第九集 警告
成書杏が清雲観から帰宅すると、内院で成妙杏が侍女を相手に羽蹴りをしていた。束ねた鶏の羽に重りを挿したものを、つま先や踵で器用に蹴り上げている。
侍女の蹴った羽が、方向を誤って成書杏の方へと飛んできた。躊躇わず、足を振り抜き蹴り返す。
羽が高く弧を描き、成妙杏が、わっとはしゃいだ声をあげた。
「三姉上! お帰りなさい、早かったのね」
「妙杏、二兄上はもう帰っている?」
挨拶も返さずに、成書杏は早口で問いかけた。真っ直ぐ手元に降ってきた羽を受け止めた末妹は、不思議そうな顔で首を横に振る。
「兄上はまだいないわ」
「そう……」
二兄・成章桑は官職を得てからというもの、ほぼ毎日、父と連れだって早朝から朝堂へ出仕している。大抵は昼食をとるために正午頃に一度帰ってくるのだが、今日は午前の仕事が長引いているらしい。
成章桑に林墨燕を呼び出して貰おうと思っていたが、いないのでは仕方がない。
「分かったわ。ありがとう、妙杏」
当てが外れたと分かるなり、成書杏はすぐさま踵を返した。
二兄に頼れないならば直接こちらから出向くまでだ。皇城の門は皇城司が守っている。彼らに聞けば、林墨燕にとり次いで貰うくらいできるだろう。
「誰か、馬を引いて」
適当な家僕に声をかけつつ、成書杏は再び出かけるべく表門へと足早に向かう。両開きの門扉から一歩外に出た瞬間、その足はぴたりと止まった――門の前に、黒衣を着た林墨燕が立っていたからだ。
まるで待ち構えていたかのように佇む公子から目を離さぬまま、成書杏は門扉を閉じた。短い石段をくだり、彼と真正面から向き合う。革の護腕で袖を窄めた黒衣は、いかにも身軽そうに見えた。
林墨燕の冷たい眼差しに、成書杏も負けじと目をすがめて睨み返す。
「わたくしに、なにか用事?」
「君が、わたしを探していると思ったのだが?」
「…………」
大きく息を吸い込み、成書杏は罵倒の言葉を辛うじて呑み込んだ。
林墨燕の口振りからして、どうやらずっと、こちらの動きを見ていたらしい。すべて見通した上でこれ見よがしに現れるなど、あまりにも意地が悪く腸が煮えくりかえる。
成書杏が怒りに打ち震えていると、林墨燕は嘲笑うように鼻を鳴らして顎をしゃくった。
「場所を移そう」
「……ええ、そうね」
門前で言い争っては人目を引く。成書杏は近くにいた家僕に一声かけてから、成宅を離れた。
林墨燕の先導で着いた先は、人通りの少ない裏通りの石橋だった。階段をのぼった先の橋の頂点には屋根が差しかけられていて、ほどよく日差しと人目が遮られている。高さがあり見晴らしもよいため他人の接近に気づきやすいのも、ちょっとした立ち話をする場所としては都合がよかった。
成書杏は橋の下を小舟が通り過ぎるのを見届けてから、屋根の柱に背を預けている林墨燕に向き直った。
「これはあなたの仕業?」
前置きはせず、帯に挟んでいた紅珊瑚の簪をとり出して林墨燕の眼前に突きつけた。彼は口角をかすかに持ち上げただけでなにも言わなかったが、成書杏は肯定と受けとった。
「紅杏から盗んだの?」
「人聞きが悪い。君に忘れものを届けてやっただけだ」
やっと口を開いたかと思えば、皮肉が飛び出す。成書杏は眼差しに険を宿して、簪を軽く振った。
「どうやって欧陽意にこれを?」
「霜葉紅を読んでいるのなら、皇城司がただの門番でないことは知っているだろう。市井での間諜が皇城司の本分だ。たかが書生一人の行動を把握して、商人に扮して接触するくらい、わけない」
言い終わりに林墨燕が鼻で笑い、成書杏は怒りと悔しさとで顔が熱くなるのを感じた。
皇城司は国家中枢たる皇城の警備を担っているが、それは表向きの職掌だ。彼らの本領は、諜報と監察にある。
玉座に座っているだけでは聞こえない庶民の声や市井の情報を皇帝に代わって収集し、朝堂では決して上奏されない官吏や軍人の汚職を炙り出して摘発する。
天子の耳目であり爪牙。皇帝による独裁の要。それが、皇城司の意義だ。
その能力を知らしめられた成書杏は、苛立ちのあまり口の端から皮肉めいた笑いがこぼれ出る。
「とんだ職権乱用ね」
「かもしれないな。なにせ、わたしは作者だ」
まさしく、としか言いようがなく、成書杏は口をつぐむ。
林墨燕の中身が鴇遠リンである以上、この国あるいは世界の人と事物ついてもっとも詳しいのは彼だ。それを踏まえて、彼は成書杏に対して言外に、身のほど知らずだと言っているのだ。
