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第三話 隻腕の女 その2 天馬の災難

隻腕の女、天馬楓登場。謎を秘めた女がスケロク商事の社員として雇われる。またスケロク商事と関わり合いを持つことによって幾多の試練が湧き上がる。


 数日後スケロク商事の電話が鳴った。

 管弦が受け答えをする。

「毎度ありがとうございます、何でも請け負いますスケロク商事でございます。はい? 杉田でございますか? 誠に失礼でございますが、どちら様でございましょう。……宝来警察の加藤様? 何時ぞやは大変お世話になりまして……少々お待ちくださいませ」

 管弦は保留ボタンを押した。

「宝来警察の加藤だってサ。どうする社長? 出る?」

 杉田は顔を顰めた。

「何のようだろう? とりあえず出よう」

 加藤の声が杉田の耳に飛び込む。

「今日は風が強いな」

 杉田は探りを入れるように答える。

「春の嵐という報道がされてますよ。副署長にはあの一件以来、ご無沙汰ですね。お元気ですかね」

 電話口の加藤は快活だ。

「何とか元気にやっとるよ。そちらはどうかな。……ほう、そうかね、そりゃ結構だ。……いやそれより杉田君、折り入って頼みがある。電話での頼み事は失礼な話だと思うのは重々承知のうえだが、ワシがそっちに行くと、ちとマズいことがあってな」

「分かってますよ、公安らしき複数の連中見張られていますから。副署長の呪縛から逃れられたというのに一難去ってまた一難ですよ。以前のように解除してもらいたいものですがね」

 皮肉に話す杉田の言葉に受話器越しに加藤の嘆息が聞こえた。

「ばれてしまっているようか……。彼らは警視庁暴動捜査対策課だ。言っとくがな、これはワシから警視庁に依頼をかけたんではないんぞ、あんたんとこの物騒なものを隠し持っていた女、なんて言ったけな……そうそう、管弦瑠那。彼女がそこにいるんで、君んとこもマークされているんだ。……おっと、これは警察署極秘事項なんでな、内密だぞ」

 杉田も鼻を鳴らした。

「宝来警察ではないと思ってましたがね、警視庁ですか。しかし暴動捜査対策課って初めて聞きますが」

 加藤は素直に答える。

「正体不明の組織が、あの御泥木曾太郎の爆殺事件に絡んでいるようなんだ。そこで警視庁は正体を暴くべく専属部隊を組織し、疑わしい組織をピックアップしているんだ」

 杉田は嘆息した。

「当社もその一つという訳ですか。悪いが警視庁も相当暇だな」

 加藤は正直に答える。

「暇かどうかしらんが、知っているのはここまでだ。警察全体でも細かいことは一切知らされていないんだよ。……おっとっと、これも極秘事項だ。知らんことにしてくれよ、杉田君」

 よく喋る副署長だ、と杉田は電話越しに思った。盗聴されているかも分からないのに平気なんだろうか?

