12
私は今日の仕事が終わり片付けをしていた。ハリスさんは席を外していて、他の文官たちはすでに仕事が終わり帰っていたので文官室には私しかいない。今日は思っていたより仕事の量が多く、終わるのに時間がかかってしまった。外も夕日が沈み始めている。早く帰らなければと急いで片付けをしていると、文官室の扉が開き誰かが入ってきた気配がした。私はきっとハリスさんが戻ってきたのだろうと思い、片付けをしながら声をかけた。
「ハリスさん。今日の仕事は終わりましたので片付けが終わりましたらお先に失礼しますね」
「…」
「あ、そういえば先日の話はどうなりましたか?きっと殿下のことですから快く受け入れてくださいましたよね?」
「…」
「私もそろそろ次の仕事を探さなくちゃいけないですね。うーん、それにもうすぐ二十二歳になる私をもらってくれる素敵な人も見つけないといけないし忙しくなりそう…ってハリスさん?聞いてま…」
「シルフィー」
「っ!」
私はそこにいるはずのない人の声に息を止めた。心臓が驚くほど速く鼓動を刻んでいる。
「ア、アレス殿下…?」
私は恐る恐る扉の方に視線を向けた。そして扉の前に立っているアレス殿下と目が合う。まさか文官室に入ってきたのがハリスさんではなくアレス殿下だとは思いもしなかった。それなのに私はなんて馴れ馴れしく話しかけてしまったのだろうか。
「も、申し訳ございません!アレス殿下になんて失礼な態度を…」
「ねぇ、さっきの話は本気なのかな?」
「え?」
私は頭を下げて謝罪したのだが、アレス殿下から発された言葉をすぐに理解することができなかった。なぜなら言葉は優しいのに声は怒っていたから。
(殿下が怒っているところなんて見たことないけど、これは間違いなく怒ってる…!どうして確認もせずに話し始めちゃったのよ!私のバカ!)
「申し訳…」
「違う。謝ってほしいわけじゃない」
とりあえずもう一度謝らなければと謝罪の言葉を口にしようとしたが、途中で遮られてしまった。しかも謝るなと言う。それなら私はこの場をどう乗り切ればいいのだろうか。
「私が聞きたいのはさっきの話は本気なのかってことだ」
――カツ
「え、えっと…」
――カツ
「どうなの?」
――カツ
「で、殿下?」
なぜかアレス殿下が一歩ずつ私に近づいてくる。私は反射的に距離を保とうと一歩ずつ後ろに下がった。
「どうして逃げるのかな?」
「に、逃げてなんて…っ!」
気づけばいつの間にか私は壁に追いやられてしまった。そして目の前にやって来たアレス殿下が私の顔の横に手をついた。
(~っ!こ、これっていわゆる『壁ドン』ってやつ!?)
私がこの状況に激しく混乱していると、頭の上から声が降ってきた。
「シルフィー。さっきの話は本気なの?」
「っ!そ、それは…」
私はアレス殿下と目が合わないように俯いた。こんな至近距離でアレス殿下と目が合おうものならドキドキしすぎて心臓が破裂してしまうかもしれない。
「私の目を見て」
しかし私の小さな抵抗などあっけなく崩され、アレス殿下の手によって顔を上げさせられた。
(~~っ!これは『顎クイ』!?)
無理矢理顔を上げさせられたわけだが、その手つきは乱暴ではなくとても優しかった。それに私の顎に触れている指先からアレス殿下の熱を感じて本当に心臓がどうにかなってしまいそうだ。
「仕事を辞めて他の男と結婚するのかい?」
「っ!」
アレス殿下の美しい緑の瞳に見つめられ、とても逃げ出すことなどできそうにない。それに私は混乱しながらも、アレス殿下の瞳に悲しみの色があることに気がついた。
(どうして?)
しかしそんなこと聞けるわけもない。だから私はなんとか心を落ち着かせ、ハリスさんに伝えた時と同じように答えた。
「こ、この国に住んで一年経ちましたし経済的にも余裕が出てきたので自分の力で頑張ってみようと思ったんです。それに、私、一度結婚には失敗していますが、子どもが欲しいんです。だから早いうちにお相手を見つけるために仕事を変えようと思って…」
「それがシルフィーの本心なの?」
「っ、それは…」
それが本心なのかと聞かれれば違う。本心はアレス殿下とヒロインの仲を近くで見るのが辛いから。何も持たない平民が輝く未来を持った皇太子殿下に恋をするなんて許されるわけがない。だから私はここから離れたいと思ったのだ。
それなのにどうしてそんな悲しそうな顔をするのだろうか。そんな顔をされたら嘘をつくのが心苦しくなるではないか。
「…違う。本心じゃないのに…」
「本当?」
「…っ!あ、い、今のは…!」
嘘をつく罪悪感からかうっかり心の声が口から出てしまった。ただでさえドキドキしすぎて正常な思考なのか自信がないのにどうやって誤魔化せば…と考えたところで私は気がついてしまった。できることなら気づく前にここを去りたかった。
私のアレス殿下に対する淡い想いは、すでに恋という名に変わっていたことを。
恋と自覚してしまった以上このまま恋心が消えるまで辛い想いをするよりも、今ここでこの恋心に終止符を打った方がいいのではと正常ではない私の思考が答えを導きだした。
どうせ仕事は辞めるのだ。仕事を辞めればアレス殿下に会うこともないし、長い時間苦しみ続けるより一瞬の痛みで終わった方がいい。
「シルフィー?」
私は覚悟を決め、緑の瞳を強く見つめ返した。