反論がないと見るや、林墨燕は突きつけられている簪に手を添えて、成書杏の胸元まで押し戻した。
「このあと、君には二つの選択肢がある。この簪を成紅杏に返すか、返さないか」
簪に添えていた手を持ち上げて、彼は成書杏の顔の前で指を一本ずつ立てる。
「成紅杏に簪を返せば、公子からの贈りものをそのまま妹にくれてやる非情な女子として欧陽意との縁が切れ、あるべき物語へと軌道が戻っていく。返さなければ、妹から簪を奪って蕭雨との離間を画策した陰険な姉となり、やはり物語本来の形に収まる。好きな方を選ぶといい」
提示された未来に成書杏はかっとなり、簪を勢いよく振り上げた。
「だったらこんな簪、処分して――」
「処分したら、そのことを成紅杏と欧陽意の双方に、わたしのやり方で伝えるまでだ――君の居場所はなくなるな」
「林墨燕!」
「言ったはずだ。これはわたしの作品だと。忘れてしまったのなら、もう一度言う。君に作品を書き替える権利はない」
八年前と同じ冷徹な眼差しが、成書杏を射た。振り上げた腕は行き場を失い、簪を手放すこともできず、ついに力なく垂れる。
「次があると思うな」
低く言って、林墨燕が柱から背を浮かせた。直後、橋袂から人声が聞こえてくる。林墨燕は声がしたのとは逆方向の階段をくだって、あっという間に姿を消した。
橋の上に立ち尽くす成書杏の傍を、買いもの帰りと思しき母子が手を繋いで通り過ぎ、林墨燕が去ったのと同じ方向へ歩いて行く。
母子が橋の階段をくだりきる前に、成書杏は苛立ちを隠さない足どりで踵を返した。
とても奇妙な感覚だ、と。成宅への道を歩きながら成書杏は考えた。
鵬臨国で生まれ育ち、自我を持って行動をしている以上、間違いなく今ある自分は現実のものだと感じる。しかしここが物語の中である以上、行動も思考も感情も存在もすべて、林墨燕――鴇遠リンの意識の上に乗っているだけに過ぎない。
本来、この世界の誰もそんなことを知るよしはない。『霜葉紅―さやけき恋は花より紅なり―』の主役たる成紅杏や蕭雨も、例外なく。
その中でなぜか成書杏だけが、『霜葉紅』の読者だった前世の記憶を得た。この先なにが起きるかも、自分の存在が虚構であることも知っている。分からないのは、鴇遠リンの意識から逸脱した先になにがあるのか、あるいはなにが起きるのか、ということだけだ。
成書杏が成宅の前まで戻ってきたところで、離離が門から飛び出し駆け寄ってきた。
「三娘子!」
歳下の侍女は傍までくるや、成書杏の袖をつかんで眉を逆立てた。
「帰ってくるなり、また出かけたと聞いて驚きました。供も連れずに、どちらにいらしたんですか」
幼くして成家へ売られてきた離離は侍女の鑑と言える従順さだが、主人に心配をかけられると途端に少しばかり口煩さが顔を出す。けれど成書杏も長年のつき合いで慣れたもので、袖をつかむ手をなだめるように軽くさすった。
「そう怒らないで。すぐ帰ってきたのだから。それよりも離離、確認したいことがあるのだけど」
話題を変えれば、離離は身に染みついた従順さで主人の言葉を待つ。成書杏は身振りで耳を近づけさせ、声を落として囁いた。
「大兄上の方はどうなっている?」
離離は目を大きくして成書杏を見てから、囁き返して答えた。
「方々で聞き込みをしていますが、まだ見つかっていません」
「急ぐように伝えて。とにかく早く、大兄上がどうしているか知りたいの」
「かしこまりました」
承知を示した離離に頷き返し、成書杏は成宅の門をくぐった。
成家の長子たる大兄は、成書杏にとってただ一人の同腹の兄だ。名前を、成章蒿という。
成章蒿は十年前、嫡母と生母の諍いを嫌って家を飛び出してしまった。長男だから、という理由で生母から奪いとるような形で嫡母の下で十歳を過ぎるまで育てられたのも、成章蒿の家中での立場を微妙なものにしてしまった原因だ。
家を出て数年は行き先を把握できていたが、いつからか音沙汰が絶え、今やすっかり行方が分からない。ただ、生きていることだけは間違いない――『霜葉紅』で成書杏が死に繋がる罪悪に踏み出す切っかけを作るのが、成章蒿なのだから。
行方不明の成章蒿が帰ってきたとき、状況が大きく動き出す。その前に手を打つためにも、数年前から奴婢たちの人脈を使って動向を密かに探らせていた。現在のところ、成果はない。
しかし、成書杏は少しも諦めるつもりはなかった。
どれだけ林墨燕に脅されようと、生きるための画策をやめるなどありえなかった。





