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第三話 隻腕の女 その3 地家の憂鬱

やはり祢田無令子は重大な事実を掴んでいた。なんとか聞き出そうとする杉田達だが、曾太郎にしか話せないと頑なに供述を拒む。

杉田は一計を案じるが、謎の集団、天誅教会も動き出す。


  地家の憂鬱

 数日後、本間医院。

 生命の危機を乗り越えた祢田無令子は、大日本帝国赤坂総合病院から本間医院に転院していた。

 質素な平屋の木造病院だが、本間家代々受け継がれてきた由緒ある病院だ。ある程度の手術が出来るよう設備も整っている。隣接する建屋は本間の居宅であり、深夜早朝の緊急体制も整えられている。


 個室に寝かされていた祢田無令子がふと目を覚ました。

 薄汚れた灰色の天井が目に飛び込んできた。

 自分はどこにいるのか分からなかった。起き上がろうとしたが全身に痛みを感じ、あまりのつらさにうめき声を上げた。

「祢田無令子さん、目を覚ましました」

 気がついた看護士が地家に報告を入れると、待機していた地家が病室に飛び込んでいった。

「気がつきました? ここは病院です。安心してください」

 優しく声をかける地家に祢田無が譫言のように囁いた。

「病院? 分からない、わからないわ……でも至急総帥閣下に……報告しなければ……わたしの端末は何処? ……返して」

 地家は咄嗟に嘘をついた。

「総帥閣下は今、世界を飛び回っています。今は無理ですよ」

 曾太郎が死んだことを言うと祢田無がショックを受けると感じたからだ。

「驚愕一号の回線を使えば、……総帥閣下に報告ができる……」

 上体を起こそうとして藻掻く祢田無令子に地家は慌てた。

「まだそんな事が出来る体ではありません。私はあなたの担当医です」

「わたしの体は、どうなっても……急いで連絡を取らないと……」

 興奮する祢田無。何かを掴んでいる、と察した地家は祢田無に耳元で囁く。

「代わりに私が総帥閣下にお話しします。何があったんですか」

 すると急に祢田無は黙り込んだ。

「どうしました? 気分が悪くなりましたか」

「総帥閣下にしか話せません」

 呻く様に言い残して、ベッドの中に潜り込んだ祢田無令子だった。

 やはり祢田無令子は何か重大な事実を掴んでいるようだ。

 寝込んでしまった祢田無を見ながら、暫く悩んだ地家は病室を出ると、杉田に報告をいれた。

「そうなの、意識を回復したと思ったら曾太郎に報告したいとか言いだして」

「今はどうなんだ?」

 電話口の杉田が地家に問いかける。

「今は寝ているわ」

 杉田の嘆息が地家の耳に入った。

「しかし曾太郎と連絡が取りたいと言っても、な。相当重要な秘密を掴んだに違いない。それにそれだけ決心しているのだから、恐らく総帥の前でしか話さないだろう。しかし弱ったな……。いつまでも曾太郎の非業の死を隠し切れるものではない。早晩、祢田無令子の耳に入ることだろう。しかしそうなったとき、恐ろしいことが起きるかもな」

 杉田の言葉に地家は思わず身震いした。

「何よ、恐ろしい事って。脅かさないでよ」

 杉田は断言した。

「事実を知れば半狂乱になり自死するだろう」

 地家は思いついた。

「御手洗君に総帥の替わりをしてもらったら?」

 寺家の考えに杉田は直ぐさま否定した。

「駄目だ。曾太郎の人物データが手に入らない以上、化けようが無い。さらに、いくら芸達者な役者だとしても年格好までは誤魔化せない。例え、画面越しとしても、祢田無の心理からすると直ぐにばれてしまうだろう。そんな見え透いた嘘がばれたら祢田無は永遠に謎を残したまま口を開かなくなるだろう……君は祢田無令子の主治医だ。曾太郎が亡くなったことを祢田無の耳に入るのをできるだけ遅らせてくれ。それにこれが解決するまでは、どこでどんな依頼が来ても全て断われ」

「分かったわ」

 それからの数日。

 まだベッドから離れられない状態だが、祢田無の体力、気力が徐々に回復して行く様にも見える。

 しかし、寺家が幾度とも無く問いかけても答えること無く、無言を貫いている。与えられた流動物を啜り、疲れを感じるとベッドに横になりウトウトし始める。これの繰り返しだ。

