第十二集 孤独
成章蒿はつかの間、怪訝そうな表情で成書杏を見詰めていた。かと思えば、急に笑顔を咲かせて羅漢床から立ち上がった。
「書杏か!」
よく通る声で呼び、長身に見合う歩幅であっという間に歩み寄ってくる。軽く背を屈めて成書杏の顔を覗き込むと、大兄は一層、笑顔を明るいものにした。
「やはり書杏か! 紅杏もそうだったが、すっかり綺麗になっていて一瞬分からなかったぞ。離離も、うまくやれているようだな」
後ろに控えている侍女にも、成章蒿は躊躇いなく顔と声を向ける。戸惑い顔で立っていた離離は、我に返ったように深く礼をした。
「お帰りなさいませ、大公子」
「驚いた。すっかり令嬢の侍女が板についているな。来たばかりのときは、こんなに小さかったのに」
成章蒿は自身の膝くらいの高さを示して、愉快さ半分、感心半分といったようすで目を細くする。
さすがにそこまで小さくはなかったろうと成書杏は一瞬だけ考えてから、大兄の今の背丈を勘案するとおおよそ間違っていないかもしれないと思い直した。
成章蒿が家を出た当時、離離はまだ幼児と言っていい年齢だったので、彼の顔をほとんど覚えてはいまい。それでも相手が誰であるか見当をつけて対応できているのは、彼女が侍女として培ってきたものの賜物だろう。
はしゃぐ子供のようにきょろきょろと瞳を動かしていた成章蒿が、また成書杏の顔を覗き込んだ。
「妹は、お帰りとは言ってくれないのか?」
期待の眼差しを向けられ、成書杏は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえてやっと声を出した。
「……お帰りなさい、大兄上。どうして、なんの報せもなく帰ってきたのよ」
成書杏が不満を添えると、成章蒿はやっと少し落ち着いた表情になった。
「おれが帰ってきたのが嬉しくないような言い種だな。自分の家に帰るのに、なんの報せがいるって言うんだ」
家を離れた十年間で、態度も話し方もずいぶんと粗野になったようだ。兄との再会の喜びよりも、嫌悪感や不快感が成書杏の胸の内で大きく膨らむ。
どう言い返してやろうか、などと成書杏が攻撃的に考えていると、奥の寝所から白氏の声がした。
「阿蒿、阿蒿」
生母がひどく甘い声で大兄を呼ぶのを聞き、成書杏はびっくりして振り向いた。成元の前以外で彼女がこんなにも媚びた声色を発するのを聞いたのは、初めてだった。
名に阿をつけた呼び方は、ごく親しい間柄で使われる愛称だ。
そうして成章蒿を呼びながら寝所から出てきた白氏は、小箱を羅漢床の上の茶机に置いた。
小箱は片手でつかめるほどの高さで、上面も両手の平を並べたほどの大きさだが、銀色の鋲が打たれた頑丈なものだ。その中身がなんであるか、成書杏にはすぐに分かった。
パチリと音をたてて、白氏は箱の蓋の留め金を外した。
「阿蒿。すぐに出せる蓄えがこれだけなのだけど、足りるかしら」
「母さん、なにをしているの」
大兄が返事をする前に成書杏は割り込んで声をかけた。それでやっと、白氏は娘の存在に気づいたように顔を上げた。
「ああ、書杏。阿蒿が帰ってきたのよ。ちゃんと挨拶はした?」
白氏は成章蒿に劣らず子供っぽくはしゃいだ笑みを浮かべる。最愛の息子が帰ってきたことにすっかり有頂天な生母の姿に、成書杏は呆れて言葉を失う。
その隙を突くように、今度は成章蒿が割り込んで返事をした。
「ちょうど今、兄妹で感動の再会をしていたところだよ、母さん」
「あら、そうだったの」
そのなに気ない一言で、白氏の関心事から娘の存在が締め出された。立ち尽くす成書杏から、大兄も離れていく。
成章蒿が羅漢床に座ると、白氏はしな垂れかかるように体を寄せた。それはまるで、息子ではなく恋人に対する仕草に見えた。成書杏の背筋をぞっとしたものが這っていく。
白氏には、自分の態度が傍から見て異常である自覚がない。彼女はすっかり大人である我が子に体を密着させたまま、小箱を膝の上に引き寄せて開いた。
「それでね、阿蒿。今、手元にあるのはこれだけだなの。足りないようなら荘園の証文があるから、これを売って――」
「待って、母さん!」
