プロローグ
「はぁはぁ……はぁ」
左手から垂れる燃えるような赤を年季の入った洋館に滴らせ、久方ぶりの水分を床に染み込ませる。
鈴虫の音が響く館内、三日月が雲の背で光をチラつかせながらこちらを覗く。
「トライス……よく聞け……人は罪を犯し、また罪に恐怖する。 一族を狂わせた元凶は確かに人間だが……一族から幸せを奪ったのは一族自身の呪いだ。 後は頼んだぞ……優秀な孫よ」
切れる吐息、上がる心拍数、下がる高揚感。
お祖父様は最後の言葉を僕に言い残してその場で息を引き取る。 別に殺したかったから殺した、自分の意思で殺した、後悔は微塵もない。
深夜、煩いほどに鳴いていた鈴虫の声はもう聞こえない。 僕は駆り立てるように誰も辿らない足跡だけを館に残し、広大な群青へと溶け込む。
最愛の弟から貰ったブローチを握りしめ、知らない風景を横目にただ行く当てもなく走る。
死んで当然の人だった。
だから別に罪悪感があって逃げているわけでは無い……ただ1人は寂しかったんだ……
何度も転倒し、その度に服は解れて頬や膝には擦り傷から血が滲む。
痛かった。 でも丁度良かった。
心の痛みを外傷で上塗りにして、溢れる涙に理由を付けて、僕は今まで隔離されていた家と押し付けられた当たり前に言い訳を付けてただ必死で走った。
気がつけば数キロ離れた山中へと入り込み、足場の悪い獣道を進み、進路を妨害するコエビソウをかき分け、満身創痍になりながらも目的がないはずの足は目的を持って動いていた。
ゆらめく視界、漸く開けたその場所に僕は不思議と心から安堵してその場に転がる。
(人……?)
疲れた……これ以上は進めない。
余力が完全に底を着き、走り続けた僕は朦朧とする意識の中で小さな湖畔とそこに入水する半裸の少女を目にした。
同い年ぐらいか?体を清めているときに男が出てくるなん彼女はつくづく運がない。
「本当についてないな」
意識が落ちる。肉体は5年ぶりの睡眠を取るためにそっと瞼をその場で閉じた。