 そんな事をおくびにも出さず杉田は続けた。

「で、折り入っての頼みとは何です?」

 加藤は一つ咳払いをした。

「君んとこは、未だ従業員を募集しているかね」

 杉田はにやりとした。

「絶賛募集中ですよ」

「ほうそうか、そりゃあちょうど良い……」

 加藤は何か臭わせるような言い方をした。


 三日ほど経った九時五十三分。杉田は掛け時計を見た。

『そろそろだな……』

 杉田が呟くと事務所の全員に声をかけた。

「午前十時に面接がある」

「ほう面接かね、それはまた珍しいな」

 和道はキーボードを叩く手を休め杉田を見た。

「いくらでも人手が欲しい。よければ即決、と行きたいところだ」

 十時三分前、スケロク商事のドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

 管弦は顔を上げると、杖をついた三十前後の若い女が事務所に入ってきた。

「十時に面接の天馬楓と申します」

 杉田が声をかけた。

「お待ちしてました。どうぞこちらへ。瑠那、お茶を」

 改めてその女性を見た管弦には紺色のジャケットの左袖がぶらぶらしている。

『この人、左腕がないんだ……』

 杖をついているがなんとなく動きがぎこちない。古びたソファに腰をストンと落とした女は、たすき掛けにかけていたバッグから書類を杉田に差し出した。

 杉田は書類に目を通しながら周りに聞かれたくないのか、ひそひそ声で二人が話し出した。

 聞き耳を立てたい管弦だが、電話も鳴る。黒川も別の電話に出て対応が忙しい。

 暫く小さな声で喋っていた二人に杉田の声が響いた。

「では近日中に連絡を入れます。本日はご苦労様です」

「よろしくお願いします」

 女は立ち上がり頭を下げ、事務所から出て行った。

 電話対応が終わった管弦は訝しそうに杉田に尋ねた。

「今の……誰?」

 杉田は事もなげに答えた。

「さっき話した新人だがね。やる気はあるぞ」

「なンかあ、左腕が無いじゃん。そんな人雇う訳?」

「ああ、不幸な事故で左腕を失ったんだよ」

「なにも不自由な体でこんなトコ、来なくてもいいじゃん。あんな不虞者じゃ、みんなの足引っ張るだけじゃん」

 突然、杉田は管弦を睨んだ。

 普段の温厚な杉田からは想像出来ない怒りを含んだ言い方だった。

「こっちに来いっ」

 おずおずと歩みでた管弦は先生に叱られた学生のように杉田の前に突っ立った。

 甲高い音と共にいきなり強烈なビンタを張られた。管弦がいきおいよくひっくり返った。短いスカートが宙を舞う。

「不虞者だと! なんて事を言うっ!」

 管弦は頬に手を当てながら無言で立ち上がった。左頬が赤くヒリヒリする。

「ごめん……社長」

 杉田は興奮した顔で管弦に命令した。

「今日から三日間の謹慎だ。すぐ部屋に帰れ。よく考えろ」

 冷淡な杉田の命令だったが逆らえず、すごすごと管弦は事務所を出た。

「今のご時世に合わんことをするな、社長」と和道は管弦の後ろ姿を振り向きながら見ていた。

「アイツにはこうでもしないとな」

 黒川は冷静だ。

「社長の愛のムチ、と私は感じましたよ」


 定休日の火曜日。二階の倉庫兼会議室に寺家以外が集まった。

「諸君、定休日にかかわらず集合してもらい悪かったな。ドクター寺家は今週一杯ケンタッキー州ビルモンロー総合病院に脳死移植の手伝いで出張中だ」

 不満そうに的場が口火を切った。

「定休日に呼び出しとはどういう魂胆ですかい。わっちゃあ何処行く当ても無いんで、部屋でのんびりしたんでがす」

 願成寺も不満そうだ。

「そうよ、昼から銀次さんとケンジ、直美で中華街で中華ランチを予約してんだからさあ。呼び出し喰らうなんて想像もしてなかったよ。用件は早くしてもらいたいねえ」

 杉田は笑う。

「昼から酔っ払うつもりかな。そりゃ悪かったな、直ぐ済む話だ。今日、新入社員を雇うので紹介しておこうと思ってね」

「紹介なら今日でなくても?」

 不思議そうにいう蔵前に杉田は席を立ち、階段上に声をかけた。

「和道、こちらへ」

 ギシギシと階段を降りてくる音が響くと、和道は女性を引き連れ倉庫兼会議室に入ってきた。杉田は紹介するように手を広げる。

「天馬楓さんだ」

 右手に杖をついた三十前後の若い女性が和道の後にやってきた。

『この前の女……? コイツのおかげで……』

 自分の悪さを棚に上げ、苦々しく思った管弦だった。

 天馬は頭を下げた。

「天馬楓と申します」

 和道が話し始める。

「諸君、見ての通り左腕が肩先よりない。とある事故の衝撃で左腕を失った」

「それに……左足も……」

 そう言いながら天馬は右手で左ズボンの裾をめくった。

 膝元から足が無く、代わりに金属製の義足が着装されている。

 ズボンの裾を下げると天馬は続けた。

「こんな人間ですが、皆様の足手まといにならないように頑張ります。どうかよろしくお願いします」

 不安そうに言うと天馬はさらに深々と頭を下げた。

 杉田が続ける。

「天馬楓君は宝来警察加藤副署長からの紹介だ」

「宝来警察?」

 またもや的場が素っ頓狂に声を上げる。

「てえってことはなんですかい、警察関係者ってぇこってすかい?」

 的場を始めケンジや銀次、瑠那は吃驚した顔をした。何しろ四人にとって警察は天敵のようなものだ。

 しかし杉田は手を広げ否定した。

「まてまて、勘違いしては困る。正確に紹介すると彼女は元警察官。退職して、今では民間人だ」

「ボス、元警察官と言ったって、なんでまた……」

 ケンジの問いかけに杉田は答える。

「仕事の依頼は日増しに増えているのはお解りの通りだろう? 個人からも企業からも依頼が来ている。それに比べ我が社は猫の手を借りたいほど人手が不足している。深夜早朝、君たちに無理強いをしているのも心苦しいんだ。もちろんハローワークやネットで社員の募集をしているが、反応は無い。何であれ今回の加藤副署長の申し出は願ったり叶ったりだ。天馬楓君が事務処理が出来るようになれば瑠那を現場に派遣することが出来る」

 御手洗が呟いた。

「へえ……忖度したんだぁ」

 杉田は御手洗を見つめる。

「いやそうじゃない。お前達を雇うにどれだけ苦労したか。天馬にとっても今までの給料からすると小遣いみたいなものしか渡せられない。仕事内容も過酷だ。何度も念を押し、充分に話し合ったが、我が社の一員になりたいと、希望をしている。本人の意志は固い」

 突如として管弦が言う。

「でもさあ、なに好き好んでこんなとこに来るんだかさ、さっぱり分からないよ」

 管弦に和道が問いただした。

「また社長から指導を受けるつもりかな。では瑠那に聞くが、なんでここにいるのだ?」

 和道の言葉に管弦は俯き呻くように言葉を吐き出した。

「だッて、ここ以外行き場が無かったからさ。……こんな人殺しの不良娘、何処が雇うって言うのかさ。……実家とは縁、切られたし、行き場のない女一匹、どうやって生きろッていうのかさ。このまんまじゃ闇に流れて野垂れ死にだよ。そんなのイヤだ」