成書杏が咄嗟に発した声は、自然と鋭いものになった。慌てて白氏に駆け寄り、小箱を漁る手をつかむ。小箱の中身は思った通り、数粒の銀に、玉の宝飾が少々。それらの間に挟まっている折り畳まれた紙は、銭と引き換えられる銀票と、荘園の証文だ――白氏が成家にきてからの蓄財すべてが、この小箱に入っている。
「それをどうするつもり」
成書杏が問うと、息子を前にずっと上機嫌だった白氏が初めてひどく不快げに顔を歪めた。
「ちょっと書杏、痛いじゃないの」
「答えて、母さん。蓄えを持ち出してきて、どうするつもり」
問い質す姿勢を崩さずに、成書杏は手の力を強める。白氏は腕を振って強く抵抗した。
「なにって、阿蒿が商いを始めるのに銭がいると言うから、こうして――」
「駄目よ!」
成書杏は叫び、片手を素早く伸ばして小箱の蓋を閉めた。さらにもう一方の手も伸ばして抱え込む。小箱を奪われまいとする白氏がつかみかかってきたが、身をよじって振り払った。
「書杏!」
「雪柳閣の蓄えを大兄上に渡すなんて駄目よ、母さん! 絶対に駄目!」
怒鳴り返しながら足を引いた拍子に数歩よろめいた。即座に駆け寄ってきた離離に背中を支えられ、転倒は免れる。
すぐさま体勢と息を整え、成書杏は生母の隣に座る成章蒿を睨み据えた。
「大兄上。帰ってくるなり母さんに集るのはやめて」
成章蒿は座ったまま上目に妹の顔を見上げる。
「集ってなんかいないさ。商いが軌道に乗れば二倍にも三倍にもして返せるから、むしろ得しかない。久しぶりに会って、いきなり言いがかりはよせ」
「信じられるわけないでしょう、そんな話。大兄上がやろうとしている商いが、碌でもないのは分かっているのだから」
「書杏っ。同腹の兄に向かって、なんて失礼な物言いをするの」
また批難を込めた響きで白氏が喚く。成書杏は一方的に責められることに傷つきながらも、生母の前に両膝をついて説得を試みた。
「母さんにとって大兄上が可愛くて仕方ないのは理解しているけれど、冷静になって。ちゃんと話を聞いて。大兄上がなんの商いを始めるつもりか分かっているの?」
「分かっているわよ。茶葉を売るのでしょう?」
白氏は首を傾けて、間近にある成章蒿の顔を窺い見る。大兄は明るく頷いて、語り聞かせるように生母の肩に腕を回した。
「ああ、そうさ。実はちょっとした方と知り合いになってね。相場よりも安く茶葉を仕入れられるんだ。それを売ればいい稼ぎになる。元手もすぐにとり返せる」
「茶葉は国の専売よ。それを相場より安くなんて、そんな怪しい話を本気にしているの? 茶の私販は茶税の横領と密売の罪に問われて、露見したら流刑か、悪くすれば死罪なのよ」
成書杏がすかさず捲し立てれば、白氏の顔がさっと青ざめた。そんな生母の肩を、成章蒿は庇うように抱き寄せた。
「そんな脅すような言い方するなよ。母さんが怖がるじゃないか。茶葉を融通してくれる知り合いは官僚なんだ。密売にはならない」
それがなるのだ、と成書杏は叫びたかった。
成章蒿が扱おうとしている茶葉こそ、紛れもなく横領品なのだ。官吏の私腹を肥やすのに利用されているのだと、なぜ気づけないのか。
この大兄と生母さえ愚かでなければ、きっと『霜葉紅』の成書杏が道を踏み外すことはなかっただろう。
膝をついたまま打ちひしがれる成書杏の前に、成章蒿の手が差し出される。
「それを渡せ、書杏」
小箱を抱き込む力を強めて、成書杏はかぶりを振る。
成章蒿が羅漢床から立ち上がった。長身な彼が間近に迫ると、聳えるほど大きく見えた。
大兄は背を曲げて腕を伸ばし、成書杏が抱え込んでいる小箱をつかんだ。恐ろしいほど強い力で引っ張られ、成書杏の体が前へ倒れ込む。
「駄目! 嫌だっ」
「離せ。このっ」
必死に抵抗する成書杏の肩に、大きな足がかけられた。小箱を引くと同時に、蹴り飛ばされる。
悲鳴をあげて床を転がった成書杏に、離離が飛びつくように駆け寄った。
「三娘子!」
離離に助け起こされて、成書杏はふらつく頭をようよう持ち上げた。
成章蒿はすでに羅漢床に座り直し、奪いとった小箱の中身を確認していた。その肩に再び、顔色をとり戻した白氏が身をもたせかける。
「阿蒿。今日はここに泊まっていくのでしょう?」
