第十集 皇城司
京城・展封の中心。皇城、東華門内の北。林墨燕が皇城司の官署の門檻をまたぐなり、横から肩を叩く者がいた。
「老林」
姓に老をつけた気安い呼びかけに顔を向けると、同組の方帆の少年じみた笑みが間近にあった。
広大な皇城を区分けする白壁を穿って設けられた官署の門の先は、まず石畳の前庭があり、それを囲うように官舎が建てられている。南以外の三方を官舎に囲われた前庭を進む林墨燕の横に、方帆はぴたりと肩を並べる。
「やっと戻ったな、老林。お求めのものが届いているぞ」
指先をかすめるだけの動作で、ごく小さな筒状に丸められた紙片が手渡される。林墨燕はそれを瞳だけの一瞥で確認して、素早く袖の中へ押し込む。その一瞬の動作のあと、方帆はいたずらっぽく片眉を上げた。
「それから、李勾當官がお待ちかねだ。独断行動もほどほどにしとけ。同組のこっちまで目をつけられる」
皇城司の司卒たちは、監察という役割に見合うだけの清廉潔白さを求められる。賭博や飲酒さえも禁止されている厳格さだ。そのため皇城司では五人一組で相互に行動に目を配る規律が作られている。
肩が当たるほど距離を詰めてくる方帆が鬱陶しく、林墨燕は軽く肘を押し出して離れさせた。
「分かっている。伝達に感謝する。李勾當官のところへは、このまま行く。君は持ち場へ戻れ」
林墨燕がいつも通りの無愛想さで言えば、方帆は肩をすくめただけで機嫌を損ねるでもなくあっさりと離れていく。伝言と釘差しにきただけなのだ。
植物ひとつない殺風景な前庭を早足に通り過ぎ、林墨燕は黒い格子扉が威圧的な正面の官舎へと入った。
官舎の中は、人の歩く場所だけを残して書架が整然と並んでいた。各地で任にあたっている司卒から日々届けられる報告書と奏状が、神経質なほど細かに分類して棚に収められている。
薄暗く陰気さのある書架の間を抜けていくと、突然に視界が開けて物々しいほど広さのある書卓が現れる。そこに、山積みにした書簡に埋もれるように書きつけをしている宦官がいた。宦官服の縦長い黒帽をふらふらと揺らしながら熱心に筆を走らせていて、来訪者に気づくようすがない。
林墨燕が指の背で軽く書卓を叩いてようやく、宦官は筆を止めて顔を上げた。
「ああ、林墨燕でしたか」
年若い宦官の声は、変声期より前に男性の特徴を喪失したと分かる甲高さだった。
「ただいま戻りました。李勾當官」
林墨燕が上官に対する形式張った拱手をすれば、李勾當官は、うむ、と頷いた。
天子直属の機関である皇城司の長官は皇帝だが、実際に指揮を執っているのは勾當官と呼ばれる宦官たちだ。勾當官は権威が皇帝を凌駕することがないよう必ず複数名が置かれ、気鋭の若年者が任じられる。
人数は時勢によりまちまちだが現在は四名の勾當官で、数千人の司卒を監督、指揮している。
李勾當官は筆を置くと、眼前の書簡の山から選びとるように封書を一束つかんだ。手招きするような仕草で、その封書を林墨燕へと差し出す。
「先日に君が言っていた雲州の茶の件で、他の司卒からも報告が入ってきましたよ」
優雅な話し方も相まって女性じみている李勾當官の声に耳を傾けつつ、林墨燕は受けとった封書を開いた。それは確かに、城外で活動中の皇城司卒からの報告書だった。
「まだ明らかな証拠があるわけではないですが、君が見込んだ通り十中八九、黒といったところですね。網を張ればそう遠くない内に証拠もあげられるでしょう。それで、関連して一つ確認しておきたいのですが――」
ここからが本題だとばかりに李勾當官は言葉を句切り、書卓の上で指を組んだ。
「君は確か、成家と懇意にしていましたよね」
おもむろな問いに、林墨燕は目線を報告書から上官へと移す。李勾當官は中性的な童顔に、意味ありげな微笑を湛えていた。
その表情にぞっとしたものを感じつつ、林墨燕は平静を保って答える。
「懇意というか、成二公子と同じ私塾で学んでいたというだけです」
「近頃、成三娘子を気に懸けているようだと聞いていますが」
「ええ、まあ」
「成家の中でもなぜ三娘子なのか、理由を訊いても?」
「あの家の兄妹の内、彼女だけが成章蒿と同腹です」