 和道と管弦のやり取りを聞いていた天馬は、思った。

『やっぱり叔父様の言うとおりにしなければ……』

 急に願成寺が豪快に笑いかけた。

「何たって女子チームは少ないからさあ、あたしは楓さん歓迎するよ。あたしは元トラック運転手の願成寺サヤカ。百貫デブだけど、力仕事は任せとけてぇんだ。よろしくね」

 天馬の不安を感じとっていた黒川がグローリーを従え、安心させるように言う。

「私は生まれたときから全盲です。コイツはグローリー。良き相棒です。不安でしょうがこんな私でも社長のおかげで雇われています。給料よりもここはやりがいがあります。全く違った世界に飛び込もうとしているアナタは素晴らしい。ここで一緒に仕事しましょう」

 そう言いながら盲目の黒川は右手を宙に差し出した。

「ありがとうございます」

 宙を彷徨う黒川の右手を捕まえ天馬は握手をした。

 祖父江は両手でガシガシと頭を掻いた。

「黒川さんがそう言うんじゃな……俺は祖父江ケンジ。ある暴力団のパシリだった……」

 祖父江の後は蔵前他次々と握手を求められた天馬だった。

 杉田は天馬に言う。

「社内規定など下で話そう。それと楓君はワンルームマンションからの出勤となる。我が社初の通い社員だ」

「あらあ、残念ねえ。あたしの隣の部屋、空いてんのに」

 願成寺はがっかりした顔をしたが、いきなり顔を上げると号令をかけるように右拳を上げた。

「そうだ、昼からの食事会、楓さんの歓迎会にしよう。全員『イチャモン飯店』に12時半集合ッ」

 突然の願成寺の申し出に天馬は焦った。

「いえ、そんな……」

 祖父江がたしなめる。

「サヤカ、そんなこといきなり言うなよ。見ろ、楓さん困ってるぜ。歓迎会は後日だ後日」

 そのやり取りを聞いていた無口の伊東銀次が、ぼそりと言う。

「俺んときはなかったな……」

 銀次の言葉に一同は笑った。



 天馬の災難

 その日の午後八時過ぎ。ワンルームマンション一○二号室。

 天馬は、加藤副署長と携帯電話で話し込んでいた。

「そんな事、ありません。とてもイカモノには……」

 興奮して話す天馬の耳に加藤のため息が聞こえた。

「だがなあ、警視庁はそういう風に思っていないんだよ」

 天馬は反論するように言う。

「叔父様の言いつけでスケロク商事に雇われましたけど、これでは潜入捜査じゃありませんか。あたしイヤです。今は一民間人ですよ。中を探らせるなんて叔父様、嫌い」

 加藤はいささか慌てた口調で喋る。

「ワシも楓ちゃんを警視庁の回し者にしたくないんだよ、分かってくれ。だがなあ、どうしてもスケロク商事の監視に宝来警察署も協力せよ、とのお達しがきてるんだ」

 天馬は気色ばんだ。

「民間人のあたしに指図するなんて、いくら叔父様といえども出来ない相談です。……スケロク商事の人たちは世間からはみ出されているかもしれませんが、社会に貢献しようと必死になって働いているのがわかります」

 興奮して放す天馬に加藤は諭した。

「ワシと杉田との付き合いもあり、それも分かるんだがねえ、上は何かやらかすんじゃないかと思っているんだよ。そこで君からの報告でスケロク商事は危険組織ではないと上に報告し説得する。それが通れば楓、スケロク商事から退職してもらいたい。もっとまともに働けて充分なお給料を払うところを紹介するから、ちょっとの間辛抱してもらいたい」

 加藤の言葉に楓はさらに腹を立てた。

「叔父様、明日も早いのでこれで終わりにします。六時にここをでないと間に合いそうもありませんので」

「そんな早いのか」

「こんな体だから支度に時間がかかりますんで。じゃ、おやすみなさい」

 一方的に電話を切ると天馬は呻吟した。

『潜入捜査なんて……民間人になったあたしに何をしろというの……お門違いもいい所よ』


 次の日の朝、午前七時。

 全員が揃っている事務所に天馬だけがいなかった。

「天馬は未だ来ないのか?」

 杉田は柱時計を見やった。

「和道、携帯に連絡を入れてくれ」

 和道が連絡を入れたが、呼び出し音はするがでない。

「どうしちゃったのかなあ」

 管弦も心配そうに呟いた。「あの体だから、まさか動けなくなったとか?」

「変なこと言うなよ」

 そう言う管弦に杉田は天馬のマンションの予備の鍵と携帯を渡した。

「瑠那、様子を見てきてくれ、住所はここだ」

「あいよ、チャリ借りてくね」

 管弦は飛び出していった。

「さて、諸君。今日の仕事についてだ。サヤカと銀次、的場は昨日の続きだ。今日中に終わらせ契約金の回収。和道君領収書の用意を。キッチン換気扇の清掃と障子の張り替えはケンジと直美。丁寧にな。脚立、清掃道具忘れるなよ。そこは上手くいくと次の仕事がもらえるはずだ。午後から墓参りと買い物代行。雄馬はいつもの農家さんの手伝いだ。ほら、バス代だ」

