子爵夫人は怒りっぱなしである 12
「旦那様、奥様、エヴァンジェリン様がお帰りになられました」
それから1時間もしないうちにエヴァが帰ってきたとエリスが飛び込んできた。もう深夜と言って良い時間である。それでもあの子が帰ってきたことが嬉しくて、急いで向かった先にはハルト様に支えられる様にしてエヴァが立っていた。思ったよりもしっかりと立っていることに少し安心するが、それでもエヴァはとても疲れている様だった。
「初めてお目にかかります、セオドア・ハルトと申します」
そう言ってハルト様はその辺りの貴族よりもよほど優雅に一礼した。
「色々とお話ししたいことはありますが、今日のところは彼女はとても疲れております。また後日お時間をいただければと思います」
「こんな遅くに申し訳ありません。エヴァがお世話になりました。ハルト様さえ良ければ部屋を用意いたします。どうかお泊まりになって行かれてください」
「いえ、まだ彼女は王太子殿下の婚約者です。いくら神官とはいえ、醜聞に繋がる可能性がありますので、今日はこれで失礼します」
ヨアキムの言葉にハルト様はやんわりと断られた。こうして近くで見ると周りの女性が騒ぐのもわかるというほど綺麗な顔立ちに、その辺りの貴族よりも美しい立ち居振る舞いの男性であった。ハルト様はエスコートしてきたエヴァの左の額の上に優しく口づけを落とした。
「よく眠れるおまじないだよ、おやすみ、エヴァちゃん」
本来なら止めなければならない行為なのだが、いやらしさも何もなく本当に自然に感じられた。
「それでは失礼します」
そう言ってハルト様は帰って行った。エヴァは疲れているらしく、部屋に帰ったらすぐに寝てしまったとエリスから報告があった。
次の日の朝はエヴァはゆっくりと寝かせてあげる様にエリスに伝えた。いつもなら朝早くから起き出してくるエヴァだが、今日は10時になってもお昼になっても部屋から出てこなかった。
そろそろ起きているだろうか?話ができるだろうか、とソワソワしているとエヴァが大きな声でエリスを呼ぶ声が聞こえた。エヴァは急いで身の回りを整えると屋敷から飛び出して行った。
「エリス、あの子はどこへ行ったの?まさか殿下のところとか言わないわよね?」
「えぇ、王宮神殿に行かれると仰っておりました」
「ハルト様のところかしら?何かあったのかしら?」
私とヨアキムはそわそわしながらエヴァが帰ってくるのを待っていたが、なかなか帰ってこない。昨日の今日だから何かがあったのだろうかと思うと落ち着かない。心配で心配で仕方なく、神殿に使いを送ろうかと思っていたらハルト様に連れられてエヴァが帰ってきた。
「お義父さま、お義母さま、突然飛び出してしまい、申し訳ありません。ご心配をおかけしました」
「私もエヴァンジェリン嬢がいらしていることを使いに出すべきでした。申し訳ありません」
「いいえ、昨日からうちのエヴァがお世話になりっぱなしで申し訳ありません。ありがとうございます」
ヨアキムがハルト様に伝えると「いいえ」と言って爽やかに笑った。確かにこれはモテるだろうと思う。そして昨日と同様にハルト様に支えられていたエヴァが顔を上げると私たちに告げてきた。
「私は殿下との婚約を解消していただこうと思います」
「エヴァ、気持ちはわかった、けれど…」
そう言ってヨアキムはちらりとハルト様を見る。部外者にその様な機密事項を知られるのは良くないと思ったのだろう。
「セオに私の傷跡を全て消してもらいました。王宮の池に落ちた時についた額の傷も。だからもう責任を取ってもらう必要は無くなりました」
「え、なんですって?」
エヴァの言葉に驚いて私は急いでエヴァの額を見るとそこには傷跡ひとつなかった。そしてエヴァの右手を見るとやはり醜く引きつれた傷がなかった。外出していたのに、エヴァが手袋をしていないことが初めてだと気づく。そしてエヴァの右手にはハルト様の瞳と同じ色の指輪が嵌っていることに驚いた。
「ハルト様、ありがとうございます。けれど私たちは貴方様にお渡しする十分なものをお渡しできません。何年かかるかわかりませんが必ずお支払いさせていただきます」
「いえ、リザム子爵。お気になさらず。対価に関してはエヴァンジェリン嬢からいただく約束をしております」
驚いてエヴァを見ると、エヴァは何かを決心した様な顔で私たちに告げた。
「知っていたことですが、殿下の気持ちは私にありません。むしろ私は殿下の恋路の邪魔者です。そして今回の事件もありました。社交界では今回の件で私は汚れた女だと思われると思います。これ以上私が殿下の婚約者ではいられませんし、次の婚約者もできないと思います。
だから殿下と無事、婚約解消をした後は私は神殿に身を寄せようと思っております。私は魔力が高いと昔から言われてました。恐らく二位にはなれると思います。セオが私の師匠となってくれるそうです。それで、この怪我を治して下さったのもそのお手本として無料になるそうです」
「神殿に所属するですって?そんな!」
「えぇ、お二人が心配するのも当然だと思います。けれど殿下がどうして私になんか執着するか分かりませんが、私は殿下の婚約者でい続けるのはとても辛いのです。
今回の件で恐らく婚約解消できると思います。下手をしたらあちらから破棄されるでしょう。けれど殿下が私を婚約者にしたのは何か思惑があるのだろうと思います。それが何かはわかりませんが、もうこれ以上彼に関わりたくありません。神殿に入れば私に接触することは難しくなりますし、二位になれば下手な貴族よりも高い地位を得ることができます」
「ええ、私が責任を持って彼女を守りますのでご安心ください。どうか彼女の神殿入りを許可してくれませんか。それに神殿に入るとこの国の籍から抜けて、サリンジャの民になることになりますが、一切関われなくなるということではありません。実際に私も実の母を王都に住まわせておりますし、いつでも好きな時に会いに行けます。
こう言ってはなんですが…、彼女の生い立ちと経歴を考えると神殿に入った方が安全だと思います」
「それは…、少し考えさせてくれないかな」
「お義父さま、お義母さま、私もそれを望んでおります。もし二位にすらなれないのであればまたどこかに嫁ぐことも考えます。
けれど私はもうこれ以上流されて生きていきたくないのです。今度こそ自分の未来は自分で決めたいのです」
エヴァは私たちに一生懸命懇願している。
「エヴァ、私たちに気兼ねをするつもりで決めたわけじゃないのかい?」
エヴァはこくりと頷いた。その瞳は強い意志を秘めていた。
「そうだね、確かに二位になれるなら神殿に身を寄せたほうが将来的にエヴァのためになるかもしれない。けれど二位になれるという保証はないと思うのだが…」
「その時は責任を持って私がお二人の元へ彼女をお送りします。ハーヴェー神に誓います」
本当ならエヴァを手放したくなかったが、けれどそれを渋ったせいでエヴァが危険な目に遭ったり、人に馬鹿にされるのはもうごめんだ。
二人が言う様にエヴァが二位にさえなれれば確かに安泰ではある。そしてハルト様は昨日からエヴァを守ってくれて、大事にしてくれている様に見える。エヴァを任せてもいいのではないかと思えたのだ。私とヨアキムは目を合わせて頷いた。