『どうしたもんだろうねえ……』

 寺家はため息をつく。その都度、寺家は杉田に報告を入れる。

「日を追うごとによくなってきているんだけどね」

「本間先生は何かアドバイスがあるか」

「自分で考え解決しろって。もう完全に放置状態よ。やんなるわ。それと気になることがあるの」

「気になることとは?」

「本間先生に奇妙な患者さんが来てね、入院とか病室とかしつこく聞いていた患者さんが来たという事よ」

「ふむ、それは気になるな」

 地家からの電話を切った後、杉田は腕を組み目を閉じ暫く考え込んだ。

 外線が鳴り響き、その応対に三人がかかりっきりになっていても、杉田の耳には入らない。それよりもっと切迫した現実に対応するしか杉田の頭にはないのだった。

 保留ボタンを押して杉田に対応を伺おうとした黒川は、殺気だった杉田の気配を全身の肌で感じとった。会話録音ボタンを探り当てた黒川は相手に返答した。

「お待たせして申し訳ありませんでした。只今担当不在で、帰り次第連絡させます。お電話番号を……」

「楓さん、仕事には慣れたかな」

 天馬はにっこりと笑った。

「何とか、電話もこなせる様になりました」

「それはよい。瑠那、楓の仕事ぶりはどうだ」

「大分板に付いてきたようよ」

 素っ気なく答える管弦に、杉田がいきなり立ち上がったと思うとハンガーに掛けてあった背広を手にした。

「瑠那、明日から本間病院へ行って寺家をフォローしろ。寺家には後ほど連絡をする」

 突然の杉田に管弦は吃驚顔だ。

「ええ~、なによう~、訳わかんな~い」

「理由は後で話す。これから御泥木邸に行ってくる。何かあれば連絡をくれ」

 そう言いながら杉田は大型トラックスケロク三号車に飛び乗った。

「全く……社長の行動は突飛すぎるな」

 和道はぼやいた。

 

 大型トラックスケロク三号車が御泥木邸裏の納品口に到着すると守衛が飛んで出てきた。

 杉田の顔を見ると敬礼する。いまや頻繁に出入りする杉田は完全に顔パスだ。

「杉田さん、ご苦労様です。本日のご用件は?」

「岡田様、ご在宅かね」

「少々お待ちください」

 スクープを得ようと血眼になって待機しているマスコミは、ため息をついた。

「この花屋、最近よくくるなあ」

「仮の祭壇があって枯らしてなんねえとかなんとか、そこの守衛が言ってたぜ」

「出てきたらトラックの中味見せてくれ、と声かけるか?」

「まあ、無理だろうなあ」

 ぼそぼそと話し込んでいる記者連中を横目に、確認が取れた守衛は納品口のシャッターを開けスケロク三号車を招き入れた。

「岡田様、お待ちです。どうぞお入りください」

 エレベーターが降りてドアが開くと岡田が待っていた。

 岡田に招かれ玄関に入った杉田は、天井を見上げた。

 あの眩しいくらいに輝いていた巨大シャンデリアが外され、花形の見窄らしい照明器具に変わっている。

 さらに応接間に入ると、今まで置いてあったあの夥しい数々の家具調度品とフカフカだった高級絨毯ががすっかり片付けられ、ラウンドテーブルと一人用ソファが三脚おかれているだけの、寒々としたがらんどうの空間になり果てていた。

 杉田の後ろから岡田が声をかける。

「驚かれたことと存じます。お恥ずかしい話ですが、相続対策弁護団からの処置でございます……令嬢婦人と勝彦様をお呼びしますので、ここでお待ちください」

 杉田は岡田の声に振り返ると、冷ややかな目で岡田を見つめた。

「いや。今日はどうしても岡田さんと内密な話をしたい」

 杉田の申し出に岡田は吃驚した顔をした。

「如何されましたか、杉田様」

「岡田様、あなたとサシで話がしたい」

 何が言いたいのだろう、と呻吟した岡田だったが……。

「分かりました。ではこちらへ」

 そう言いながらエレベータを再度操作しながら、岡田は外光も差し込まない地下の事務所に招き入れた。

 そこは杉田も初めて見る光景だった。

 通路の左右にはガラス張りの部屋がいくつも仕切られており、数名の男女が忙しなく動いている。その細長い通路を歩きながら岡田は話し出した。

「この地下は事務方の作業事務所です。これだけの邸宅ですので、各セクションの協力がないと成り立ちません。御泥木家一家四人の為には……いや、今や二人だけですが、約八十名が二十四時間三交代制で昼夜を問わず働いております」

 杉田は訝しげだ。

「二人だけのために?」

 岡田は続ける。

「お二人のお世話をするだけで無く、この邸宅の保守管理業務や設備点検関連、食料仕入れなど、この邸宅を維持するためには必要でございます。まあ、いずれにしてもそのうち、相続や経費の関係で縮小されると思いますが」

 岡田に案内され杉田は突き当たりの一室に入った。そこは簡易的に区切られた応接場所に杉田は招かれ、腰を下ろすと今までの経緯を話した。

 事の経緯を真剣に聞いていた岡田は、頭髪を掻き揚げた。

「祢田無令子さんは総帥閣下のご命令で産業スパイを追っていたと……。確たる証拠を掴んだが、報告する前に囚われの身になり命まで脅かされるようになった、と……」

 杉田は付け加えた。

「今は安全な場所にいます。とはいえ、見つかってしまうことは時間の問題です。相手は必死になって祢田無令子を探していることでしょう。見つけられれば祢田無氏の生命も危うい」

