交えた三人は、霜葉茶坊の厨房で七夕節の菓子・巧果作りに励んでいた。
七夕は女性のための祭日だ。鵬臨国の未婚女性たちはこの日に、針仕事の女神・七娘へお供えをし、裁縫の上達と良縁を願う。巧果はその供物になる。
また、七娘が夫に年に一度だけ会う日であることから、夫婦や恋人たちの円満を願う日でもある。通りには色とりどりの綾絹や灯籠が飾られ、出会いを求める男女は華麗に着飾って繁華街に繰り出す。七夕は数日間の準備も含め、国全体が華やぐ日なのだ。
霜葉茶坊でも七夕の日は巧果を売り出す。その作業を手伝うことで、ついでに自分の巧果も確保しようというのが、成書杏の算段だ。
成紅杏が焼き上がった巧果を籠にとって、成書杏の方へと差し出した。
「三姉上、少し食べてみて。まだ熱いから気をつけて」
手の平の粉を軽く払ってから成書杏は巧果を二つとって、一つを離離に渡してやった。侍女が受けとったのを見てから、手に残った一つをさっそくかじる。
両面をこんがりと焼き上げられた巧果は歯を立てると、さくりと音をたてて砕けた。噛むほどに口の中でほろほろと崩れ、焼きたての熱がほのかな甘さを伴って舌を覆う。
「美味しくできていると思うわ」
感想を言う成書杏の隣で、離離も巧果を咀嚼しながら頷いている。二人の反応を見ながら成紅杏も一つ摘まみ、満足げにほほ笑んだ。
「うん。美味しい。この調子でどんどん焼いちゃいましょう。明日までにできるだけたくさん作らないと」
成紅杏は焼き上がった巧果をすべて鍋から籠にとり出すと、調理台に戻って追加の生地を捏ね始めた。
黙々と生地の型抜きをしながら、成書杏は誰よりも手際のいい四妹の姿を複雑な感情で窺い見た。
この姉妹での巧果作りの場面も、『霜葉紅』で描かれている。
成紅杏は腹違いの姉を信頼しきり、なんら疑いを抱くことなく巧果作りを楽しんでいる――あるべき物語の通りであるならば、成書杏の謀略がすでに動き始めているというのに。
大兄・成章蒿が帰ってきた。彼の商いが違法なものであると気づいた成書杏は、その罪の一端を成紅杏に被せて破滅させようと画策する。目障りな四妹を排除し、浩国公世子・蕭雨の隣という居場所を手に入れるために。
こうして一緒に巧果を作るのも、その策の内にある。『霜葉紅』はそういう物語だ――本来ならば。
実際のところ今の成書杏はなにもしていないので、成紅杏の信頼は間違っていない。けれど本来の筋書きを知っていると、やはり内心に複雑な感情が兆す。
大兄と生母を止めることはできなかった。だからあえて、成書杏はなにもしないことを選択した。
それが一番の、死への抵抗になる。
この先、成章蒿の罪によって成家が窮地に陥ることはほぼ確定している。出資した生母の白氏は捕まらなかったとしても、家法で咎めを受けるだろう。二人と血縁である成書杏も火の粉を被ることになる。
ならば邪魔な成紅杏も巻き込んで展封の衙門に告発してしまえ、と行動を起こすのが『霜葉紅』での成書杏だ。結局は誣告とばれて身を滅ぼすが。
成章蒿と白氏のみを訴えるならば誣告にはならず、被害も抑えられるだろう。
けれども今は、林墨燕の出方を見たかった――生き延びるため、本当に排除するべきは林墨燕の中にいる作者・鴇遠リンなのだから。
林墨燕が物語を正すために再び成書杏を出し抜いて陥れようというのなら、逆にこちらから訴え返す手段も必ずあるはずだ。その機会を窺っていた。
成姉妹と離離の三人がせっせと巧果を作り続けていると、客室を任されていた孫女将が厨房へ顔を覗かせた。
「四娘子。卓の片づけは終わったわよ。厨房は手伝いがいりそう？」
呼ばれた成紅杏は、捏ねていた生地からすぐに顔を上げた。
「ありがとう孫さん。厨房は大丈夫だけど、卵が足りなくなりそうなの。少し買ってきて貰いたいのだけど」
「分かったわ。すぐに行ってくるわね」
孫女将は少女のような軽やかさで身を翻して厨房を出ていく。その後ろ姿は、いつ見ても背筋が伸びていて若々しさが衰えない。
女将のような歳の重ね方は理想かもしれない。などと少しばかり感嘆しつつ成書杏が顔を正面に戻すと、成紅杏はとっくに作業を再開していた。
「今日はずいぶん早く茶坊を閉めるのね」
巧果の型抜き作業を続けながら、成書杏はちらと窓へ目線をやる。いつもは日が落ち始める頃に閉店するのだが、今日はまだまだ日が高い。
「早めに閉めないと、明日の準備が間に合わないもの」
成紅杏は、生地を捏ねる手を止めることなく答える。
「今年の七夕は茶坊自体は閉めて、表に椅子だけを並べて、巧果と一緒に冷たい紫蘇熟水を売るつもりなの。節句のときはいつも混み合って、お客さんを長く待たせてしまうし。それに、明日は暑くなりそうだから、爽やかなものがすぐに飲める方がいいと思って」
炙った紫蘇の葉を煮出した紫蘇熟水は、鮮やかな紅色が美しい夏の定番の飲料だ。霜葉茶坊の紫蘇熟水には少量の岩塩が加えられていて、爽やかな紫蘇の風味とほのかな塩味が甘い菓子とたいへん相性がいい。
「そういうことを考えて行動できるところが、紅杏の商才ね」
「その分、三姉上みたいな令嬢らしいことはなにもできないけれどね」
成書杏の率直な賞賛に対し、成紅杏は謙遜して肩をすくめる。
成書杏は四妹の自由さに嫉妬しているが、成紅杏も姉に対して羨むところがあるのかもしれない。そう思えば、成書杏の中でよどむ暗い感情も多少は後退した。
捏ね上がった巧果の生地を綺麗に丸めて、成紅杏が手を拭った。
「今日は帰りがかなり遅くなると思うから、家で誰かに聞かれたら茶坊にいると言っておいて」
それを聞く者は、はたしているだろうかと、成書杏は頭の隅で考えつつも笑顔で返事をした。
「ええ。伝えておくわ。明日は七夕を楽しめるといいわね」
『霜葉紅』でもっとも胸躍る、恋の祭事が始まる。
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