第十一集 動揺
成書杏と欧陽意の縁談は成立しなかった。成書杏が、簪を四妹にやってしまったからだ。
精一杯に背伸びした贈りものを簡単に手放されたとを知った欧陽意はひどく傷ついたようで、自然と距離を置くように疎遠になっていった。
成書杏としても、積極的でなかった縁談にこだわって無闇にすがりつくような行為は体裁が悪くてとてもできないし、したくもない。そもそも情を育む前にこちらから裏切ったのだから、回復すると表現できるほどの信頼もなにもなかった。
成紅杏の手元から簪がなくなっていたことは、なぜか蕭雨に伝わっていた――これも林墨燕の仕業だろう。
悲しむ蕭雨と、元々押しつけられたものだと意地を張る成紅杏との間で案の定、口論が起きた。落としものを拾った体で成書杏が簪を返してどうにか収めたものの、少しばかり形が変われど着実に物語が進んでいくさまに気持ちはふさいだ。
結果として、縁談を成紅杏に押しつける作戦は決行されず、『霜葉紅』としては事件が一つ減ったことになるが、あるべき筋書きと同じ場所に落ち着いた。
たった一本の簪で軌道修正をしてのけて、林墨燕はさぞ満悦に違いない。そのことが一番、成書杏の癪に障った。
次にとれる手立てに思考の多くを費やす日々が続く中で、成書杏は変わらず霜葉茶坊へ足を運んだ。
この日、茶坊を訪れたのは成書杏のみだった。離離は連れているが、侍女である彼女が同じ卓に着くことはない。二階の個室で成紅杏は姉のためだけに、洗練された茶芸を披露する。
成書杏が新茶の芳しさに心地よく浸っていると、向かいの席で茶器を置いた成紅杏が急に思いついたように口を開いた。
「そうだ、三姉上。大兄上にはもう会った？」
四妹の口から出た思いがけない単語に、成書杏の寛ぎは吹っ飛んだ。
「大兄上？ 紅杏、大兄上に会ったの？」
つい声が大きくなった成書杏の問いに、成紅杏はすんなり頷いた。
「今日、茶坊が開店してすぐに、少しだけきていたの。十年振りだったから、わたしも始めは分からなくて。向こうから声をかけてきて、びっくりしちゃった」
思い返すように言った成紅杏の目が、本当に驚いたようにやや大きくなる。
動揺のあまり、成書杏はつかの間、息を止めた。
「本当に、兄上がここに？」
再び聞き返してしまってから、なんて意味のない質問をしているのだろうと成書杏は自分自身に呆れてしまった。つまり、それだけ狼狽えている。
けれど聞かれた成紅杏は落ち着いた表情でもう一度、真摯に頷いた。
「ここを出てからすぐに邸へ帰ったと思ったのだけど、三姉上は会わなかったの？」
「会ってないわ。入れ違ったのかもしれない」
「親や同腹の妹よりも先にわたしに会いにくるなんて、大兄上ったら。らしいとでも言うべきかしら」
困惑げに眉間を開いて、成紅杏は肩をすくめる。対照的に、成書杏は考え込むあまり眉間が険しくなる。
「仕方ないわ。そういう人だもの」
「七夕が近くて通りが賑わってるから、邸へ帰る前に久しぶりの京城見物でもしているのかも。商いを始めるようなことも言っていたし」
成紅杏のこの一言で、動揺の底にあった成書杏の思考は急速に現実へ引き戻された。
「商いの話、まさか真に受けたりしていないわよね」
身を乗り出しながら置いた茶盞が、鋭い音をたてた。成書杏の急な態度の変化に、成紅杏は目をぱちくりした。
「具体的な商いの内容までは聞いてないけれど、挨拶だとかで雲州の銘茶を色々と置いていったから、茶商でも始めるのかも。ただ実は、置いていった中に蘭鳳団があって、さすがに受けとれないって断ったのに聞いて貰えなくて」
蘭鳳団は皇室への献上品として、鳳凰の金型を使用して作られる特別な団茶だ。市場での流通が皆無ではないが、市井でたやすく目にできるものでないことは確かだ。