「その相手とは?」

「謎です」

「なんとッ」

 杉田の言葉に岡田は吃驚した。

「しかし曾太郎総帥閣下と話がしたいとは……弱りましたな」

 岡田は困った顔で額に手を当てた。

「恐らく直々に報告するのが任務と思っていますね。財閥関係者と言っても絶対口を開かないでしょう」

 岡田はますます困った顔をした。

「それにこの様な重要なお話しを私一人で、聞いてしまった以上秘密にしておく訳には参りません。弥生様勝彦様にお話をしないとなりません」

「いや、話してはいけません」

 杉田はきっぱりと言った。岡田は抵抗するように言う。

「聞いてしまった以上、審らかにしませんと。これは弥生様勝彦様に対する裏切りでございます」

 杉田は首を振る。

「駄目です。私はあなたを信用して話したのですよ」

 岡田は執拗に抵抗をする。

「何故でございましょうか。今や亡き曾太郎総帥閣下です。では……勝彦様だけにも打ち明けます」

 さらに杉田は首を横に振る。

「一人で決められない勝彦様だ。聞いたら直ぐ弥生様に意見を求めるでしょう。特に令嬢婦人には悟られてはいけない」

 岡田は身を乗り出した。

「そこまでくどいように念を押す杉田様にとって、それはまた……?」

 岡田の声を無視するように杉田は言った。

「こちらの屋敷には小曽礼マイルさん、いますよね。呼び出してもらうことは出来ますか」

 杉田の突然の言に岡田は驚いた。

「小曽礼マイル? 今は無き総帥閣下が連れておいでになりました小曽礼マイルですか。確かに彼女はここの地下事務所で管理業務を手伝わせておりますが、何故彼女のことを?」

 杉田は鼻筋に皺を寄せた。

「小曽礼マイルさんとも面識がありますのでね」

 そして小曽礼と弥生の関係も審らかに話した。

「杉田様、あなたは不思議なお方だ……」

 目を丸くする岡田に杉田は言った。

「先ほども申したように岡田様を信用してお話をしているのです。小曽礼マイルさんとお話がしたいが」

「お待ちください」

 岡田は内線電話を取り上げ小曽礼を呼び出した。

 数分後事務服を身にまとっている小曽礼がやっきた。そして杉田を認めると頭を下げた。

「何時ぞやは大変お世話になりました。杉田社長は命の恩人です。今でも感謝の念が絶えません。ありがとうございました。その後、御手洗様、どうしていらっしゃいますか」

 杉田はにこりとした。

「元気に役者道に励んでおりますよ」

「それはよかった」

 杉田は安堵する小曽礼をじっと見つめた。

「感謝されにここに来たのではありません。逆に助けられたく、ここに来たのです。一緒にスパイを調査していた祢田無令子さん、ご存じですよね」

 小曽礼は顔を曇らせた。

「はい、今、財閥関係の病院に入院しています。心配していますが、面会謝絶なので……」

「落ち着いて聞いて下さい、小曽礼マイルさん」

 杉田は小曽礼に諭す様に話し出した。

「祢田無令子さんは今、私たちスケロク商事が用意した病院に転院しています。祢田無さんは御泥木財閥病院で伝染病、と偽られ殺されるところでした。私たちはその偽情報を知って祢田無令子さんを救出しました。いいですか、よく聞いて下さい。祢田無令子さんはスパイに関する重要な情報を得たと思います。そこで病院が祢田無さんを亡き者にしようと企て幽閉、衰弱死させようとしたのです」

 小曽礼はあまりの言葉に目を丸くし、頭を振った。

「何ですって……とてもじゃ有りませんが信じられないお話しです。普通なら信用出来ません。が……杉田社長がおっしゃるのならそれは本当でしょう。彼女は今、どうしてます?」

「祢田無令子さんは意識を取り戻しましたが、曾太郎総帥閣下とどうしてもお話ししたいと言うことです。多分、祢田無さんは総帥閣下でないと話をしないでしょう。しかしご存じのように、総帥閣下亡き以上真実を語ってもらうのは、小曽礼さん、あなた以外におりません。お願いします」