 杉田の指示の元、全員が飛び出していった。

 暫くして管弦からの連絡が入り、ドアは閉まっている、と報告が入った。

「まさか中で倒れている、なんて事はないだろうな」

 情報端末を持ちながら管弦は周囲を見回す。

「わっかンないけど、ドアホンならしても反応無いし、窓から見ても部屋真っ暗なようだし、どうする? 入ってみる?」

 杉田は少し考えた後、答えた。

「そうだな。中を確認してくれ。くれぐれも慎重にな。何たってお前はがさつだからな」

「ナニ、がさつッて。え~え~、あたしはがさつ女ですよ~だ。……でもなんで楓さんをそんなに気にすンのさ?」

 そんな騒がしいやり取りを聞いていたのか、隣の部屋のドアが開いた。額のはげ上がった中年の男が顔を出し、好色そうに管弦をじろじろと見た。

「お隣さんならゴミ出ししながら出かけたぜ。そだなあ、六時ちょっと過ぎだっけなあ。丁度俺もゴミ出しするところだったんでねえ。何たって器量よしの女だし、引っ越してきたからってわざわざ挨拶しに来たからよ、それに左腕がないみたいなんで、よく覚えてんだ。で……あんた、彼女の妹さんかい?」

 管弦の背中がゾクッとした。

「違いますッ。でも、ありがとうございましたっ」

 タダでさえ男性恐怖症の管弦だ。そう言い放つと管弦は逃げるようにその場を離れた。

『こんな禿げジジイの隣なんて』と管弦は身震いした。

「でているか……連絡を待つしかないな」

 管弦からの報告を聞いた杉田はタバコをふかしに席を立ち、駐車場裏手で腕を組んだ。吐き出した紫煙が宙を漂う。

 そうまでして天馬を心配するのは謎を含んでいるようだ。


 それは何故か?


 戻ってきた管弦から鍵と携帯を受け取ったと同時に事務所の電話が鳴った。

 黒川が受話器を持ち上げた。

「毎度ありがとうございます。何でも請け負いま……え? 楓さん? ちょっと待ってください」

 黒川は保留ボタンを押したと同時に、杉田は受話器を取り、勢いよく喋りだした。

「どうした、何かあったか。心配したぞ。今何処にいる?」

 楓の声は小さかった。

「出勤途中で暴漢に突き飛ばされました。今、番在交番派出所で事情聴取がおわったところです」

 そして遅刻のいきさつを話し始めた。


 遡ること夜が明ける午前六時。

 顔を出した隣の禿げ男に軽く会釈しゴミ出しした天馬は、行き交う人々に交じってぎこちなく歩き出した。

 春とはいえ未だ薄ら寒い午前六時。突然天馬の後ろから女の悲鳴が上がった。

「泥棒ッ!」

 その声に天馬は振り返った。

 その途端、後ろから勢いよく走ってきた若い男が天馬を突き飛ばした。あまりの勢いに天馬はその場に転がり、強かに額を地面に打った。

 しかし天馬は痛みを堪えながら男の特徴を捉えた。そして立ち上がった天馬は悲鳴の先に急いだ。

 悲鳴をあげていた女はその場にしゃがみ込んでいる。

「どうしたの、大丈夫? 何があったの?」

 天馬は男女数人が取り巻いている中、割って入るとしゃがんでいる女の背中をさすった。一人の女性が警察に連絡を取っている。

「バックが奪われたっ」

 若い女性は半狂乱になって喚いていた。「重要書類がッ」

 そして大泣きした。

「返してッ返してよッ!」

「落ち着いて、落ち着いて」

 諭すように話し天馬はさすり続けた。

 程なくして近くの交番から巡査がバイクでやってきた。

「どうしました」

 警官の問いかけに行く分落ち着きを取り戻した若い女性は経緯を話しはじめた。

「バックなんてどうでもいいんです。書類さえ戻れば」

 中年の警官が女に尋ねる。

「犯人を見ましたか? 特徴など覚えてますか」

 若い彼女は弱々しく頭を横に振る。

「いえ、咄嗟のことでしたから全く……」

 中年警官が集まっていた人々に声をかける。

「どなたか犯人らしき人物、見た方いませんかあ」

「あたし、見ました」

 天馬が答えた。

「青っぽい毛糸のニット帽を被った身長百八十センチ位の長身の男です。見た目は二十歳くらい。ニット帽からオレンジ色の髪の毛が見えました。濃紺の革ジャンと同色のジーパン、靴は赤いランニングシューズです。五十メーター先を左に走り去りました」

 メモをとった巡査は感心した。

「いやーよく覚えてますね。たいしたものですよ。ご協力感謝します」

 そうしたやり取りの中、赤色灯を回したパトカーがやってきた。被害者の女と天馬が派出所に連れて行かれ、事情聴取されたと言うことだった。

「とんだ災難だったな」

 杉田は天馬を労った。

「今日は初日だ。家に戻ってくれ」

「いえ、伺います」

 天馬は気丈に答えた。



 奪われたバッグの中の計画書とは何か。何故、男はそれを狙っていたか。

 付近の防犯カメラから犯人が割り出され、犯人は天誅教会との繋がりのある男、と判明した。

 それにより管轄警察署の宝来警察署と警視庁捜査三課の合同で刑事八人による専従班が組まれ捜査開始となった。

 何故女性のバックをひったくったのか、中味を知っていたのか? 