成書杏は素早く両手を伸ばして、言い聞かせる仕草として四妹の手を包んだ。
「紅杏。大兄上が商いのことでなにを言ってきても、絶対に聞いては駄目よ。貰った茶もすぐに処分して」
「どうして？」
「どうしてもよ。お願いだから、大兄上とだけは関わらないで」
握る手の力を強め、成書杏は切実に言い募る。
大兄・成章蒿の帰宅は『霜葉紅』において、際立って重大な事件が幕を開ける合図だ。彼の言う商いによって、まずは成紅杏が危機に追い込まれ、それは成家の危機にまで波及する。
物語としては、成紅杏を案じる蕭雨の奔走によって危機を脱することになるが――結末に待っているのが、成書杏の死なのだ。
そんなことを知るよしもない成紅杏は、気づかわしげに手を握り返した。
「もしかして三姉上……大兄上が一人で出ていったのを、今でも恨んでいる？」
この四妹の優しさが、成書杏にはもどかしい。
成章蒿が家を出ていったのは、成書杏が前世を思い出すより前の話だ。確かに当時は、兄に注がれていた生母の期待が急に自分にのしかかってきたことに慄き、突然にいなくなった兄に対し寂しさと同時に恨みを抱いた。
そして『霜葉紅』の記憶を得て以降は、兄が帰ってくる日をもっとも恐れてきた。
長らく探すもまったく行方のつかめなかった成章蒿が、いきなり霜葉茶坊に現れた。成書杏の中で焦りが募る。
「わたくしが兄上を嫌いとか恨んでいるとか、そういう話ではないの。とにかく、絶対に関わらないで」
早口に念押しして、成書杏は勢いをつけて立ち上がった。
「用事ができたから、わたくしはもう帰るわね。また大兄上がきても、相手にしては駄目よ」
「え、ちょっと、三姉上！」
成紅杏が呼び止めるのも聞かず、成書杏は身を翻して個室を飛び出す。ほとんど駆け足にくだり階段まできたところで、室外に待機させていた離離が焦り顔で追いついてきた。
「三娘子、急にどうなさったんですか」
「大兄上が帰ってきたそうよ」
並んで階段を駆け下りながら、離離が息をのんだ。
「そんなっ。わたし、なにも聞いてない……」
狼狽からか、離離の口調が砕けたものになる。それを叱りはせず、むしろ励ますように、成書杏は忠実な侍女の肩を叩いた。
「離離が手を尽くしてくれていたのは分かっているわ。ただ、わたくしの認識が甘かったのよ」
茶坊を出て桟橋を駆けながら、成書杏は歯噛みする。
使用人である奴婢たちは、主人の使いなどで単独での外出機会が多い。そうしたときに、彼らは他家の奴婢と交流を持って独自の情報網を築いている。仕送りなどで頻繁に実家とのやりとりをしている者などは、遠方の情報に通じていることもある。他家でなんらかの事件が起きたとき、外部にいながらにして真っ先に異変を察知するのも、大抵が奴婢たちだ。
そうした広範囲にわたる奴婢の情報網に、成章蒿はまるでかからなかった――林墨燕に先手を打たれていたとしか思えない。
違和感に、早く気づくべきだった。
入れ違いで成章蒿が帰宅している可能性はかなり高い。
成書杏は離離を急かして小舟に飛び乗り、帰路を急いだ。
慌ただしく成宅の雪柳閣に帰り着くなり、成書杏は入口で硬直した。
入って正面の羅漢床に、後ろ髪を長く垂らした郎君がいた。座っていても、大変に背が高いことが見てとれる。全体に草花柄の入った紫の衣は似合ってはいるが、主張が強くていまいち品に欠けている。
こちらを見た郎君のくっきりとした顔立ちに自分との血縁を見出し、成書杏は絶望的な心地になった。
まだ少年だった十年前よりも大きく背が伸びて、顔も体格もすっかり大人のものになっていたが、大兄・成章蒿に間違いなかった。
