1 ゴシック・ダイヤモンド
アルダナ市の夜は、漆黒の霧が街路を包み、月光が石畳を滑るように照らしていた。
その光はまるで冷たい銀の刃のように鋭く、通りを行き交う人々の影を長く引き伸ばす。
街の奥深くにそびえる魔導師ギルドの塔は、濃密な闇の中で幽かな光を放ちながらも、どこか不安定な輝きに満ちていた。
頂に据えられた魔石は、まるで命を持つかのように脈動し、その輝きに隠された狂気が夜の静寂を震わせている。
俺はギルドの一室に招かれた。
重厚な木製の扉が閉じられると、そこは完全に外界から隔絶された空間となった。
古びた天井から吊るされた燭台が僅かな明かりを灯し、壁に並ぶ魔法書と錆びた器具の影が、不気味な輪舞を繰り返す。
机の上に置かれたカップからは湯気が立ち上り、その香りはわずかに鉄臭さを帯びていた。
黒い外套を無造作に羽織り、街の通行人に紛れるただの商人を装った俺は、椅子に腰掛けていた。
だが、この場の異様な空気を前に、そんな偽装も意味を失う。
目の前に立つ青年は、焦燥と恐怖を隠せずにいるようだった。
「レイさん、どうかこの事件を解決してください!」
彼の声は切実だった。
その震える拳と青ざめた顔が、事態の深刻さを物語っている。
俺は一瞬、カップの湯気に目を落とし、冷たい声を返した。
「俺はただの商人だ。物騒な事件なんて柄じゃない」
青年の焦燥が一層深まるのが分かった
「盗まれたのは、ギルドの至宝――ダイヤモンドの魔石です!結界を支える唯一の力がなくなれば、この街全体が崩壊してしまいます!」
その言葉に、俺の瞳がわずかに光を帯びた。
「ダイヤモンドの魔石……なるほどな」
その名を聞いただけで、その魔石がいかに重要な存在であるかは理解できる。
無尽蔵の魔力を秘め、街全体を守る結界を支える要石。
同時に、それを巡る争いがどれだけ血生臭いものになるかも知っていた。
俺はゆっくりとカップを置き、椅子から立ち上がる。
「分かった。少し調べてみる。ただし、俺が普通の商人として動くという条件だ」
「ありがとうございます!」
青年は深々と頭を下げ、その顔にはほのかな安堵が浮かんでいた。
保管室はギルドの地下にあり、冷たい石壁が湿気を含んで光を鈍く反射していた。
重厚な鉄扉には複雑な魔法陣が彫り込まれ、かつては堅固な結界で守られていたはずだ。
だが今、その輝きは失われ、扉の一部には焼け焦げた痕跡が残っている。
俺は扉の前に立ち、その表面をじっと見つめた。
鼻をつく微かな硫黄の臭いと、湿った血の匂い。
「結界が解除されていた痕跡があるな」
背後から青年が小さな声で尋ねる。
「どうして分かるんですか?」
俺は扉を押し開け、中へ足を踏み入れた。
室内は魔力の残滓が満ち、床に刻まれた魔法陣は無残にも焼き切られていた。
薄暗い空間を照らすのは、天井の裂け目から漏れる僅かな月光だけだった。
「転移魔法だな。ただし、ただの転移じゃない。かなり強引な術式を使った痕跡がある」
俺が独り言のようにつぶやくと、青年は驚きの声を上げる。
「転移魔法……そんな高度な術式を使える人が、この街に?」
俺は薄く笑みを浮かべた。
「いるさ。こういう事件を起こす奴なら、どんな手間でも惜しまないだろう」
棚の上には微かな魔力の痕跡が残り、焦げ跡がその周囲を覆っている。
俺は指先をかざし、魔力の残留を感じ取った
「問題は、この魔石をどうやって持ち出したかだ」
部屋に漂う空気はどこまでも冷たく、何か異質なものが隠されているような気配を感じさせた。
俺はわずかに笑みを浮かべ、つぶやいた。
「この事件、ただの盗難じゃ終わらないようだな」