表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/35

第九集 警告

 (チョン)書杏(シューシン)が清雲観から帰宅すると、内院(なかにわ)(チョン)妙杏(ミャオシン)が侍女を相手に羽蹴りをしていた。束ねた鶏の羽に重りを挿したものを、つま先や(かかと)で器用に蹴り上げている。


 侍女の蹴った羽が、方向を誤って(チョン)書杏(シューシン)の方へと飛んできた。躊躇わず、足を振り抜き蹴り返す。

 羽が高く弧を描き、(チョン)妙杏(ミャオシン)が、わっとはしゃいだ声をあげた。


「三姉上! お帰りなさい、早かったのね」

妙杏(ミャオシン)、二兄上はもう帰っている?」


 挨拶も返さずに、(チョン)書杏(シューシン)は早口で問いかけた。真っ直ぐ手元に降ってきた羽を受け止めた末妹は、不思議そうな顔で首を横に振る。


「兄上はまだいないわ」

「そう……」


 二兄・(チョン)章桑(チャンサン)は官職を得てからというもの、ほぼ毎日、父と連れだって早朝から朝堂へ出仕している。大抵は昼食をとるために正午頃に一度帰ってくるのだが、今日は午前の仕事が長引いているらしい。


 (チョン)章桑(チャンサン)(リン)墨燕(モーイェン)を呼び出して貰おうと思っていたが、いないのでは仕方がない。


「分かったわ。ありがとう、妙杏(ミャオシン)


 当てが外れたと分かるなり、(チョン)書杏(シューシン)はすぐさま(きびす)を返した。


 二兄に頼れないならば直接こちらから出向くまでだ。皇城の門は皇城司が守っている。彼らに聞けば、(リン)墨燕(モーイェン)にとり次いで貰うくらいできるだろう。


「誰か、馬を引いて」


 適当な家僕に声をかけつつ、(チョン)書杏(シューシン)は再び出かけるべく表門へと足早に向かう。両開きの門扉から一歩外に出た瞬間、その足はぴたりと止まった――門の前に、黒衣を着た(リン)墨燕(モーイェン)が立っていたからだ。


 まるで待ち構えていたかのように佇む公子から目を離さぬまま、(チョン)書杏(シューシン)は門扉を閉じた。短い石段をくだり、彼と真正面から向き合う。革の護腕で袖を(つぼ)めた黒衣は、いかにも身軽そうに見えた。


 (リン)墨燕(モーイェン)の冷たい眼差しに、(チョン)書杏(シューシン)も負けじと目をすがめて睨み返す。


「わたくしに、なにか用事?」

「君が、わたしを探していると思ったのだが?」

「…………」


 大きく息を吸い込み、(チョン)書杏(シューシン)は罵倒の言葉を辛うじて呑み込んだ。


 (リン)墨燕(モーイェン)の口振りからして、どうやらずっと、こちらの動きを見ていたらしい。すべて見通した上でこれ見よがしに現れるなど、あまりにも意地が悪く(はらわた)が煮えくりかえる。


 (チョン)書杏(シューシン)が怒りに打ち震えていると、(リン)墨燕(モーイェン)は嘲笑うように鼻を鳴らして顎をしゃくった。


「場所を移そう」

「……ええ、そうね」


 門前で言い争っては人目を引く。(チョン)書杏(シューシン)は近くにいた家僕に一声かけてから、(チョン)宅を離れた。


 (リン)墨燕(モーイェン)の先導で着いた先は、人通りの少ない裏通りの石橋だった。階段をのぼった先の橋の頂点には屋根が差しかけられていて、ほどよく日差しと人目が遮られている。高さがあり見晴らしもよいため他人の接近に気づきやすいのも、ちょっとした立ち話をする場所としては都合がよかった。


 (チョン)書杏(シューシン)は橋の下を小舟が通り過ぎるのを見届けてから、屋根の柱に背を預けている(リン)墨燕(モーイェン)に向き直った。


「これはあなたの仕業(しわざ)?」


 前置きはせず、帯に挟んでいた紅珊瑚の簪をとり出して(リン)墨燕(モーイェン)の眼前に突きつけた。彼は口角をかすかに持ち上げただけでなにも言わなかったが、(チョン)書杏(シューシン)は肯定と受けとった。