 単なるひったくり事件、として片付けられない重大な秘密がそこにあった。



 次の日。杉田の指示に従い全員が事務所を飛び出した、午前七時過ぎ。

「これがこうでこれがこう……」

 管弦は天馬に仕事の段取りを教えていた。

「経理のとりまとめは和道さんがすんだけどサ、ウチらは見積書や請求書なんかの書類の仕分けが仕事。ナントカ制度はここじゃあ関係ないからね。それと入出金業務にあちこちの銀行回り。大手得意先が指定する銀行口座もあるんで。給料は現金手渡し。あっちの銀行こっちの銀行、チャリ、大活躍。だから給料日の月末は大忙しだよ」

「手渡し? 振込じゃ無いの?」

 吃驚顔の天馬に管弦は当然、と言いたげな顔をした。

「口座を持てない奴がいるからネ、基本現金手渡しだよ。それと大事なのは電話の受け答えかな。何処の誰だかわっかンないから失礼の無いようにすんのさ。当分は電話対応は黒川さんとあたしですっから、とりあえず書類整理ってとこだね。あすこのロッカーから必要なファイルを引っ張り出してまとめんの。はい、これ。昨日からの書類。依頼別やら企業別やら雑多だから気をつけてね」

 管弦はいうだけいうと束になった書類を天馬の前にドサリと置いた。

「分かりました……」

 そうは言うものの……『デジタル時代にこのアナログ作業って一体何なの?』と叫びたい天馬だった。

 電話口で話をしていた黒川が保留ボタンを押した。

「半田工務店から屋根瓦の吹き替え手伝い依頼が来ました。明後日どうしても三人は欲しいという事ですが、如何致しますか」

 書類の仕分けの手を休め、天馬は不思議そうに管弦に聞いた。

「黒川さんって全く目が見えないんでしょう? でもなんで保留ボタンが分かるの?」

 管弦は答える。

「うん、凄んごい記憶力で一度教えると完璧に覚えるよ。電話機の扱いもそうだし、出入り口、あてがわれた部屋とトイレ、突き当たりの炊事場、シャワー室、全て歩数で確認してたね。それもすんごく細かく何度も何度も確認していたよ。トイレまで振り返ると何歩目に右、何歩とか、それ以外に臭いとか音とか、五感を使って判断しているようよ」

「凄いわねえ」

 天馬は感心したような顔をした。

 管弦は続けた。

「それと、昼休憩にグローリーとの散歩もあるし」

 天馬は目を丸くした。

「散歩?」

 管弦は当然、と言うような顔をした。

「盲導犬と言っても散歩には連れ出さなきゃならないようね。仕事が終わった後にアタシとか蔵前さんとか連れ出したこともあるよ。昼休憩の時、天気がよければ外に出るね、今日なんか天気がいいンで、散歩するんじゃ無い? 何なら付いていったら?」

 昼の食事を済ませると、黒川は立ち上がり白杖を手にグローリーを従えた。出入り口も完璧に把握している。

「グローリーとちょっと出かけます」

 慌てて天馬は後を追う。

「ご一緒させてください」

 黒川は天馬の声の方向に耳を向けた。

「休憩時間は何人にも邪魔されない自由時間です。天馬さんも自由に振る舞ってください」

 天馬は黒川の行動に興味を抱いていた。

「リハビリのためにも歩かないといけませんので。それにこの近辺は初めてなので案内してくださいますか」

 天馬の声に納得した黒川は答えた。

「案内といっても……そうですか。……ではご一緒に、まいりましょうか」

 かくして二人と一匹の奇妙な関係の散歩が始まった。

 黒川は点字ブロックを確認するように白杖を忙しなく操る。グローリーは行き交う人を避けるようにゆっくりと先導する。その直ぐ後ろを天馬も杖をつき左足を振り上げるように後を進む。

 白杖を突いていた黒川は急に立ち止まった。

「ここで左に曲がります。大通りに出るので信号を待ちます」

 天馬は吃驚する。

「ここまで歩数を数えているんですか」

 黒川は笑う。

「イヤイヤ、ここまで来ると蕎麦屋さんのダシのいい香りが漂ってきます。それを頼りにしているんです。困るのは定休日とか臨時休業です。臭いがしないので、困ることになります。それと周辺の音、風、人の流れ、雰囲気、などで判断します。間違いなければその先に公園があります。入り口から右に進むとベンチがあり、そこで座りひなたぼっこするのです」