 そう言って杉田は頭を下げた。

 小曽礼はまっすぐ情熱的に話す杉田の顔を見つめた。

「そうですね、彼女は意志が固いから。それに彼女は総帥閣下の庇護の元、育ったという経緯も聞いております。総帥閣下と彼女は特別な絆、があるのでしょう」

 さらに杉田は言葉を重ねた。

「一刻の猶予もない。お願いです。直ぐ私と一緒に祢田無さんの元へ」

 しかし小曽礼は困ったように柳眉を逆立てた。

「杉田社長の申し出に早速期待にこたえなければならないと思います。しかし今すぐ、と言われても交代制の関係で直ぐには出られません」

 杉田も困った様に腕を組んだ。

「今すぐ、は無理と言うことですか? 一刻も争うことです。何か方法はないものでしょうか……」

 そのやり取りを聞いていた岡田が提案した。

「私も同行しましょう」

「え?」

 二人は同時に吃驚した。

「大丈夫です。ある程度私にも権限が与えられております。事務所長に外出許可をもらってまいります」

「それは有り難いが、トラックの荷台に身を隠して頂く様になります。私の姿は外で見張っているマスコミ連中に知られています」

「ではどうしましょう、杉田様」

 岡田の言葉に杉田の頭脳がめまぐるしく回った。


 御泥木御殿の搬入口のシャッターが大きく開いた。

 杉田が運転する大型トラックスケロク三号車がゆっくりと出てきた。

 幹線道路に出るためにトラックは大きく右に回り込みはじめたその時、トラックの前に大きく手を振る男が現れた。

 杉田はブレーキを踏み、運転席側のガラスを開けた。

「帝国日々新聞の佐野申しますが」

 そう言いながら細身の男は愛嬌を振りまく様な顔つきで、ドアの開いた窓越しに名刺を差し出した。

「何か?」

 名刺を眺めながら憤然とする佐野を見る。

「ここ何日かずいぶんとお見かけしております。そんなにこの屋敷には花が必要なんですかねえ」

 新聞記者というわりには柔らかい物腰だ。これは長年積み上げてきた佐野が持つ独特な取材方法だった。

「僕は屋敷からの依頼で言われた数量の花を運んでいるだけだよ。先を急ぐんで失礼する」

 杉田は素っ気なく答える。

「まあまあまあ……仮の祭壇が設えてあるという話ですが、花屋さん、見ましたか」

 杉田はぶっきらぼうに答える。

「知らないよ。何しろ花を屋敷に届けるだけだから。次の現場が待ってるんだから急いで帰らないと」

 柔やかに佐野は言い出した。

「どれだけ納めたのか、ちょっと荷台を見せてもらえませんかねえ。取材協力費お支払いしますから、ちょっとだけでも」

 佐野は背広の内ポケットから茶色い封筒を杉田の目の前にひらひらと差し出し、さらに言葉を加えた。

「そんな事言わずに、ちょっとだけお願いしますよ。時間は取らせませんから。でないと編集長から怒られますので、お願いしますよ」

「しょうがねえなあ」

 佐野の言葉にトラックから降りた杉田は、茶封筒をひったくった。そして鍵を開け、荷台の扉を勢いよく解き放った。

「見ても何も無いぜ。花を降ろした後だからなあ」

 荷台にはいくつもの黒く長い木箱が高く積み重なっているだけだ。

 佐野はしげしげと荷台の中を眺め回した。

 しかし柔和だった佐野の目つきが変わった。それは何かを感じ取ろうとする独特の目つきだった。

「この箱の数からすると、相当数の生花が入ってたんじゃないですか?」

「何百本あったかなあ」

 そうはぐらかすかの様に言いながら杉田は箱の一つを開いて見せた。

 勿論空だ。

「写真、撮らせてもらってもいいですか」

 カメラを持ち上げた佐野に杉田は憤慨する。

「写真? ごめんだね。さっきから言ってるけどこれから先、回るところがあるんだよ、これでもういいだろう?」

 不満そうに杉田は箱を閉じ、荷台の扉を閉めた。

「じゃあな」

「取材協力に感謝します」

 佐野は大声を上げ手を振りトラックを見送った。トラックが見えなくなると佐野の態度が豹変した。それは事実を探ろうとする記者魂だ。

『あの男、単なる花屋の従業員じゃ無い……』

 

