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「嘘でしょ…?」
私は目の前の光景を目の当たりにして頭を抱えたくなった。
今私の目の前では夫であるタリストン公爵とこの国の王女であるマーガレット王女が身体を寄せ合い、唇を重ねている。
「嘘よ…。お願い、誰か嘘だと言って…!」
残念なことに私の願いが聞き入れられることはなく、むしろ二人はさらに激しくお互いの唇を貪り始めた。このままでは最後まで致してしまいそうな勢いだ。
「どうして、どうして今なのよ…」
私は強く思う。もう少し、いや、せめて結婚する前に思い出すことができていればと。そうすればさっさとこんな国からは逃げたというのに。
「…あの二人、頭が沸いてるんじゃないの!?」
とても受け入れられない現実にまだ混乱している私は、衣服が乱れ始めた夫と王女に向けて小声で文句を言うことしかできない。
「…あんたたちのせいでこの国、もう少しで滅ぶのよ!?」
そう。私が受け入れられない現実というのは夫が私を裏切って浮気をしていたことではない。浮気自体は正直どうでもいい。元々夫に愛情など持ち合わせていないから。
だけど夫と王女の浮気が原因でこの国は滅ぶことになる。
先ほど夫と王女の浮気を目の当たりにした瞬間、前世の記憶が甦った。そしてすぐさま理解したのだ。
ここが小説『奇跡の聖女は皇太子殿下に溺愛される』の世界であることに。
――小説『奇跡の聖女は皇太子殿下に溺愛される』
この小説の舞台は私の住むシャウト王国ではなく隣国のバーミリオン帝国だ。バーミリオン帝国の皇太子と平民の聖女が恋に落ち、障害を乗り越え結ばれるというよくある恋愛小説である。
皇太子は生まれつき病を患っており二十歳まで生きられないとされていたが、十九歳の時にたまたまお忍びで訪れていた街で出会ったヒロインの奇跡の力で病が完治する。そこから二人は一気に距離を縮め恋人同士となる。そして婚約者がいなかった皇太子はヒロインを自分の婚約者にと望んだ。皇帝と皇后は息子を救ってくれたヒロインを受け入れるが、自分の娘を婚約者としたい貴族の妨害に遭う。しかしその妨害も二人で力を合わせ乗り越え、ハッピーエンドを迎えるのだ。
しかしここで疑問に思うのが、いくら皇太子が二十歳まで生きられないからといって婚約者がいないということだ。皇帝と皇后の間には皇太子しか子がおらず、皇室の血を残すのであれば早くに婚姻させ子を儲けることもできたはずなのだ。それなのにヒロインと出会う十九歳の時点で婚約者がいない。まぁご都合主義だからと言われてしまえばそれまでなのだが、それには訳がある。本来であれば皇太子は十八歳の時に婚姻するはずだったのだ。しかし婚姻するはずの相手が浮気をしており、そのことを知った皇帝が激怒。大切な息子を虚仮にされた皇帝の怒りはおさまらず戦争へと発展するのだ。その結果この世界から一つの国が姿を消すことになる。
その国というのがお察しの通り、私がいるシャウト王国だ。そして皇太子の婚姻相手が目の前で夫と唇を重ねているマーガレット王女なのである。
マーガレット王女は来月十八歳を迎える。皇太子とマーガレット王女は同い年だ。十八歳になると同時にバーミリオン帝国へ嫁ぐことが決まっている。だが小説では皇太子がマーガレット王女と婚姻したとは書かれていなかった。さらに皇太子はすでに十八歳を迎えている。そこから導き出せることは、マーガレット王女が十八歳を迎えるあと一ヶ月の間にシャウト王国はバーミリオン帝国に滅ぼされるということだ。
バーミリオン帝国はこの世界で一番の大国だ。そんな大国の怒りを買ってしまえば滅ぼされてしまうのは当然のこと。しかしそのことをこれっぽっちも理解しておらず、本能のままにお互いを求め合う夫と王女は頭が沸いているとしか思えない。シャウト王国は小国ではあるが、一国の公爵と王女なのに頭が悪すぎる。
そして最悪なことに私はその頭が悪すぎて国を滅ぼす原因となる男の妻なのだ。当然この男は帝国に捕らえられ処刑される。さらに小説に名前すら出てこないモブなのにあの男の妻というだけで連座にされるのがこの私、シルフィー・タリストンだ。
「…最悪。私はまだ二十歳なのよ?それに戦争で私の家族もみんな死んでしまう運命だなんて…」
小説にはこの国の貴族は根絶やしにされたとだけ書かれていた。私の生家は災害続きで領民が逃げ出し借金まみれであるが一応伯爵家。ということは父と母、それにまだ十歳の弟も戦争によって死んでしまうのだろう。
「それもこれもあの二人が馬鹿だからよ…!あいつらのせいで死ぬなんてごめんだわ。何か、何かないかしら…。何とかして逃げる方法を探さないと…」
私はこの場から離れながら頭をフル回転させる。
(とりあえずすぐに離縁をする?…いや、タリストン公爵家からは資金援助を受けている手前、浮気を理由に離縁を迫っても離縁には時間がかかるかも。それに家族を連れて逃げ出すにしても行く当てもお金もない…。一体どうすれば…。一番は戦争が起きずに当人たちだけが罰せられればいいのに…ってそんな都合のいい方法なんて…。あっ!そうだった!あるじゃない!そんな都合のいい方法が!もしもこれがうまくいけば無事に生き残れるかもしれない。いえ、もうこれしか方法がないわ!)