紅杏(ホンシン)から盗んだの?」

「人聞きが悪い。君に忘れものを届けてやっただけだ」


 やっと口を開いたかと思えば、皮肉が飛び出す。(チョン)書杏(シューシン)は眼差しに険を宿して、簪を軽く振った。


「どうやって欧陽(オウヤン)(イー)にこれを?」

霜葉紅(そうようこう)を読んでいるのなら、皇城司がただの門番でないことは知っているだろう。市井での間諜が皇城司の本分だ。たかが書生一人の行動を把握して、商人に扮して接触するくらい、わけない」


 言い終わりに(リン)墨燕(モーイェン)が鼻で笑い、(チョン)書杏(シューシン)は怒りと悔しさとで顔が熱くなるのを感じた。


 皇城司は国家中枢たる皇城の警備を担っているが、それは表向きの職掌だ。彼らの本領は、諜報と監察にある。


 玉座に座っているだけでは聞こえない庶民の声や市井の情報を皇帝に代わって収集し、朝堂では決して上奏されない官吏や軍人の汚職を炙り出して摘発する。

 天子の耳目であり爪牙(そうが)。皇帝による独裁の(かなめ)。それが、皇城司の意義だ。


 その能力を知らしめられた(チョン)書杏(シューシン)は、苛立ちのあまり口の端から皮肉めいた笑いがこぼれ出る。


「とんだ職権乱用ね」

「かもしれないな。なにせ、わたしは作者だ」


 まさしく、としか言いようがなく、(チョン)書杏(シューシン)は口をつぐむ。


 (リン)墨燕(モーイェン)の中身が鴇遠(ときとお)リンである以上、この国あるいは世界の人と事物ついてもっとも詳しいのは彼だ。それを踏まえて、彼は(チョン)書杏(シューシン)に対して言外に、身のほど知らずだと言っているのだ。


 反論がないと見るや、(リン)墨燕(モーイェン)は突きつけられている簪に手を添えて、(チョン)書杏(シューシン)の胸元まで押し戻した。


「このあと、君には二つの選択肢がある。この簪を(チョン)紅杏(ホンシン)に返すか、返さないか」


 簪に添えていた手を持ち上げて、彼は(チョン)書杏(シューシン)の顔の前で指を一本ずつ立てる。


(チョン)紅杏(ホンシン)に簪を返せば、公子からの贈りものをそのまま妹にくれてやる非情な女子(おなご)として欧陽(オウヤン)(イー)との縁が切れ、あるべき物語へと軌道が戻っていく。返さなければ、妹から簪を奪って(シャオ)(ユー)との離間を画策した陰険な姉となり、やはり物語本来の形に収まる。好きな方を選ぶといい」


 提示された未来に(チョン)書杏(シューシン)はかっとなり、簪を勢いよく振り上げた。


「だったらこんな簪、処分して――」

「処分したら、そのことを(チョン)紅杏(ホンシン)欧陽(オウヤン)(イー)の双方に、わたしのやり方で伝えるまでだ――君の居場所はなくなるな」

(リン)墨燕(モーイェン)!」

「言ったはずだ。これはわたしの作品だと。忘れてしまったのなら、もう一度言う。君に作品を書き替える権利はない」


 八年前と同じ冷徹な眼差しが、(チョン)書杏(シューシン)を射た。振り上げた腕は行き場を失い、簪を手放すこともできず、ついに力なく垂れる。


「次があると思うな」


 低く言って、(リン)墨燕(モーイェン)が柱から背を浮かせた。直後、橋袂(はしだもと)から人声が聞こえてくる。(リン)墨燕(モーイェン)は声がしたのとは逆方向の階段をくだって、あっという間に姿を消した。