 少しの間をおいて寺家の懐の携帯が鳴った。確認すると杉田からだ。

「今、強力なカンフル剤を持って、そっちに向かっている。あと一時間ほどで到着する」

 寺家は耳を疑った。

「強力なカンフル剤って?」

「着いてからのお楽しみだ。祢田無氏はどうしている?」

「今は目を開けてるけど。話しかけても無言よ」

「テレビとかラジオとかおいてないだろうな」

「当然よ。総帥閣下のことがしれたらと思うと、ぞっとするわよ」

「そりゃ結構だ。それに明日から瑠那をそっちに向かわせる」

「え? どういう事?」

「お前一人じゃ心細いだろ」

「本間先生もいるし意味分かんないけど」

「着いたら話すよ」

 杉田はそう言うと一方的に電話を切った。

「何よ、もう……」


 一時間後、本間医院の玄関先では地家が待っていた。

 玄関脇駐車場に到着した杉田は寺家を確認すると、トラックの荷台に乗り込み、黒い箱を開けた。

 空っぽの箱のさらに箱の中を引き上げると、そこには岡田が横たわっていた。

 もう一つの箱から小曽礼が顔を出した。

「窮屈な思いをさせ悪かった。しかしこれ以外の方法が浮かばなかったので」

 埃を払う様に岡田は服を叩いた。

「この様に出られるとは思いもよりませんでした」

 屋敷から抜け出す方法として、御手洗が使った手法で屋敷から抜け出したのだ。

「大騒ぎになるかもしれないので、早いところ用事を済ませて屋敷に帰らないと」

 そうこうしているうちに、駐車場脇にスケロク二号車を運転する祖父江が滑り込んできた。

「絶妙なタイミングだ」

 杉田は祖父江を見て笑った。

「トラックから黒塗りの箱を二つ、スケロク二号に移し替えておいてくれ」

「了解だ、ボス」

 寺家に出迎えられた一行は、早速病室に向かった。

 祢田無令子は上体を起こされた状態のベッドで目を開けていた。

 まず、寺家一人が祢田無に近づき晴れやかな顔で近寄る。

「どうですか、気分は」

「悪くないけど」

 そう言いながら祢田無は冷ややかな顔で寺家を見る。

「そう、会わせたい人がいるんですけど」

 祢田無は冷ややかな顔をした。

「会わせたい人?」

 寺家は振り向き小曽礼を招き入れる。小曽礼を見た祢田無は信じられないと言う顔つきで目を見開いた。

「ああ、マイル……」

「令子、久し振りね。元気になった?」

 二人は涙を流しながら暫く抱き合った。

「地家先生から聞いたわ、令子。大変な目に遭ったそうね」

 祢田無の髪をなで上げながら小曽礼が言うと祢田無は首を横に振る。

「マイルと一緒だったからスパイの発見に尽くせたのよ。マイル、お願い、至急総帥閣下と連絡取って。話さないことがあるの」

 小曽礼は祢田無の肩をしっかりと抱いた。

「その総帥閣下だけど……令子、落ち着いて聞いて頂戴」

 物陰で聞いていた一行は吃驚した。

「総帥閣下は殺されたわ」

 小曽礼の言葉に祢田無は飛び上がるほどの衝撃を受けた。驚くほど大きく目を見開き、唇が小刻みに動いた。

「そ……そんな……嘘よ嘘……」

 物陰で様子を見ていた一同は、小曽礼が衝撃的な一言を発するとは誰も思っていなかった。

『やっぱり言っちまったか』

 杉田は思った。同時に岡田が目を細めた。

 程なくして祢田無令子の両目から滂沱の如く涙が流れ落ちた。

「総帥閣下が亡くなったなんて信じられないッ!」

 ベッドから飛び降りんばかりな動きだ。藻掻く祢田無を小曽礼は静止させる。

「よく聞いて。総帥閣下のご遺体はまだ、還ってきてないのよ」

「何故? 何故なのッ!」

 祢田無は両手で顔を覆い、わんわんと泣いた。

「スパイの放った刺客が総帥閣下とその次男さんを爆殺したんだわ」

「そんな事、嘘よ。あたしを騙す気なのね」

 イヤイヤをする様に身体を左右に揺する祢田無に小曽礼は背中を優しく撫でた。

「爆殺? なんて酷いこと……」

 小曽礼は諭す様に優しく経緯を話し出した。

「総帥と次男の弔いのためにも、知り得た事実、話して」

 そして振り返ると小曽礼は一行を手招きした。真っ赤に目を腫らした祢田無は杉田達を見つめた。

「この人達は財閥関係の重鎮よ。決して他に話すことはないから、知り得た事実、話して。総帥の無念を晴らすためにも……令子、お願い」

 祢田無は涙を拭いた。曾太郎総帥閣下にしか話さないと決めていた祢田無にはかなり躊躇いがあった。

 小曽礼は言葉を繋ぐ。

「スパイにあたしも殺されかけたの」

 小曽礼に祢田無は驚いた顔をした。

「あなたも?」

「杉田さんの機転によって……」と言いつつ祢田無に杉田を紹介した。

「この方によって殺されるのを免れたのよ。それだけわたしたちは重要な立場で総帥閣下のご命令を遂行していたんだよ。令子、お願い。あたしも知り得た事実を話すから。二人が組み合わさることによってさらなる事実が浮かび上がるかもしれないわ」

 小曽礼の情熱的な言葉に意を決した。

「スパイは二人……。強力な磁場で核融合炉を包み込む方法を考え出した綾樫工学博士とその部下毛那須心美……」

 小曽礼はじっと聞いていたが「あたしも毛那須には疑いを持ったけど工学博士には思いつかなかった。二人は共同して核融合炉の重要書類を盗んだね」

 小曽礼と話すことによって俯き加減の祢田無はいささか落ち着いてきたようだ。

「あくまでも実験炉での検証結果を盗んでいったと思うけど、その二人が何処に売り渡したかその先が分からない……」

「そうね。命を狙われていたけど今は現場を離れているので、全く分からないわね」



 二人の会話に一行は無言で聞いているしかなかった。

 その中でも一人、杉田の頭はめまぐるしく回転していたのであった。そしてある結論に達した杉田は岡田に進言する。

「勝彦総帥から御泥木電源開発社に連絡してもらい二人の行動を捕捉したが良い。早ければ早いほどよい」


「目をつけられたトラックだと危ないから、ケンジ、替わって花束を届けてくれ」

 そう言うと杉田はウィンクをした。

「了解だ、ボス」


 スケロク二号車が御泥木御殿の裏口納品にやってきた。

「生花の追加だって? 聞いてないぞ。とりあえずマスコミ連中が五月蠅いので車を中に入れてくれ」

 守衛はスケロク二号車を招き入れた。

「執事頭の岡田を呼んでくるからそこで待っててくれ」

『え!』

 執事頭の岡田は、いま、箱の中だ。守衛の言葉に祖父江は頭を抱えた。

 守衛はちょっと離れた場所にある内線電話で話をしだした。

「執事長の岡田さんがいないって? 何処に行ったんでしょうか? じゃあ事務長を呼んでもらえるかな……ああ、待ってるよ」

 守衛の肩がトントンと叩かれた。振り向くと岡田がそこにいた。

「トイレぐらい行かせて欲しいものだよ」

 慌てた守衛は内線を切ると岡田に顔を合わせた。

「追加の生花を持ってきたと言うことですが、執事頭、何か聞いておりますか」

 岡田はすまなそうに話した。

「勝彦総帥から聞いていたが、守衛室の申し送りを失念していた」

 守衛は憤るように話した。

「次からはお願いしますよ、執事長。そうでなくても屋敷中ピリピリしているんですからねッ」

「ああすまん」

 守衛の立腹に岡田は素直に頭を下げた。

 間一髪、箱から抜け出た岡田だが薄氷を踏む事態は続く。

「では、花屋さん。そこの什器を使って花を運び込んでもらおうか」

「了解でさあ、ボ……じゃない、執事様」

 いつものフレーズがつい口に出ようとする中、祖父江は戸惑いを覚えたが什器に二つの黒箱を乗せた。

 一つは空っぽだがもう一つには小曽礼が忍び込んでいる。

「乗せるのを手伝おう」と岡田の言葉に守衛が「執事長に手伝わせるのは失礼だ。僕が手伝いますよ」と言った。

「いや、責任の一端は私にもある」

 守衛の言葉に逆らう様に岡田は祖父江ととともに黒箱を積み重ねた。空っぽの箱をいかにも重そうに台車に載せ、その上に小曽礼が入っている箱を積み上げる。そして岡田と一緒にエレベータに向かった。