「ふむ、なるほど。それで、彼女はなにか知っていそうですか」
すべて知っている、と胸の内だけで呟きつつ、林墨燕はあえて曖昧な答えを声にした。
「それはまだ、なんとも」
「成章蒿からの接触は?」
「現時点では、そういった動きは見られません」
「成二公子と旧知である君が、その兄を庇っていないと誓えますか」
少しも口調を変えずに問われて、つい林墨燕は眉を跳ねさせた。明らかに反応を窺っている李勾當官の目が静かに細まる。
李勾當官は年齢こそ林墨燕と大差ない若手だが、十歳に満たない内から宦官として陰謀渦巻く皇宮で揉まれてきた人物だ。髭の跡ひとつないつるりとした童顔の下に、どんな思惑を潜ませているか分かったものでない――林墨燕に鴇遠リンの記憶がない状態だったならば。
李勾當官がいかに食わせ者だろうと、敵対者にならないことは分かりきっている。一度だけ深く呼吸して、林墨燕は速やかに冷静な思考力を引き戻した。
「庇うつもりがあれば、成章蒿の本件への関与の疑いを報告などしていません」
静かに言い切り、林墨燕は上官の眼差しを見返す。李勾當官はわずかに首を傾けて推し量る目をしていたが、やがて切りをつけるように、卓上で組んでいた指をほどいた。
「よいでしょう。君を信じます」
宣言すると同時に、李勾當官は満面の笑みを浮かべる。その笑みはむしろ不気味だと林墨燕は思ったが、口には出さずに深く一礼した。
「感謝いたします」
「成章蒿に関することは逐一、報告をお願いします」
「はい」
「下がっていいですよ」
綺麗過ぎる笑顔を保ったまま、李勾當官は身振りも添えて命じる。林墨燕は封書を返してからもう一度だけ礼をして、機敏な足運びで官舎を出た。
皇城司の官署の前庭を半ばまで進んで、林墨燕はようやく普通に呼吸できた。ありえないと分かっていても、李勾當官と話していると林墨燕の中の異物――鴇遠リンという人格――を見出されそうな恐ろしさを感じてしまう。
『霜葉紅』の登場人物として生み出された李勾當官が、作中で描かれた通りの反応を示してはいるので、そういう意味では安心感も覚えはする。しかし紙上で一人の人間を表現することと、その人物と生身で相対することとの勝手の違いには、いつまでも馴染める気がしなかった。
紙上での創作だからこそ受容できる人物というものは必ずいる。
林墨燕は皇城司の官署の外へ出たところで、袖に押し込んだままだった紙片をとり出した。
固い筒状に丸められた紙片を慎重に開く。細長い紙に最低限の文字だけで書かれた内容は、成家の奴婢が成章蒿と接触していることを知らせるものだった。
素早く紙片を仕舞い直して、林墨燕はなに食わぬ顔で歩行を再開した。
実を言えば、本当に『霜葉紅』の筋書きに忠実に事態を進めるならば、今はまだ皇城司の目を成章蒿に向けさせるときではない。だが、成書杏が動いているとなれば、そうも言っていられない。
命を削る心地で紡いできた物語を他人に破壊されることを思えば、起こるべき出来事が少々入れ替わるくらい些細なことだ。
鴇遠リンが作家である以上、読者あっての作品だったのは否定のしようはない。さりとて読者が作者の望まぬ形で作品に干渉するとなれば、話はまるで違ってくる。
成書杏は、その一線を明確に越える者だ。彼女の中にいる人格がどれほど熱心な読者だったとしても、許容はできない。
『霜葉紅』は未完の物語だ。来るべきだった完結を、病魔によって阻まれた。
だから、鴇遠リンの意識が途絶え、林墨燕として目覚めたとき、天啓だと思った。『霜葉紅』の物語を最後まで紡ぎ上げろという。
どうせ一度は尽きた命だ。ここが冥界だろうと、奇怪な現象に説明がつかなかろうと、もはやどうでもよい。
『霜葉紅―さやけき恋は花より紅なり―』
作家になるという夢に手を届かせてくれたこの作品を、今度こそ最後まで――
それには、成書杏の好きにさせるわけにはいかない。
今、この物語を守れるのは、鴇遠リン――林墨燕しかいない。
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