私は一つだけ自分と家族が生き延びる方法を思いついた。しかしそれは賭けでもある。なぜなら私の秘密を明かさなければならないから。その秘密は私の身に危険が及ぶ可能性があるがそれしか方法がない。
(それに小説の内容が変わっちゃうかもしれないけど…。自分と家族の命には代えられないわ!ヒロインさん、ごめんなさい!)
私は会ったこともないヒロインに心の中で謝りつつ覚悟を決めた。ここが小説の世界であればきっと私が少し内容を変えてしまっても二人は結ばれるはずだ。まあ本音を言えば自分の命の前では他人の恋愛事情などこれっぽっちも関係ないのだ。皇太子とヒロインが小説通り結ばれたなら『よかったね』と思うし、もしも結ばれなければ『まぁ仕方ないよね』としか私は思わないだろう。
私は馬車乗り場に停めてあるタリストン公爵家の馬車に乗り込んだ。
「馬車を出して!早く!」
「し、しかし、公爵様は…」
「公爵様は用事が終わるまでに時間がかかるからまた迎えにくれば大丈夫よ。だから早く!」
「わ、分かりました」
御者を何とか説得し馬車を出してもらう。
(どうせまだお楽しみ中だから時間がかかるはずよ。…このことを王家は知っているのかしらね)
マーガレット王女はずいぶんと甘やかされていると聞いたことがある。もしかしたら王女の望みを叶えるために国王が夫に隠れ蓑となる女性と結婚するように指示したのかもしれない。だから王命で私と夫が婚姻させられた。私は超貧乏伯爵家の娘。貰い手などおらず、資金援助をされれば従うしかない。そういった意味でちょうどいい存在だったのだろう。王家もどうせ期間限定の関係だから、婚約者である皇太子にバレなければ問題ないだろうと思ったに違いない。可愛い娘のためなのかもしれないが、結果バレて国が滅びる。当人たちや王家だけならともかく、関係ない人間が巻き込まれるのだ。そんなのやっていられるか。
(前世の記憶を思い出すまではなんで私が夫の相手に選ばれたのか疑問だったのよね。それに初夜の時に一年待ってほしいって言ってきたのは、私を気遣ってではなく王女様に操を立てるためだったのかしら。はっ、アホらしいわ!)
私は王命により十九歳でタリストン公爵家に嫁いだ。夫であるタリストン公爵は私より三つ年上の二十二歳。嫁いでから一年が経ったが、私の身体は初夜の時に言われたとおりいまだ清いままだ。
(それなのに連座で処刑されるなんてあんまりだわ…)
タリストン公爵邸にたどり着き私はすぐに自室へと戻った。引き出しからペンと便箋を取り出し急ぎ手紙を認める。この手紙は明日の朝一に出しに行かねば。普段なら使用人に頼むのだが、自分と家族の命を左右するものを他人に頼むことなどできない。
手紙を書き終わったので使用人に手伝ってもらい寝る準備をする。使用人からは夫を待たなくてもいいのかと聞かれたが体調が悪いからと答えておく。明日からはやらなければならないことがある。あんな男の帰りなど待ってはいられない。私はさっさと自室のベッドに潜り込んで目を閉じた。
せっかく手に入れた二度目の人生だ。もっと生きたい。
(絶対生き残ってみせるんだから…!)