 確かに渡りきった先にちょっとした公園があった。自転車の侵入を阻止する策を当たり前のように避け先に進む黒川だった。

「……あたしには到底理解出来ない……」

 天馬は舌を巻いた。

「ベンチでは弁当を広げている人や寛いでいる人がいるので、いつも座れるとは限りません。そうなるとグローリーは鼻を鳴らしますので、反転して次のベンチに進みます。そこでも座れないとなると公園周辺を回ります。日の光から感じる熱とか、幹線道路の音で自分の位置を測ります。公園の出入り口はグローリーが教えてくれます。お……どうやらベンチ、空いているようですね、座りましょう」

 白杖で確認した黒川は天馬に勧めた。二人は座り、グローリーは傍らで伏せた。いい天気だ。春の暖かい日差しが気持ちよい。

「時間、分かります?」

 天馬の質問に黒川は笑う。

「そもそも時間と言う概念は私にはありません。明るい、暗い、それぐらいです。それに歩くのもある意味、命がけです。方向もグローリーや点字ブロックが頼りになりますし、通行の方々に声をかけたりもします。皆さん親切です。そうそう困りごとの一つに、点字ブロック上においてある看板とかゴミ箱にぶつかることあります。グローリーは障害物があると分かると一歩も動かなくなりますが、突き出ている看板はぶつかります。しょっちゅう痛い思いをしてますよ」

「記憶力も凄い、と管弦さん話してますが」

 天馬の問いかけに黒川はあっさりと答える。

「短期記憶のことでしょうか。メモが取れないので電話内容はしっかり聞き取り反芻しますが、社長に報告して指示が終われば直ぐさま忘れますよ。そうしないと頭が爆発しますので」

 黒川は笑った。しかし急に真面目な顔になったのを天馬は認めた。

「加藤副署長とはどんな関係ですか」

「え?」

 突然の問いかけに天馬はどう答えた方が良いか戸惑った。

 黒川は重ねる。

「社長からの紹介で私は感じました。あなたと加藤副署長の関係はなんだろう、と。楓さん、あなた……私たちスケロク商事に何か隠していませんか」

「いえ、そんな」

 否定するように天馬は首を振ったが、その動作は黒川には分かるはずも無い。

「交通課の課長が加藤副署長と知り合いだったので、その伝でスケロク商事を紹介されたのです。こんな身体でも雇ってくれるなんて、スケロク商事には感謝しかありません」

 伝馬の言葉に黒川は納得したかのように答えた。

「そうですか。ではそろそろ戻りましょう。行くぞグローリー」

 それを合図に伏せていたグローリーが立ち上がった。

 天馬は腕時計を見た。確かに戻れば昼休憩が終わりそうな時間だ。

『黒川さん、絶対時間が分かってる』

 天馬には妙に確信めいた感情がわき上がった。


 数日後、夜遅くに地家はスケロク商事の扉を開けた。

「お帰り」

 薄暗い事務所では杉田が待っていた。

「長旅ご苦労さん。移植手術は成功したかい?」

 地家は旅の疲れを見せることもなく重そうなキャリアバッグを置いた。

「勿論よ、誰だと思ってんの。大半は私が執刀したけど、最後には脳神経外科部長にお願いしたわ。院長先生の株が上がって良かったんじゃないかしら。空港に着いて事務所に電話入れたら、和道さんが出て、その中で新人さんの話が出てね」

 杉田は片肘をつく。

「所用で出かけていたときかな。そう、天馬楓と言う三十歳の女性だ。我が社の一員として雇い入れたよ。明日にでも紹介しよう。……久々の女性社員だが、実は彼女、左足と左腕がないんだ」

 地家は呆れた顔をした。

「へえ、よくそんな人、雇ったわね。和道さんそこまで言ってなかったけどなあ」

 左右を見回した杉田は静かに、と言いたげに唇に指をあてた。

「曾太郎の爆殺事件に巻き込まれた女性警察官でね……それに……天馬楓は加藤副署長の姪御さんなんだ」

「姪御さん? あらまあ」

 地家は口に手を当て吃驚した顔をした。

「声が大きい。とりあえずみんなには内緒だぞ」 

 地家は納得した顔で言う。

「ふーん、耕一は、その加藤副署長に忖度したって訳ね」

 地家はしたり顔で赤いフレームの眼鏡を上げる。

「忖度した訳ではない……まあ、上で久々に体を交えて話、しようか」

 杉田は頬を上げ、にやりとした。

「何よ、その言い方。イヤらしいわね」

 地家は満更ではない顔をしたが……。

「そうそう、忘れるところだった。祢田無令子さん、病状が落ち着いてきたので、近々本間先生の病院に転院させるわ。何たってあんな大病院だから、病状が安定したら早いところベッドを明け渡さないとね」