「いや。客桟をとってるから、そっちに泊まる。次は父上のいるときにくるよ。でないと、正房の嫡母上がなにを言ってくるか分かったもんじゃない」
「そう……そうね。でも、まだ明るいから、もう少しいられるでしょう?」
「もちろん」
会話も仕草もとても親子と思えぬやりとりをする二人の意識に、もう成書杏の存在はなかった。
成書杏は、傍らの侍女の袖をつかんだ。
「……行きましょう、離離」
「ですが三娘子、お怪我は」
「平気。なんともないわ」
蹴られた肩の痛みを無視して成書杏は立ち上がり、飛び出すように雪柳閣をあとにする。
さりとて邸を出たところで行くところはない。そこで成書杏は敷地内の北西にある別の房屋に向かった。
他よりこぢんまりとした北西の房屋は、鶯栖閣と呼ばれている――成紅杏の居所だ。霜葉茶坊が営業している昼間は無人になるので、人目を避けたいときにはうってつけだった。
鶯栖閣に忍び込んだ成書杏は、扉を閉めるなり、その場へ崩れるように座り込んだ。
「三娘子。やはり、どこか痛みますか?」
気づかう離離に、成書杏は膝を抱えて首を横に振る。歳下の侍女はしばらく困ったような空気を漂わせたあと、隣に並ぶ位置に膝を立てて座った。躊躇いがちに伸ばされた手が、成書杏の背中をさする。
拠りどころを求めるように、成書杏は離離の肩に頭を乗せた。
成章蒿が帰ってきたら、こうなることは分かっていた。
白氏が長男に執着し、極端な甘やかし方で溺愛するのは止めようがない。だから、帰ってこさせたくなかった。
成章蒿は生まれてすぐ、産後のどさくさに乗じて成夫人・呉氏によって雪柳閣から正房へ連れ去られた。
子供は正妻が育てるべきだという思想が、世間には存在している。各家の側妻たちの多くも、我が子を奪われることを警戒している。
そして呉氏もその思想を根拠にした主張のもと、白氏から強奪するように長男を自身の居所へ攫ったのだ。
同じ邸の敷地内にながら、別の建物に暮らし、正妻の許しが得られなければ実の母子で会うことさえままならない。だから、まれに会話の機会が得られたときには、力およぶ限り我が子の希望をすべて叶えて徹底的に甘やかす――会いたいと言って貰えれば、その頻度を増やすことができるから。
白氏は十年以上もそのような状況に耐え、その間に成書杏が生まれた。やがて念願叶ってやっと長男を手元にとり戻したものの、数年後には息子が自ら飛び出していってしまった。
生母から人並みには愛されて育ってきたと、成書杏は自負している。けれど決して、成章蒿より優先されることがありえないのも、幼い内に悟っていた。
白氏は長男と接するとき、自身の手で育てられなかった時間をとり戻そうとするように人が変わる。十年ですっかり大人になった成章蒿を前にして、その傾向は明らかに悪化していた。
これからどうすればいいだろうと考えながら、成書杏は鶯栖閣の室内をぼんやり眺めた。
使用人の居所かと思うほど、家具も調度も質素な室だった。中古の箪笥は意匠の合わない把手で修理されているし、椅子はなく、座れる場所は低い卓の横に円座があるだけだ。竹製の床榻に敷かれている布団も薄い。言われなければ、誰もここに官僚の令嬢が住んでいるとは思うまい。
こんな室で成紅杏は、ろくに侍女もつけられず、何年も一人で寝起きしている。
『霜葉紅』を読んでいたときには、成紅杏は可哀想な主人公なのだとずっと思っていた。それが今では、作中の成書杏がなぜ罪を承知で四妹を陥れようとしたか、理解できてしまった――やはり自分は、紛れもなく成書杏なのだ。
同じ家に、同じ庶子として、たった三ヶ月の差で生まれた四妹。姉妹で立場は同じはずなのに、世子に思いを寄せられ、茶芸の道に邁進し、親や家に頼らない生き方を切り開いている自由な彼女のありようが、たまらなく眩しい。
身を焼くほどの嫉妬から目を背けるように、成書杏は目蓋を伏せる。幼い頃から実の兄妹ら以上にいつも傍にある侍女の手を、縋るようにそっと握った。
「離離、お願い。あなただけは、わたくしの味方でいて」
「……はい」
控えめな返事を聞き、成書杏の胸にやっと少しだけ安堵が落ちる。
どんなに追い詰められても、死にあらがう試みを最後までやめるつもりはない。
しかし今の成書杏はあまりにも、孤独だった。