 橋の上に立ち尽くす(チョン)書杏(シューシン)の傍を、買いもの帰りと思しき母子が手を繋いで通り過ぎ、(リン)墨燕(モーイェン)が去ったのと同じ方向へ歩いて行く。


 母子が橋の階段をくだりきる前に、(チョン)書杏(シューシン)は苛立ちを隠さない足どりで(きびす)を返した。


 とても奇妙な感覚だ、と。(チョン)宅への道を歩きながら(チョン)書杏(シューシン)は考えた。


 鵬臨(ほうりん)国で生まれ育ち、自我を持って行動をしている以上、間違いなく今ある自分は現実のものだと感じる。しかしここが物語の中である以上、行動も思考も感情も存在もすべて、(リン)墨燕(モーイェン)――鴇遠(ときとお)リンの意識の上に乗っているだけに過ぎない。


 本来、この世界の誰もそんなことを知るよしはない。『霜葉紅―さやけき恋は花より(くれない)なり―』の主役たる(チョン)紅杏(ホンシン)(シャオ)(ユー)も、例外なく。


 その中でなぜか(チョン)書杏(シューシン)だけが、『霜葉紅』の()()()()()前世の記憶を得た。この先なにが起きるかも、自分の存在が虚構であることも知っている。分からないのは、鴇遠(ときとお)リンの意識から逸脱した先になにがあるのか、あるいはなにが起きるのか、ということだけだ。


 (チョン)書杏(シューシン)(チョン)宅の前まで戻ってきたところで、離離(リーリー)が門から飛び出し駆け寄ってきた。


三娘子(さんじょうし)!」


 歳下の侍女は傍までくるや、(チョン)書杏(シューシン)の袖をつかんで眉を逆立てた。


「帰ってくるなり、また出かけたと聞いて驚きました。供も連れずに、どちらにいらしたんですか」


 幼くして(チョン)家へ売られてきた離離(リーリー)は侍女の(かがみ)と言える従順さだが、主人に心配をかけられると途端に少しばかり口煩さが顔を出す。けれど(チョン)書杏(シューシン)も長年のつき合いで慣れたもので、袖をつかむ手をなだめるように軽くさすった。


「そう怒らないで。すぐ帰ってきたのだから。それよりも離離(リーリー)、確認したいことがあるのだけど」


 話題を変えれば、離離(リーリー)は身に染みついた従順さで主人の言葉を待つ。(チョン)書杏(シューシン)は身振りで耳を近づけさせ、声を落として囁いた。


大兄上(おおあにうえ)の方はどうなっている?」


 離離(リーリー)は目を大きくして(チョン)書杏(シューシン)を見てから、囁き返して答えた。


「方々で聞き込みをしていますが、まだ見つかっていません」

「急ぐように伝えて。とにかく早く、大兄上がどうしているか知りたいの」

「かしこまりました」


 承知を示した離離(リーリー)に頷き返し、(チョン)書杏(シューシン)(チョン)宅の門をくぐった。


 (チョン)家の長子たる大兄は、(チョン)書杏(シューシン)にとってただ一人の同腹の兄だ。名前を、(チョン)章蒿(チャンハオ)という。


 (チョン)章蒿(チャンハオ)は十年前、嫡母と生母の(いさか)いを嫌って家を飛び出してしまった。長男だから、という理由で生母から奪いとるような形で嫡母の下で十歳を過ぎるまで育てられたのも、(チョン)章蒿(チャンハオ)の家中での立場を微妙なものにしてしまった原因だ。


 家を出て数年は行き先を把握できていたが、いつからか音沙汰が絶え、今やすっかり行方が分からない。ただ、生きていることだけは間違いない――『霜葉紅』で(チョン)書杏(シューシン)が死に繋がる罪悪に踏み出す切っかけを作るのが、(チョン)章蒿(チャンハオ)なのだから。


 行方不明の(チョン)章蒿(チャンハオ)が帰ってきたとき、状況が大きく動き出す。その前に手を打つためにも、数年前から奴婢(ぬひ)たちの人脈を使って動向を密かに探らせていた。現在のところ、成果はない。


 しかし、(チョン)書杏(シューシン)は少しも諦めるつもりはなかった。

 どれだけ(リン)墨燕(モーイェン)に脅されようと、生きるための画策をやめるなどありえなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

★ 前作 ★

狡猾な男女による、華麗なる策略ロマンス群像劇。

『わたくしが溺愛されるのは当然です ― 薔薇たちの純愛革命 ―』
『わたくしが溺愛されるのは当然です ― 薔薇たちの純愛革命 ―』PR画像

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