 祖父江を送り出した後、岡田は自室で部屋の角まで来るとくるりと振り返り、クマの様にうろうろと歩き回っていた。

『確かに杉田社長の言い分には無理が無い。しかしそのまま勝彦様に知らせてよいものなのか。それにこの事件については杉田はなにも語っていないが、知らないのか知らない振りをしているのか、あいつは不思議なの男だ』

 彷徨いている岡田の自室に内縁電話が轟いた。

「休憩中、申し訳ありません、執事長。令嬢婦人がお呼びでございます。蓮華の間でお待ちしていると」

「分かった」

 岡田が蓮華の間に赴くとそこには勝彦もいた。

「呼び出して悪かったわね」

「滅相もありません、ご命令とあればいつでも飛んでまいります」

 岡田はいつもの様に深々と頭を下げた。

 弥生は困った様な顔をしていた。

「勝彦から聞いたのですが、御泥木財閥から離れたいという会社があるとのことですのよ。曾太郎亡き今、財閥の弱体化は許されるものではありません。岡田、何か知っていることはありませんか」

「確かに先日の会議では御泥木銀行……」

 そう言う岡田は、急に思いついた。

「御泥木電源開発社にも不穏な動きがあります。如何でございましょう勝彦様、銀行と電源開発社に事の真相を確かめるべく訪問を致しては? これは勝彦総帥の役目でございます」