 杉田は険しい顔で地家を見つめた。

「意識は戻ったのか?」

 杉田の言葉に地家は首をかしげた。

「戻りつつある、と言った所かしら。明日病院に行って様子を見てくる。場合によっては転院の手続きをしてくるつもりよ」


 次の日。

 下火になったとはいえ、未だに御泥木邸宅の前に報道陣は屯している。その中を掻き分けるように男女が警備室前にやってきた。

「警視庁捜査課の坂下と重伝です。御泥木弥生さんとお目にかかりたく思いまして」

 二人は同時に身分証を警備員、志馬田の目の前にかかげた。

 志馬田はボックス内部の受話器を取り何やら話始めた。話し終わると警備員は刑事に話しかけた。

「令嬢婦人、在宅です。ご案内しますのでご一緒についてきてください。横田、後を頼む。案内が終われば直ぐに戻る」

「了解」

 相方の警備員、横田が答えた。

 志馬田からの連絡を受けた屋敷では岡田が弥生に話し出した。

「これから刑事が二人、やってきます。目的は分かりませんが、余り迂闊なことは申し上げないほうが得策かと存じます」

 弥生は不安そうな顔で岡田を見た。

「勝彦は?」

 岡田が答える。

「これから驚愕一号でのオンライン会議に出ます。わたくしも勝彦様の側にお仕えしますので、暫く不在です。代わりに先島をおそばにお仕えさせます」

 一方、刑事達は足元も悪い長い曲がりくねった坂を汗を拭きながら玄関を目指していた。

「まるで森の中を歩いているようねえ」

 重伝の言葉に坂下も頷く。

「直線にすれば造作ない道だがね。曾太郎総帥閣下には熱狂的な支持者も多いが、また敵も多かったらしい。うわさではこの道も襲撃に備えて造られたようだよ。ほんとかウソか御泥木御殿は爆撃にも耐える造りになっている話だ。こうなると御殿と言うより要塞だな」

「窓からミサイルが飛び出すとか」

 坂下は笑う。

「ははは……まさかね」

 重伝が言葉を重ねた。

「そう言えば曾太郎総帥閣下から乗っ取られた法人や潰された会社も多い、と聞いたわ。恨みをもった連中が今回の犯行を行ったともいえるのではないかなあ」

 坂下が木々の中を指をさした。

「その考え方は充分に当てはまる。……見ろよ、森の木々を見ていると、そこかしこに監視カメラが隠されているぜ。厳重な警戒、と言うより異常だな。御泥木弥生は異常な人物で無い事を祈るよ」

 先導する志馬田は無言だが、刑事達の無駄話はしっかり聞いている。ぶつぶつ言っている一行の前に漸く白亜の門が出現した。

「お待たせしました」

 志馬田は重厚な玄関ドアの片隅にあるボタンを押すと先島が顔を出した。

「ようこそ拙宅にいらっしゃいました。どうぞ靴のままお上がりください」

 深々と頭を下げた先島は二人を招き入れた。

 杉田達も見上げた、高天井から吊された荘厳華麗なシャンデリアが眩しいくらいに光り輝いている。

「どうぞこちらへ。令嬢婦人がお越しになるまで、おくつろぎください」

 数ある応接間の一室に二人は招かれた。外光溢れる洋室応接間に、膨大な数の書画骨董品が整然と飾られている。

 広大な室内をぐるりと見回した坂下達は目を丸くする。

「なに、このふかふかの絨毯、靴が沈むわね」

「話には聞いていたが、これほどとは……。相続税も相当なものだろう」

 そう言いながら二人は室内装飾を眺め回していった。

「弥生様、お越しです」

 ややあって執事の言葉が響き、招かれるように窶れた感じの弥生が入室してきた。目の下には隈があるが旨く化粧を施している。

「どうぞお掛けください。ご用件を承りますわ」

 身分証を提示した二人は重厚な長椅子に腰をかけた。

 まず坂下が口火を切った。

「弥生様、お悔やみ申し上げます。総帥閣下におかれましては誠に残酷な結果になってしまい、さぞかし気落ちのことと存じます。鋭意捜査中でございますので、分かり次第ご報告いたします」

「ありがとうございますわ。しかし夫と次男は何時戻してくれるのでしょう。早くして欲しいですわ。財閥として四月一日に葬儀を取り扱う予定ですのよ。このままでは葬儀も上げられませんわ。何とかしてくださいな」