 岡田の申し出に勝彦は吃驚した顔をした。

「僕が行くの? なんで?」

「総帥自らから赴くことにより明確になると思われます」

 弥生は同調した。

「それはよいわ。そうよ勝彦、存在を知らしめるためにも、総帥として行くべきよ」

 勝彦は弱々しく首を振る。

「でも……僕は……」

「ご安心下さい。わたくしめも同行致します」

 頭を垂れる岡田に、弥生はにこりと笑った。

「頼もしいわ、岡田。勝彦、頑張って。財閥の空中分解を抑えるのよ」

「はあ……はい……」

 勝彦は渋々承諾した。


 岡田に言われるまま、勝彦は御泥木電源開発社に乗り込むと驚く事実が発覚した。

 「綾樫工学博士と毛那須は二ヶ月ほど前、退職届が出されております」

 電源開発社総務部人事課が事もなげに報告した。

 勝彦と岡田は顔を見合わせた。

「何だって? 核融合炉の重要な情報を保った二人が退職したというのですか。退職理由はなんですか」

 勝彦の問いかけに人事課は素っ気なく答える。

「一身上の都合と言うことですし、丁度総帥閣下の不幸と時期がかさなっておりまして」

「至急二人に連絡を取ってもらいたいのですが」

 勝彦の言葉に対し人事課長はけんもほろろだった。

「退職後のことですか? まあ連絡を取ってみますがね、退社している以上、その先は分かりかねますよ」

 電源開発社最上階の総裁室では勝彦は癇癪を起こした。

「何だ、あの言い方は。まるで僕を信用していないような言い方じゃないかッ」

 岡田はたしなめる。

「仕方ないですが、警察へ情報漏洩で被害届を出しましょう」

 しかし頭に血が上った勝彦は岡田の提案を聞こうともしなかった。

「財閥から抜けたい奴は抜ければ良いんだッ」

 思わず岡田は叱った。

「勝彦様、そんなやけになってはなりません」

 興奮している勝彦はさらに喚いた。

「僕だってなりたくてなった訳じゃ無い、もう財閥がどうなろうと、どうでもいいんだっ」

 バシッ……鋭い音が部屋中に谺した。

 はっとした勝彦は呆然とした。岡田は勝彦の頬を叩いたのだ。

 岡田は引き下がり、土下座した。

「申し訳ありませんッ、勝彦様ッ。どうかお許しを……」

 岡田の両目からこぼれ落ちた涙が絨毯を濡らしていった……。



 深夜、祢田無は強風で角がカタカタと鳴る音で目を覚ました。

 外はびょうびょうと強風が舞っている。

 真っ暗の中、祢田無は天井を見つめていた。

『総帥閣下が亡くなったなんて……信じられない。でもそうだとしたら……あたしも生きている価値はない……』

 体力が完全に復帰していない祢田無だが何とかベッドから起き上がった。

 足を降ろす。

 立ち上がりかけたが、そのまま床に崩れ落ちた。

 強風が窓を叩く。

 ハアハア……と荒い息をたてる祢田無令子。ふと見るとベッド下に玉状に丸められたビニール紐があった。誰かが落としたが、気がつかないまま放置されているようだ。

 祢田無は無意識に掴んだ。決意をむき出しにした顔は、まるで煩悩を殺す般若のようだ。

 グルグルと紐を引き出し、転落防止用の柵に括り付ける。

 祢田無を助長するように外は吹き荒れる。

 必死になって首を括る準備に余念がない。そして……祢田無の眼前に粗末な絞首台が出来上がった。ここに首を掛ければひとたまりも無い。

『曾太郎様……』

 祢田無は涙を流しながら両手で輪を広げると輪の中に首を突っ込んだ。

 大いなる風は病院全体を包み込み、ガタガタと揺れはじめた。

 『今、そちらに行きます……』

 怖じける事無く、今まさに全体重をかけようとした瞬間……。

 シュッという鋭い音がしたかと思うと「やめなッ!」と叫ぶ女の声が部屋中に響いた。

 どこからか飛んできた小型ナイフが、正確に紐を切り、勢い余って壁に突き刺さった。

 同時に祢田無の顔面が床に打ち付けた。

 声の主は管弦だ。

 様子を見ていた管弦はナイフを投げつけたのだ。

 同時に隣の部屋で仮眠を取っていた寺家も、物音に気がつき飛び込んできた。寺家は祢田無を必死になって抱き起こした。

「自棄になっては駄目。未だこれからもあるんだから、しっかりしてッ」

 寺家と管弦は交互に祢田無の行動を見張っていたのだ。

 突然、太い枝が窓を突き破り、同時に荒れ狂う風が鬼のように二人に襲いかかる。しかし二人は憶することなくその場に丸まった。

 祢田無は泣き崩れた。

「お願い、死なせてっ」

 泣きわめく祢田無を抱きかかえ、血走った目で寺家は言い聞かせた。

「駄目よ、総帥閣下にとって最大の供養はあなたが生き残ることよっ。死んじゃ駄目ッ」

 強風で寺家の髪の毛が逆巻く。まるで赤鬼だ。

 それを聞いた祢田無はさらに大声を上げ泣き叫んだ。寺家を振りほどこうとする祢田無を、汗だくになりながらも必死になって制止する。

「曾太郎様っ曾太郎様っ……」

 祢田無の髪も風に揉まれる。二人の葛藤は鬼同士のぶつかり合いだ。

「落ち着いて! 祢田無さん。さあ、これをッ!」

 寺家は祢田無の口をこじ開け、睡眠導入剤を無理矢理押し込んだ。

 もだえる祢田無。

 呑ませた寺家は必死になって祢田無の口を塞いだ。

「舌下錠だからそのまま」

 ゆっくりと流れ出る薬に祢田無の目がとろんとしてきた。そして祢田無は地家の腕の中で眠り込んだ。

 管弦は呟く。

「手間かかるし面倒くさい女だね」

 寺家は管弦を睨みつけた。

「医者は、死なせる訳にはいかないのッ」

 その言葉に対し管弦は無表情だ。

「先生一人で踏ん張ってもネ、なんでそんなに頑張るかさ。応援呼んだ方がいいンじゃない」

 興奮していた寺家が冷静になった。

「でも、ありがとう。後は私が添い寝するから。瑠那はあたしの部屋で横になって」

 管弦は壁に突き刺さっている小型ナイフを引き抜き、無言で闇に消えていった。


 さらに四日後。月が厚い雲に隠れる午前二時。

 辺りが穏やかな本間医院の前に黒装束をまとった男五人が取り巻いていた。

  目出し帽の男の一人が囁く。

「女が喋る前に、ケリつけないと教祖様に厄災がかかる。やり損なうなよ」

 一同は目配せする。

 口封じのため祢田無令子を亡き者にしようとする五人は、なんの躊躇もなくナイフを手に慎重に診療所玄関に進んでいった。

 暗闇の中、辺りを警戒しながら病棟玄関にゆっくりと進む五人の前に前に立ちはだかる、さらに黒い影があった。

 「待ってたぜ」

 黒い影は両腕を組んだ祖父江だ。

 左右の指にはメリケンサックが光る。

「なんだコイツは?」

「相手は一人だ、やっちまえ」

 号令一下、冷酷な殺人集団が祖父江に襲いかかる。

 祖父江は一人目の突き出したナイフを交わすと同時に右脚が正確に男の腹を剔る。強烈な蹴りは一瞬にして壁まですっ飛ぶ。

 二人目はナイフを左右に振る。しかしすぐさま祖父江の左脚がまっすぐ男の顔面を捕らえる。

 鈍い音がする。

 顔面が拉げめりこむ。

 同時に遅いかかかった三人目。

 祖父江の裂帛の気合いととともに強烈な右脚が肩に落ちる。

 鎖骨が折れる。

 ナイフを構えた四人目には目にも止まらぬ祖父江の左右の鉄拳に腹がえぐれられる。

 同時にアッパーカットが顎を砕く。

 あまりの恐怖に最後の男はナイフを落とした。

「お前で最後だな」

 祖父江の凄みにワナワナと震え腰を落とした男の顔面に左脚がめり込む。

 頬骨が折れるいやな音が谺する。

 五人を介抱するように本間と寺家が飛び出してきた。

 静寂が訪れ、倒れている五人を見つめた祖父江はゆっくりと腕を組む。

『少しは骨が折れるかと思ったが、たいしたこたぁなかったな……でもボスの推理はたいしたもんだ。やっぱり俺はボスについて行くぜ』

 全ては杉田の思惑通りだった。


 朝日が当たる、とあるマンションの一室。

「襲撃に失敗しただと」

「なんだか知らねえが、直ぐさま警察が来て五人を逮捕したってよお。そのまんま相模原だか大和だか何処かの警察病院に収容された様だぜ」

「畜生! 何処かで計画が漏れたのか。教祖様になんて報告すればいいんだ?」

「祢田無も警察病院に入ったという報告が」

「クソッ、なんてこったッ。あいつら、白状するのも時間の問題だ。早いとこ、ここもずらかるぜ」


 医療審議会が厚生労働省第四会議室で厚生労働省の職員数名と医学界重鎮を招き開催された。

 日本医師会の重鎮の一人、長田秀司は役人達の顔を見回した。

『顔の無い役人ばかりだ』

 能面顔をした厚生省の一人が立ち上がった。

「只今より医師会を交えての医療審議会を行う。今回議案は四つ。まず第一の議題、地家優子外科医の処遇について。裁判中にもかかわらず地家優子は医師免許を保持したまま、日本だけで無く世界を駆け巡り、さらに保険診療を逸脱した巨額な成功報酬を要求している。米国では患者にとっても相当深刻であり、ひいては我が日本においても保険診療を崩壊させ蔑ろにさせる、非常に危険な行為、と断定する。直ぐさま医師免許の剥奪を要請する」

 医師会重鎮の一人が手を上げる。

「米国は自由診療だ。診療報酬は医師が決める。他国はともかく、我が日本においては一部自由診療はあるが、基本的に日本は保険診療だ。医師の自由裁量では無い。それに君たちは我々医師会にどうしろというのだね」

 無表情の職員が答える。

「厚生労働大臣の裁量による地家優子医師免許剥奪、追放の行政処分が妥当、と判断した。それを医師会の皆には追認して頂くようお願いをする」

 長田が発言する。

「つまり、お墨付きを願いたいというのか」

 振り向いた能面は言う。

「そうだ。我々厚労省内職員だけの独断で大臣に進言したと思われたくない。医師会も賛同したとなれば大臣も動くだろう」

 長田は呆れた様な顔をする。

「一人の医師のために決断を下すが、その決断に君たちは誰も責任を取らないという訳かね」

 顔のない職員が言う。

「決断の責任をとるのは大臣であり、我々職員では無い。あくまでも省庁内の職員は大臣に進言するだけだ」

「それが妥当というのかね」

「そうだ、それがひいては世界の医療体制にも影響を及ぼす。日本の医師免許だけで世界を股にかけるとは言語道断だ」

「君たちは勉強不足だな。日本の医師免許だけと言うが、彼女は各国で免許を取得しているはずだ。さらに、彼女からは異議申し立てがなされるだろう。そうなった暁には誰が責任者かね」

 般若顔の役人は言う。

「それは大臣だ」

「では聞くが、法廷に大臣が出席するのかね」

「この場合大臣の承認を得て大臣代理として省内の職員が担当する」

 長田はさらにあきれ顔だ。

「責任のなすりあいか? しかし一人の医師の将来を、いや、人生を壊してもよいのか」

 職員は反論する。

「壊すも何も、世界の医療全体が苦情を申し立てている現状を鑑み、この際、いち個人の人生など関係はない。何度も申し上げるが、最高責任者は大臣である。我々では無い」

「彼女は外科医師界の中でも三本の指に入る確固たる技術の持ち主だが、裁判の行方が未決の現状での行政処分というのは、いささか話が飛躍のしすぎでは無いかな」

 さらに役人は気色ばんだ。

「各国の医師会からの苦情を無視する訳には行かない。中には外科的困難事例を克服したという報告もあるが、世界を見ても地家優子医師においては十数例しかない」

 喚き散らす役人に対し長田は冷静だった。

「外科的処置は日本だけでも数千もある。さらに医師が減少している現在において、猫の手も借りたいほどだ。十数例と言われるがこの場合、困難事例という分母が少ないからでは無いか」

「なんと言おうと地家優子は排斥せねばならない。では……医師会の見解としては地家優子の免許取り上げは妥当ではない、と言うのか」

 長田は腕を組んだ。

「裁判の過程を見てから決断を下す」

 役人は長田を睨みつけた。

「保留と言うことか? 医師会がなんと言おうと大臣の決定には逆らえないぞ。いいのか、長田会長。……では次の議題、腎臓内科の誤診を起こした医師についての処遇について……」

 淡々と議案を進める職員に対し長田は思い込んだ。

『なんとしても自分達の思い通りにしたい、しかし誰一人として自分たちは責任を取らない、すべての責任は大臣になすりつける、か……』



「臨時ニュースを申し上げます。先ほど帝国人民共和国ゴークンド首相より核融合爆弾の開発に着手し、三年以内に装備を完了すると発表がありました。原子爆弾よりも小型でさらに戦略核よりも数十倍の威力を持つ爆弾とのことです。これについて米国を始めEU、アフリカ諸国など各国は、憂慮すべき事態であり即刻中止を申しいれる国際会議を開催すると、各国に通達する反応を見せております。それに対し日本政府高官は、目下の所、情報収集の最中であり、コメントは差し控えるとの事であります。ネット上では後手に回る政府の対応に、非難が集中しており……」



 第三話 隻腕の女その3 寺家の憂鬱 完 


如何でしたでしょうか。次回は弥生の抵抗と岡田の正体を上梓します。


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