 坂下は残念そうに顔を顰めた。

「四月一日ですか……。未だ捜査途中ですので事実が判明次第、お帰り頂くよう手配します」

「いったい何日待てば宜しいの?」

 語気を強める弥生に重伝が言葉を繋げた。

「今回こちらにお邪魔したのはお悔やみの他にもう一つお尋ねたい事案が発生しまして」

 無表情の重伝の問いかけに弥生は訝しげに見つめた。

「どのような事でございましょうか」

 徐に重伝は言う。

「昨年の夏に秋田県牝鹿にある東北総括分科会に行ってますね」

「はい?」

 重伝の問いかけに弥生は真意を測りかねた。

「そのことについてお伺いしますが訪問した理由はなんですか」

 不躾な質問に弥生は柳眉を逆立てた。

「いきなりなんですの。尋問でございますか」

 両手を組んだ坂下が返事をする。

「申し訳ないですね、弥生様。刑事の癖でして不躾なのはご容赦下さい。重ねて伺いますが目的は何だったのでしょう。お答えしたくなければそれでも結構ですが……」

 落ち着いた物言いの坂田に対し、弥生は答えた。

「世界を飛び回る曾太郎に代わって分科会長に手紙を渡すように言いつけられましたの」

 坂下がたたみかけた。

「手紙? それだけですか。その手紙の内容は話されていましたか」

 弥生は首を横に振る。

「お前には難しい話だから、これを分科会長に渡すだけでよい、と。全てそこに書いてあるから、と言われてそれを渡しに行っただけですわ」

 努めて平穏に話す弥生だが、二人の刑事には動揺するように見えた。

 さらに追い打ちをかけるように重伝が言葉を重ねた。

「わざわざそれを届けるためだけにバスを仕立てて行った訳ですか? 御泥木警備保障も連れ立ってますよね。警戒も厳重のようですし、ずいぶんと経費をかけてますね……。なにより手紙だけなら速達や書留でもよいはずでは」

 重伝のきつい言い方に弥生はやんわりと答える。

「親書ですから直に手渡さないと。それに何かと物騒な世の中でございます。御泥木家当家の妻といえども何か粗相があれば騒動になりかねませんわ。それに日頃の労を労うように曾太郎は長男と一緒に観光気分で行ってきなさいと。また、経費、とおっしゃいましても頂いているお給料から捻出しておりますのよ。財閥から一銭たりとも頂いておりませんわ」

 重伝は目を細めた。

「旅行気分ですか」

 重伝の問いかけに弥生は少しイラついた。

「そうですわ。それが何か曾太郎の死と関係があるというのでございますか」

 くどいように重伝は迫った。

「本当に手紙だけですか?」

「何度申し上げたらよいのでしょう」

 珍しく語気を高めた弥生に坂下が言葉を繋げた。

「ここでは申し上げにくいことですが、分科会長にはよからぬ噂が立ち上がっております。関係者に一つひとつお話しを伺っている最中です」

「よからぬ噂?」

 ここで重伝は言葉を切った。

「捜査の都合上、詳しくは申し上げることが出来ませんので、今日はここまでとします。ですが場合によっては後日、またお話を伺いに寄らせて頂くかもしれません」

  二人の刑事は立ち上がり頭を下げた。そして執事の案内の元、坂道を下っていった。

 弥生はカーテンを持ち上げ、窓越しに二人の刑事の後ろ姿を冷ややかに見やる。

『何か掴まれた?』

 一抹の不安が弥生の体を駆け巡ったが、その不安は後日に判明するのだった。


 午後七時、自室で寛いでいた天馬の携帯が鳴った。相手は同期生の重伝琴葉からだった。

「楓、元気?」

 天馬は喜ぶように声を上げた。

「琴葉? 声聞くの、久しぶりね」

 重伝は続ける。

「身体の状態はどう?」

「一昨日起きようと思ってベッドから転げ落ちて、頭打ったね」

 電話口の向こうから重伝の声が響いた。

「ええ? なんで?」

 天馬は心配させまいとして努めて朗らかに答えた。

「無意識にね、左足を出して転んだの。左足があると思ってたのね。やんなっちゃう」

「それはお気の毒様。それ以外不自由は無い?」

 天馬は思い出すように言う。

「片手だから義足をつけるにも人の倍以上の時間がかかるねえ。なれたとはいえ食事の支度も時間がかかるし、スーパーで買い物しても奇異な目で見られるし……お風呂のシャワーだけだし、ゆっくりと湯船に浸かりたいわあ」

 電話口の重伝は嘆息した。

「でもまあ、そんな身体でも雇ってくれる企業があるんだから感謝しないとねえ。まあ頑張って、としか言えないけど。……あたしの方は容疑が固まり次第、御泥木弥生の面取する」

 天馬は驚きの声を上げた。

「何か容疑が浮かんだの?」

 勢い込むように重伝が答える。

「ウラを固めている最中。でも確証あるわよ。それに今回の事件、アンタの怨みも晴らすからね」

 天馬は半ば諦めたかのように呟いた。

「怨みなんて……事故に巻き込まれただけなんだけど」

 逆に重伝の声は天馬を叱咤激励する口調だった。

「巻き込まれただけ、なんて仕方ないような言い方しないでよっ、楓らしくない。諦めちゃ、駄目。巻き込まれたのはアンタだけじゃなく吹っ飛ばされたアンタの上司も、まだ生死を彷徨ってるんだよ……総帥閣下爆殺事件は警視庁あげての最重要案件の一つだからね。暴動対策捜査課も立ち上がっているし……でもさ、御泥木財閥にはとんでもない噂が発生しているようよ」

「とんでもない噂って?」

 急に重伝の声が小さくなった。

「楓、知らない? 強烈なカリスマ性を持っていた総帥閣下がいなくなった以上、お人好しな御曹司じゃあ財閥をまとめられないって、まことしやかに流れている噂を」

 天馬は驚く。

「知らないけど……経済を牛耳っている財閥でしょ? まとめられないってどういう事?」

 重伝は答える。

「財閥が解体されるってこと」

「え?」


如何でしたでしょうか。次回は重伝琴葉刑事と御泥木弥生の攻防、その他天誅教会の謎に迫ります。


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